第1話 平穏な日常の終焉①
いよいよ、本編スタートです!!
時は少しばかり遡りまして、一月前。
三の君様の運命を変える文が届く、前日のことでございました。
底冷えするような冬が過ぎ去り、ようやく麗らかな日差しが差し込み始めた、そんなのどかな春の昼下りの宇治の邸でのこと。
「姫様っ、姫様っ!!」
昨晩は、時間を忘れて書物を読みふけっておられたせいで、お昼前までお休みになっていらした三の君様が、朝餉をすっ飛ばして昼餉をお召し上がりになり、ようやく人心地ついて、またいつものように、三の君様が考案なさった、限りなくぐーたらできる、廂の間に設置した、脇息を置いた通常の倍ほどの大きさの褥で、書物を読み始められてからしばらく経ったころ、いつもは書物をお読みになっている三の君様のお邪魔は、一切なさらない乳母殿が、めずらしく三の君様に声をおかけになりました。
「何よ、乳母や。騒々しいわね。今イイところなんだから、少し静かにしてちょうだいな。」
小袖に袴を穿いただけという下着姿に等しい、深窓の貴族の姫君にあるまじきお姿で、その上、母屋ではなく、廂の間という、京の都の、三条の左大臣邸であれば、許されるはずもないところで脇息に凭れかかって、書物をお読みになっていた三の君様は、いかにもめんどくさそうに、ゆったりとした動作で顔を上げて、視界に入った乳母殿を一瞥なさり、素っ気なくこう仰って、すぐに視線を書物に戻してしまわれました。
因みに、現在の三の君様の愛読書は『日本書紀』。とてもではありませんが、フツウの貴族の姫君がお読みになる書物ではございません。
もっとも、現在の三の君様は、している恰好からおられる場所の、何から何までフツウの姫君とは言えないのでございますが。
素っ気なくあしらわれた乳母殿は、始めに、三の君様のお顔を凝視なさり、次に、三の君様のお手元の書物に目をはしらせ、最後に三の君様の恰好をご覧になって、10年分の幸せが一気に逃げていきそうなほどに、深い深〜い溜め息をおつきになり、気を取り直すように一つ咳払いをなさってから、やっとのことで口を開かれました。
「姫様。この乳母め、姫様をお育て申し上げまして、早18年。今の今まで黙っておりましたが、もう我慢なりません。今日という今日は言わせていただきます!!」
普段は少し小うるさいところはあるものの、基本的にはおっとりしていて、小さい頃から全幅の信頼を寄せている乳母殿のあまりの剣幕に、流石の三の君様もびっくりなさったのか、書物から顔を上げて、乳母殿を凝視していらっしゃいます。
「姫様。姫様も今年で御年18。すでにお子様の1人や2人、いらっしゃっても不思議でないお年であられるのに、お子の1人どころか、文一つ交わす殿方すらいらっしゃらないだなんて‼なんとお情けない!!乳母めは恥ずかしくて恥ずかしくて、姫様の父君様と母君様に顔向けできませぬ。いったい、どこでお育ての仕方を間違えましたものか・・・。」
溜まりに溜まったものが噴き出すように、乳母殿は思いつくがままに仰りたいことを吐きだしておられましたが、だんだんとご自分の言っていることに虚しさを感じ始められたようで、言い終わる頃には乳母殿の辺り一帯は、どよよ〜んとした空気で覆われておりました。
実はこの乳母殿、流石は三の君様を生まれた時からお育てしているだけあって、三の君様が14歳を過ぎる頃には、すでに薄々と三の君様の企みに気づいておられました。しかし、これは目にいれても痛くない、実の娘以上に可愛がってきた姫様。そして、この時は状況をあまり深刻に考えておられなかった乳母殿。
今はまだだけれど、姫様も近いうちに素敵な殿方に見初めていただけるのでは。なんせ、うちの姫様はあんなに才色兼備で由緒正しい、極上の姫君ですもの。大丈夫よ。
などと、まだ見ぬ殿方に一縷の望みを託されてから、早4年。もうそんな悠長なことは言ってられないと、可愛い姫様に心を鬼にして仰ったのでございました。
ところが、当の三の君様ときたら、乳母殿のお心を知ってか知らずか(おそらく前者だと思われますが)、
「まあまあ、乳母やったら、いきなり何を言い出すかと思えば・・・。それに、そんなに落ち込まないでちょうだい。私は、現状にとっても満足しているんですもの。乳母やが父様や母様に負い目を感じる必要なんて、どこにもないのよ。」
とまあ、邪気の欠片も感じさせないような微笑みを浮かべられながら、いけしゃあしゃあと宣われたのでございます。美しい顔に反して、お腹の中は真っ黒な三の君様なのでございました。
これには、流石の乳母殿もカチンとなさられたようで、いつもならば、三の君様が何か乳母殿の言うことに口をはさまれると、途端に言いくるめられてしまうことがわかっているため、仕方がない、とすぐに諦めておしまいになるのでございますが、今日は、何がなんでも三の君様にもの申すと、乳母殿も腹をくくっておられ、めずらしく三の君様の言に噛みつかれたのでございます。
「何を呑気なことを仰っているのですか、姫様!よろしいですか!?女子の幸せは立派な殿方と結婚なさって、お子様をお生みになることでございますよ!それなのに、姫様ときたら、18にもおなりになって、お子様はおろか、夫君どころか、文を交わす殿方の1人すらいらっしゃらない。挙句、宇治の邸にこもって、毎日毎日、日がな一日ぐーたらぐーたらお過ごしになって。これでは、寄ってくる殿方がいらっしゃらないのも当たり前でございますよ!今、世間様で、姫様がなんと言われているのかご存知ですか?まあ、噂というより、たまのたま〜に話題に上るという程度だそうですが。左大臣家の幽霊姫ですってよ!!その上、人前に出てこないのは、姫様がとんでもない醜女だからとか。本当は、美姫で名高い左大臣家の他の姫君と比べても遜色ないどころか、勝るほどの姫様でいらっしゃるのに!!無礼千万ですよ!!かくなる上は、汚名返上のため、姫様が周りがあっと驚くくらいにすばらしい殿方と結婚なさるしかありませんよ。どうか早く結婚なさって、老い先短いこの乳母めを安心させてくださいまし。このままでは、私めは死んでも死にきれないじゃあございませんか。夜な夜な姫様の元に化けて出る羽目になっても知りませんよ。」
これをお聞きになったら、さしもの三の君様といえど、多少なりとは考えを改めてくださるのではないか。見るからにそう期待して三の君様を見つめる乳母殿の切実なる視線もどこ吹く風。あくまでもゴーイングマイウェイな三の君様は、ケロっとしたお顔で、
「何を言ってるのよ、乳母や。乳母やはまだまだ現役よ。でもそうねぇ、私が結婚しなかったら化けて出るだなんて、そんなこと言っちゃだめじゃない。」
ようやく、ようやく姫様もわかってくださったのだ!!
と乳母殿が感動して目を潤ませたとき、
「それじゃあ、乳母やはず〜っと成仏できないわねぇ。かわいそうに。」
乳母殿の淡い期待を打ち砕き、感動の涙も一瞬で引っ込めてしまう、清々しいほどブレない一言を、これまた清々しいほど美しい笑顔で宣われたのでございました。
「な、なんということを・・・」
淡い期待を打ち砕かれた上、三の君様のあんまりな仰り様に、乳母殿は三の君様の御前にもかかわらず、今にも、その場で倒れこみそうなっておられ、周りに控えておりました女房たちも、乳母殿に対して、同情を禁じ得ないのでございました。
長かったので、途中で切らせていただきましたm(._.)m