KISS
携帯電話をしまったライアンの隣でレナがつぶやく。
「──長い」
「悪い」チョコレートを食べようと箱に視線をうつすと、残りが三個になっていた。「──お前、何個食った?」
会うまえ、レナは八個食べていた。マシューと話しているあいだにさらに食べたらしいので、トータルで十二個ということか。
彼女は立てた膝に顔を伏せた。
「──眠くなってきた」
「眠くなってきた。じゃねえよ。アホか。食うなっつったのに、なに食いまくってんだよ。アホか」
「んー」目を閉じたまま、今度は上を向いた。「気分、悪い。ちょっと待って」
ライアンは完全に呆れている。「チョコレートで酔うなよ。アホか」
「んー。酔ってない。眠い。気分悪い」
「それを酔うって言うんだっつの」
自転車に乗せるにしても、これは帰れるのか。五分はかかる。
彼女は右手を出した。
「コーヒー、ちょうだい」
カフェオレだ。いや、コーヒーはコーヒーか。蓋を開け、彼女にペットボトルを渡した。
「こぼすなよ」
レナが飲む。飲む。飲む。
蓋を閉めたまま渡せばよかった、と後悔した。「いや、飲みすぎだし」
彼女は飲み終えたペットボトルを渡した。
「ん」
すっからかんになっている。買った本人ですらほとんど飲んでいないのに、飲みすぎだ。「帰れるか?」
「たぶん」
「お前はアホか?」
「うるさい黙れ」
「よし、帰れる。帰る」
立ち上がったライアンは、さっさと箱を紙袋に戻した。レナはまだ目を閉じて上を向いたままだ。酒に弱いという部分では人のことをとやかく言える立場にはないものの、ウィスキーボンボンで酔うというのはさすがに弱すぎだ。食べすぎだ。
「起きろって」
「んー。もうちょっと」
なにがなのか教えてほしかった。そしてどうすればいいのかも教えてほしい。バス停を通り越して送っていかなれければならないのか。送るのはいいとしても、荷台に乗れるのか。落ちる気がする。
「おーい」
「無理。まだ無理」
ライアンは諦めた。「んじゃ、脚おろせ」
「ん」
素直に従ったことにまず驚いた。再び紙袋を置くと、レナにまたがるようベンチに膝をついて、両手をベンチの背で支えた。
「ほれ、目開けてみ」
「やだ」
しぶとい。「この状況でもそれ、言えんの? お前が嫌がること、するぞ?」
彼がそう言うと、レナの目がゆっくりと開いた。顔がすぐそこにある。
だが反応は薄かった。「──なに、してんの?」
「お前が起きねえから」
「殺されたいの?」
怖いほどに冷静だ。お前はベラか。ここまですれば、ほとんどの女は落ちるのに。
「殺されはしねえ。起きて帰んのとキスすんの、どっちがいい?」
「──キスって言ったら、するの?」
ライアンはぽかんとした。いや、レナは言わない。言う女ではない。やれるもんならやってみろ、という意味で悪魔ように微笑むベラなら言うが、レナは言わない。それどころかここは、殴るか蹴るかするところだ。酔っているせいか、レナが変だ。
彼女はまた訊いた。「するの?」
彼は少々困っていた。レナは酔うとこれほどバカになるのか? するのかと訊かれれば、状況的にするしかないような気がする。できるかと訊かれれば、今さらだ。
彼は質問を返した。「するって言ったら、お前はすんのか?」
「さあ。今さらだし」
おいおいおいおいおい。
バカになっている。レナがバカになっている。アホを通り越してバカになっている。さてどうしよう。
レナが微笑む。「する度胸、ないでしょ」
ライアンはまた、静かに苛立った。ムカつく。「お前、酔ってるだろ」
「酔ってない。眠いだけ。でも、おかげで眠気は冷めた。もう平気。帰れる」
「明日になったら忘れてる、とかだろ?」
「普段から寝て起きたら忘れることもあるけど、どうかしら」
「んじゃもっかい訊く。キスするって言ったら、お前はすんのか?」
「さあ」
答えは変わっていない。というか答えになっていない。
「お前、オレのこと好きなの?」
「ううん、大嫌い」
知っている。だがそれでも、とんでもなくムカつく。
「同感だ。オレもお前、大嫌いだ」最低最悪の、クソ女。
彼女はずっと、微笑んでいる。それも、穏やかすぎる表情で微笑んでいる。
「知ってる」
好きだという感情はわからなくても、嫌いという感情は知っている。
「今さらだし。特に意味はないし。っていうか、全然意味はないし。寝て起きたら忘れろ。オレもそうする」
返事を待たず、ライアンはレナにキスをした。
深くもなく、長くもなく、でも、短くもないキス。
──なんとも、思わない。
ゆっくりと唇を離すと、ふいにレナの口元がゆるんだ。
かと思えば、彼女は笑いだした。
ライアンはベンチをおりた。「なんなの、お前」
身体を曲げ、さらに笑う。「だって、だって──」
どうやら壊れたようだ。
「相変わらず、ドキドキもなんにもしないんだもの。やっぱり無理なんだなと思って」
その意見には彼も同感だった。「安心しろ。それはオレも一緒だ。興奮が微塵もねえ」
彼女は笑いながら身体を起こした。
「なぜかしら。気持ちがなくても多少は、ドキドキするものだと思ってた。でも、全然──」笑う。笑う。笑う。
バカがさらなるバカになったらしいので、ライアンはレナの前にしゃがんだ。
「もう一回するか? 減るもんじゃないし、キスくらいならいくらでもしてやるぞ?」
そう言うと彼女の笑いが少し、おさまった。
「何回しても同じだと思うけど」
「何百回しても同じだろうな。何千回でも同じ。お前相手じゃ一生、ドキドキ感なんて味わえない気がする」
身体を曲げてレナが微笑む。
「一生無理ね。あなた相手にドキドキする自分が想像できない」
ここにも同感だ。「オレ以外にはドキドキしてるわけ?」
「それなりに」
初耳だった。「好きな男?」
「そう」
ライアンはその相手とやらに同情した。そんな不幸な男がいるのか。
「だからお前はオトコつくんねーわけだ」
知っている限りではそんな気配はないのでおそらく、自分の知らない相手で脈なしなのだろうと彼は推測した。
「そう。いらない。一生片想いしてるの」
当たりだ。「寂しい女だな」
「あなたもでしょ」
彼はまたむっとした。「とりあえず、帰るぞ」立ち上がる。「コンビニ寄ってかないと」
「肉まんあったら奢ってくれる?」
「太るぞ」
「平気」
けっきょく、彼らは何事もなかったように話をしながら自転車でコンビニに行った。レナを家まで送ると、ライアンはひとりバス停まで歩き、家に帰った。