THE ONE
海は、なぜあんなに寒かったのだろう。こちらも寒いが、海ほどではない気がする。
タクシーを降りたライアンは、橋のそばにある坂からボードウォークを見下ろした。そしてベンチにボブレナを発見した。橋の真下に近い、あまり明るくない場所だ。彼女が座っている場所から少し距離をおいたところにも、ベンチや外灯はある。ただ、相変わらず人がいない。昼間はもちろん、同じ時間帯でも、夏はもう少し人がいたと思うのだが。
ふと、ライアンの足が止まった。
大晦日以来、彼女に会っていない気がする。いや、そんなことを考えることがまずおかしい。これほど短いスパンでふたりで会うということがもう、おかしいうえ、普段なら電話すら、それほどしない相手だ。
だが電話で連絡をとりあっていたせいで、気づかなかった。どういう顔をして会えばいいのだろう。電話をするのと直接会うのとでは、やはり違うらしい。
彼は再び、レナのほうへと歩きだした。今度は音をたてないよう、慎重に。タクシーのドアの音に気づいたかもしれないが、おそらく振り返ってはいない。
背後から首に手を伸ばし、なんの前触れもなく、ライアンはレナの首を両手で掴んだ。瞬間、彼女の身体は驚きに震えた。ゆっくりと振り返り、彼を見上げる。
「──死ぬかと思った」涙目だった。
ライアンは笑った。「悪い」
手を離してベンチをまわりこみ、彼女の左隣に腰をおろす。ベンチは、あぐらをかけないので好きではない。硬い。なので彼は脚を立てた。
「で?」
レナはふたりのあいだにあるビニールの赤い袋を示した。「それ」
彼には見覚えがあった。だがなにも書かれていない。おそらく四角く、それほど厚みのないものが入っている。
「なに」
「まだ、見ちゃダメ。家に帰ってから」
「わがまますぎだろ」
「ごめん。でも、今見たら、たぶん怒るから」
「は? わざわざ怒らせるモンを持ってきたわけ?」
「違う。そうだけど、そうじゃない。とりあえず、家に帰ってから」
言い合うのが面倒なので、彼はさっさと話を済ませることにした。「エリカは転校をやめるらしい。なんか、もういいやっつって。どっかで仕事するとか言ってた」
「──意味が、わからない」
「安心しろ。オレもわかってないから。返事は? した?」
「した。でも、返事がなかった。次、もうひとつ送ってみたら、エラーが返ってきた」
笑える。「嫌われてやんの」
「──だよね」
そうつぶやくと、レナは立てた膝を抱えこんだ。
冗談も通じなくなったのか。「“いやな思いさせてごめんね。学校案内してくれて、メールくれて、大晦日に遊んでくれて、ありがとう。ほんの少しだったけど、楽しかった。ありがとう”。だってさ」
彼女はきょとんとした。「エリカが?」
ライアンは空を見上げた。昼間は曇っていたのに、空には星が出ている。
「そ。夢だとでも思っとけ。オレはそう思ってる。どこでか知らないけど、高校行くのやめて、仕事するってさ」
「──意味が、わからない」
「だから、夢。ただの夢」終わってみれば、実感がない。なんだったのか、さっぱりわからない。レナと喧嘩になったことまでが、あほらしく思える。「忘れろ。オレも、そうする。そうするって、約束した」
少し、沈黙があった。
レナが切りだす。「──夕飯、は?」
「なんもなかった。親父たちは食ってきたとか言ってるし。嫌がらせ」
「そ。なんか持ってくればよかった」
「いい」そう答えると、彼は上を向き、目を閉じた。「今、そんな気分じゃない」
「──じゃあ、どんな気分?」
彼の瞼の裏に浮かんだのは、ひとりの女。
「──会えなかった女に、会いたい気分」
「──意味が、わからない」
ライアンは笑った。
「いいよ、わかんなくて」
あれから、一年に一度は、あいつの顔を見なければ、心配でしょうがない。
彼のジャケットのポケットの中、手の内側で携帯電話が鳴った。だが彼は反応しない。
「電話、鳴ってる」レナが言った。
電話で騒ぐ気分でもない。「誰だと思う?」
「知らない」
あたりまえだ。彼は携帯電話を出して画面を確認した。そして、自分の目を疑った。
「ちょ、悪い」そう言って電話に応じる。
「ハイ、ライアン」
その口調がまた、彼を苛立たせた。「なにがハイだ。アホか。お前、なんでこねえんだよ。去年、あんだけこいっつっただろ」このノリが、本当に腹立たしい。
だが彼女は笑った。「ごめん。仕事が忙しいんだって。なに、そんなに私に会いたかった?」
心の底から、うざかった。
だが。「──会いたかった」左手で髪をかきあげる。「今日は、特に」
思い出したくもない光景──彼女が死にかけていた時が、なによりいちばん、怖かった。
「──うん。ごめんね。あんたがいちばん、私のこと、心配してくれるよね。でも、何度も言ったじゃない。私は大丈夫だって」
“大丈夫”。
彼女はいつもそう言って、笑って、周りに、身内に、家族に、自分に、苦しいのを、隠していた。
「わかってる。けど、頼むから、一日くらいどうにかしろよ。五分でもいいから」
反省しているのかいないのか、彼女はまた笑った。「そうね。がんばる。来年こそは絶対。約束。で、今、どこ?」
「今? ハーバー・パディだけど。ダチといる」
「デート?」
「違うし。アホ」
「ジャック?」
「違う。アホ」
「アホアホうるさいな。今ね、っていうか今日、昼すぎからみんなの家、まわってるんだ。つい話しこんじゃって、時間なくなってんだけど。で、最後にあんたの家行ったのに、あんたいないじゃん。メグたちには会ったんだけど。しょうがないから、会いに行ってあげる」
ライアンはぽかんとした。「は? くんの? 今から? ここに?」
「だから、どこか教えてって。行くから。お金、欲しいでしょ? ん? 私よりは、お金のほうが好きだよね? あんた可愛いから、奮発してあげる。ハリーたちには内緒ね」
──金。「ふたりぶん、ある?」
「は?」
「だから、今ダチといるって言ったじゃん。ジャックじゃないけど。だから、ふたりぶん。オレを心配させた代金」
彼女はまた笑った。「しょうがないな。その代わり、あんたのぶんの奮発、減らすからね」
「いいよ」元気なら、なんでもいい。でも金は欲しい。「橋、わかるだろ? あれの、そっちから見て左側にあるボードウォークにいる。着いたら電話して。上まで行く」
「オッケー。待ってて」




