強い女 2
「おはよう」
開きっぱなしのドアをノックすると、開かれたカーテンの向こうから直樹が顔を出した。
その笑顔を見てほっと胸を撫で下ろす。
良かった、今日は調子が良いみたいだ。
「今日はお土産持ってきたよ」
病院へ来る途中に寄ったコンビニで直樹の好きな漫画の新刊を見せると、また笑顔になる。
あぁ、良かった。と再び安心した。
直樹は肺癌だ。
入院してもう随分経つ。
肺癌といっても早期発見で、手術も既に終わったのだけど、その後の検査が長引いているのだ。
もし検査に引っかかれば、抗がん剤治療が始まる。
直樹は私が渡した漫画をパラパラと捲りながら、機嫌の良い声を出した。
「俺さぁ、考えたんだけど」
「なに?」
「退院したら旅行にでも行こうか」
「旅行……何でまた」
「だってもうすぐ俺ら付き合って4年記念だろ」
「5年だよ」
「あっ……ごめん」
(しまった)
どっちも同じようなもんだよね、と私が言うと直樹は再び笑顔に戻る。
そして枕元からあるものを見せてきた。派手な文字でハワイと書かれた旅行パンフレット。
嬉しそうな直樹の笑顔を見て、胸がざわついた。そうだね、と曖昧な返事をした私から動揺を読み取ったのか一瞬直樹の目元が曇った。
私は慌てて笑顔を作った。まるで取り繕うように、楽しみだねと。
やばい。やばい。どうしよう。直樹が笑顔に戻らない。
「ちょっと飲み物買ってくるね」
直樹を残して病室を出た。白々しかったかもしれない。それでも気まずい沈黙が流れる前に、最悪直樹が癇癪を起こす前に、その場を去りたかった。
一階まで下り、そのまま外の喫煙場所まで駆けた。
落ち着かない指先を抑えるように、ハンドバッグからバージニアスリムライトを取り出して火を点けた。
吸って、吐いて、深呼吸。
今し方吐き出した煙が青空へ上っていく。それを見ていると、男が一人、前方から近付いてくるのに気が付いた。リョウだった。
「来たんだ」
「京子さんこそ、早いですね」
私よりも頭ひとつ分背の高いリョウを見上げた。逆光に映るリョウの顔はよく見えないけど、多分笑ってる。
左耳の太いピアスを揺らしながらリョウが私の目の前に立つ。
「直樹さんに会いました?」
「うん。今日は機嫌良いよ」
ちなみに昨日は最悪だった。何を話しかけても返事をせず、それどころかめげずに向き合おうとする私に対して、枕と共に彼が投げつけてきた言葉は『うるせぇ偽善者』だった。悔しくて、その日は泣きながら帰った。
でも、その言葉はあながち間違いじゃない。
「直樹さん、急に怒りますもんねぇ」
天気の良い朝にぴったりの、呑気な声でリョウが呟いた。友達の少ない直樹にとって、リョウは頻繁に見舞いに来る唯一の後輩だ。高校の時、二人は同じサッカー部だった。
「そろそろ行こうか」
背の高い灰皿に煙草を押し付けて私は言った。院内へ歩き出してすぐ、追いかけてきたリョウの声。
「別に無理しなくてもいいんじゃないですか。退院したら、別れるつもりなんでしょ」
くるりと後ろを振り向く。相変わらず逆光の、リョウの姿。
「うん、そうだよ。でも、分かんない。さっき直樹に退院後の旅行の話されて、で、私、逃げてきちゃった」
私が急に病室を抜けて不機嫌になっているかもしれないと、若干怯えながら戻った。
だけど私の後ろにいるリョウの姿を見て、直樹はかろうじて笑顔を見せてくれた。だけど長い付き合いだから私には分かる。きっと、怒ってる。
直樹とは同じ高校の同級生で、18の時に付き合った。
卒業と同時に二人で東京に出た。大学に進学する直樹に私が着いて行ったのだ。
同棲し始めたのは一年が過ぎた20歳になってからだ。
一緒に暮らし始めて2年。直樹は変わった。大学も辞め、パチンコと酒にはまった。私がキャバクラで稼いだ給料をかじりながら、適当にアルバイトを転々とする直樹にイラついて私も小言が多くなった。
私が別れを切り出すたびに、直樹はそれを暴力で抑えつけようとした。
最初は食器が割れただけだった。
次には壁に穴が開き、私のお気に入りの壁時計が壊され、そして遂に直樹の拳が私に向いた。
幼い子供のように震えている私を直樹は力強く抱き締めた。
ごめん、離れないで――と。
それは幾度となく繰り返され、本格的に別れようと決心した直後、直樹の癌が発覚したのだ。
「じゃあ俺、そろそろ仕事戻ります」
それまで直樹と喋っていたリョウの声にはっと顔を上げる。
おう、と直樹は何事もなく答えた。
リョウは病室を出る時私を見た。心配そうに少し微笑んでから、彼はいなくなった。
二人きりになった空間で、少しの沈黙が流れた。パイプ椅子に座った私は膝の上でギュッと拳を握る。そこで初めて、手に汗が滲んでいた事に気が付いた。
「今日も仕事だろ?」
先に口を開いたのは、直樹だ。
うん、と小さく頷く。
「もう帰れば?」
「……うん」
解放された――そう思った。
「私だったら絶対別れるね」
待機中の部屋にねねの声が響いた。
雨の日曜日は客足が遠のく。客はまだ一組しかいない。
周りにいた子達がチラリとこちらを伺うように見てきた。その視線がそらされるのを待って、私は口を開いた。
「でも今弱ってる直樹を一人にしたら、どうなるか分かんないよ。自殺でもされたら……」
「その優しさにつけ込んでるんだよ。京華は甘やかしすぎ」
「でも」
「だってDVだよ?彼女に暴力振るうとかあり得なくない?今はいいかもしれないけど退院したら絶対また同じ事の繰り返しだよ」
そうかな、と私は答えたけどねねの言い分が正しいんだろうということは分かっていた。だって……直樹に蹴られた太ももの痣はまだ残ってる。
旅行の話をしたのも私を離さない為だろう。だけどあの時の直樹の笑顔は心からのものだって信じたい自分もいる。
ねねがまた何か言おうとした時、黒服が彼女を呼んだ。あとでね、と言い残して彼女は出て行く。
ねねがいなくなって少し経ってから、近くにいた女の子が寄ってきた。最近この店に入った年下の子。前は違う店で働いていたという、名前は……何だっけ。
「京華さんの彼氏さんって、DV系なんですかぁ」
話を聞いていたのだろう。
猫が舌なめずりするような話し方だった。必要以上に引いたアイラインが不自然に浮いている。
「そんな事もないんだけど、ね」
「へぇ。マリアの彼氏もそっち系なんですよぉ」
「そっち系?」
「あ、暴力系ですぅ」
そうなんだ、と当たり障りない答えをして携帯を弄るふりをした。こういう子は苦手だ。
あぁそうか、そういえばマリアとかいう名前だったなと違うことを思う。
「マリアは殴られても全然好きなんですけどねぇ。しかも彼ホストだからぁ、店来いって言われたら行っちゃうんですよぉ。馬鹿ですよねぇ」
馬鹿だ。それは彼氏じゃなくて色恋営業だ。マリアの顔をもう一度見た。馬鹿だ。確かにヘラヘラ笑うところとか、喋り方とか、いかにも騙されやすそうな雰囲気をしている。
それでも私は、健気だねと言葉を選んだ。正直、どうでもいい。
その日は結局、後から来たフリーの客四組ほど接客してから終わった。マリアと送りの車が被らなかったことが幸いだ。
今年で24。私、いつまでこんな仕事してるんだろう――。
車の窓越しに明らかな年の差がある男女が手を繋いでいるのを眺めながら、ふとそんな事を思った。