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強い女 3


数日間、私は直樹の病室を訪れなかった。

リョウと会うことも勿論なく、昼間は寝るか女友達とご飯へ行き、夜はいつも通り仕事へ向かった。

罪悪感は堪らなくある、だけど少しの間だけでいいから病室から、直樹から、離れたかったのだ。



だけどある日、検査の結果が出たとの連絡を受けて朝一番に病院へ飛んだ。

久しぶりに見た直樹は随分と痩せこけていた。


「今週中には退院できるってよ」


息を切らして病室に飛び込んだ私に直樹は言った。まるで、吐き捨てるように。

退院できるという事は検査結果に以上はなかったという事。辛い抗がん剤治療も受けなくていいのだ。

なのに直樹は鋭い瞳で私を睨みつけている。

明らかに雰囲気の悪い直樹の近くに看護婦と医者が困惑した表情を浮かべて立っていた。

何があったのか、棚の上のものはほとんど床に落ちている。リモコンも、花瓶も、枕も。


……直樹。名前を呼ぼうとしたけど声にならなかった。

彼が堰を切ったように叫んだ。


「テメェ何で見舞いに来なかったんだよ!今まで何してたんだよ!」


喉が切れるのではないかと不安になるくらいの金切り声だった。

直樹の怒鳴り声に反応して私の体が小さくなる。


「おいっ聞いてんのか!テメェ……俺がこんな時に他の男に色目使ってんじゃねぇぞ!」


烈火の如く怒鳴り散らす直樹。頭の中が真っ白になり、思わず一歩下がった。


殴られる……また、殴られる。食器が割れ、壁時計が壊れ、壁に穴が開き、直樹の右腕が私の顔に――。


自分の泣き声と直樹の怒鳴り声が同じくらいの大きさで響いた。

瞬間、慌てた先生や看護婦が直樹の体を押さえつける。私はその場にしゃがみ込み、あとからあとから押し寄せてくる涙を拭うことも忘れていた。


こわい。こわいこわいこわい。

直樹が退院する。

また、殴られる――





直樹は強制的に鎮静剤を打たれ眠った。

軽いものだから一時間くらいで目を覚ますらしい。

先生や看護婦が去り際に何か言ったけど覚えていない。こんな時にリョウがいてくれたらまだましだったのに、その彼もいない。


私は俯いたまま、直樹の寝顔さえ直視出来なかった。床に散らかった直樹の私物を片付け、割れた花瓶の破片を拾ってビニール袋に入れる。

ひと通り片付けてから病室を出ようとした時、リョウが入ってきた。時間は昼の12時。きっと仕事の昼休みに抜けて来たんだろう。


「あ、直樹さん寝てるんすね」


いつもと変わらない日に焼けたリョウの顔を見た途端、また涙が溢れた。


「え、あの、どうしたんすか?」


状況が分かっていないリョウに先ほどの事を説明すると、彼は苦い顔をして直樹の方を見た。何と答えていいか分からないのだろう。

重々しく、彼は口を開いた。


「多分直樹さん、抗がん剤治療受けたかったんじゃないかな」


「それ、どういう……」


「自分が退院したら、京子さんが離れていくって分かってるんですよ。だからそんなに取り乱したのかも」


「いくら直樹でも、それはないよ」


「さぁ。本心は分かんないっすけど……それ程直樹さんにとって京子さんの存在は」


「リョウは……冷静だね」


第三者だから、とは言わなかった。


私だって、いい彼女を完璧に演じれていたわけじゃない。勘の鋭い直樹が気付くのも当然だ。偽善者、と彼は私に向かって言い切ったわけだし。


だけど、その偽善に縋りついてるあんたは何なのよ。


素直に喜びたかったのに。偽善でも同情でも、退院できることを心から喜びたかった。直樹と一緒に。


「……別れるよ、私」


「その方がいいっすよ。京子さんにとっても」


リョウが私の手を握った。

私は我に返り、慌ててその手を引っ込めた。酷く切なげな表情で彼が私を見るからいたたまれなくなって病室から逃げた。

私、逃げてばっかりだ。



病室へ戻ったのは30分後だった。しばらく近くの喫茶店で時間を潰した。本当はリョウに会うのも気まずいし、そのまま帰りたかったけど。


音を立てないようにそっとドアを開ける。リョウの姿はなく、直樹はまだ寝ているようだった。

私はいつものパイプ椅子に浅く腰掛け、今度はその寝顔をちゃんと見た。

だめだ。また、泣きそう。

でもこれは、何の涙かな。


「京子」


寝ている筈の直樹の口元が動いた。彼はゆっくり瞼を開けると天井の方を見つめる。そして、私の方に視線を動かした。

暫く沈黙が流れた。

廊下を歩くスリッパの音が微かに聞こえてくる以外、何も響くものがなかった。



「京子。ごめんな」


「……」


「頼むから、離れないで」



滅多に泣かない直樹の瞳から零れた涙。

胸がキリキリと痛んだ。吐きそうなくらい。

私は両手を差し出した。

握ったその手は酷く冷たかった。リョウを拒んだ私の手が今、直樹の手を掴んでる。

偽善者、と誰かが言った。







「それ、同情じゃん」



直樹の事を報告すると、ねねは私に向かってそう言った。予想していた台詞だった。

確かに、そうかもしれない。もう直樹に対する感情は愛なんていう綺麗なものじゃない。もっとずるいものなのだろう。

だからこそ思うのだ。

情は、愛よりも重い。直樹への情が私の体にのしかかっている。

重すぎて、私なんかの力じゃ容易く振り払えない。


思わず溜め息が漏れた。ねねが呆れたように苦笑いする。

ふと、トイレから出てきたマリアの姿が視界に入った。白いドレスを纏って颯爽と歩く彼女は、ホストに騙されている馬鹿女には見えなかった。


けど、私はマリアとは違う。

殴られても縋りついて追いかけるほど愚かじゃない。

もしも直樹が病気になっていなければ、きっと今頃別れてた。


「京華さん。指名のお客様来られました」


黒服に呼ばれ、脳天気な顔してテーブルについている林を見るとまた溜め息が零れた。

頭を切り替え林の元に駆け寄る。


会いたかったよ、京華。と林が嬉しそうに言う。

離れないで、京子。と聞こえる筈のない直樹の声がした。








予定より少し伸びて直樹は退院した。

朝迎えに行って、タクシーに乗って二人で家に帰った。

久しぶりの我が家に直樹は心なしか、穏やかな表情を見せた。機嫌はそう悪くないようだ。


荷物をほどき、スポーツバッグに詰めていた直樹の私物を片付け、ついでに台所にあった直樹の灰皿を捨てた。もう必要ないだろう。


「ねぇ直樹」


ソファーに寝転んでいた直樹が首だけをこちらに向ける。

彼は何かを感じとったのか、私が喋り出す前に、底抜けに明るい声で旅行の話を始めた。


「ハワイもいいけど、グアムも安いんだよな。京子はどっちがいい?」


質問に答えることができず黙り込んでしまった。


「俺が昔ハワイ行った時は台風と被っちゃったんだよなぁ。秋頃だったかな?もう最悪だったよ」


必死で沈黙を繋ごうとする直樹が別人に見えた。


「……直樹、退院したばっかで海外なんて行って大丈夫かな」


「大丈夫だって。あ、それじゃあ国内にするか。俺、四国とか行ってみたい」


「ねぇ直樹。……別れようか」



一瞬にして静まり返った。

直樹が私をじっと見詰める。

私も同じように直樹から目を離さなかった。

ふと、高校時代のことが脳裏をかすめた。

私も直樹もまだ制服を着ていた頃。

私は今より化粧気がなく、直樹は今より髪が長かった。

直樹のママチャリの後ろに乗って、毎日一緒に帰っていた。タイヤが砂利道の上を走るたびにお尻が酷く痛かったのを今でも覚えてる。


「俺退院したばっかで、京子は何でそんな事が言えるわけ?」


「直樹は……変わったよ」


「俺は俺だよ。それに、京子だって変わった」


「……そうかもしれないね。私もう、直樹と一緒にいるのが辛い」



がしゃんっ、と大きな音が響いた。テーブル横のスタンド照明が倒れた音だ。直樹が蹴ったのだ。

怯みそうになったけど、奥歯を噛んでこらえた。頑とした表情の私に、直樹の表情が少しだけ戸惑いの色を見せる。



「お前、俺が病気だから一緒にいたとか言わねえよな」



私が言葉を探していると、直樹は立ち上がって倒れたスタンド照明を再び蹴った。

そして何も言わずに私に詰め寄り、その痩せた腕を振り上げて私の髪の毛を乱暴に掴んだ。

痛い、と思わず声を上げる。引っ張られた髪の毛じゃない。心が、痛い。


「そうやって、また私を暴力で縛り付けるの」


思ったよりも声が震える。

学生服を着て、はにかんだように笑っていた少年の面影はもうどこにもない。


「直樹は何で、変わっちゃったの……」


何が直樹を変えたんだろう。東京に出たのがいけなかったのか、大学生活がうまくいかなかったからなのか、はたまた私が水商売なんてしてるから?

その中の全部が理由な気もしたし、どれも違うような気もした。


鋭い目つきの彼が、口を一文字に結んで私を睨みつける。泣きそうな顔してた。


殴られることを覚悟していたけど、直樹はそのままゆっくり手を離した。

言葉を発さないまま、彼は私を抱き締めた。

どうしてそうしたのか分からないまま固まってしまった。直樹の行動の意味を理解する前に私も恐る恐る直樹の体に腕を回してみた。

直樹のその体が余りにも細く、思わず泣きそうになった。

直樹も泣いているのかもしれないと思ったけど私の首もとに顔を埋めているのではっきりとは確認できなかった。


「だってお前が……俺から離れていきそうで、」


「私は離れなかったよ。殴って怒鳴ったりしなくても、私はいつだってあんたのそばにいたのに」


直樹の肩越しに、倒れたままのスタンド照明が見えて思わず目を瞑った。

そして思った。私は同情で直樹のそばにいたんじゃなかったのだと。

だって私は、癌になった直樹を可哀想だなんて一度も思っていなかった。

私がそばにいたのは、病気をきっかけにしてでも元の直樹に戻って欲しかったんだ。暴力を振るう前の、優しかった直樹に。私がそばについて看病をすれば、直樹はそれを受け止めて大事に思ってくれるんじゃないかと、浅はかにも――。


言葉はなくとも伝わる。

ぎゅっと力を込める直樹の腕が、愛してると言っているような気がした。

応えるように私も抱き締めた。


あぁそうか。

もっと早くに、こうしていれば良かった。








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