墜ちる女2
別れたはずだったのに、私の家を出てからも、元春は懲りずに毎日私の携帯に着信を残していく。
全て消去していたけど、2週間過ぎてもかかってくるものだから、なんだか可哀想になって出てあげた。
仕事からの帰り、電車を待つ一番ホームでのことだ。時間は20時半。
「おっ、やっと出たなー!」
電話口の向こうの元春は、いやに陽気な声でそう言った。別れる前と全く同じ。なんなの、この男は。
「今なにしてるんだよ?」
「なに?ちょっと、聞こえない!」
「だからぁー」
ホームに入ってきた電車の音と、元春の向こうでガヤガヤとうるさい人の声が重なって聞こえにくい。
私は電車の風に吹き上げられる髪の毛を抑えながら、電話口に向かって叫んだ。
「何の用?」
ちょうど電車が止まる。近くにいた数人が私をチラリと見ては視線を反らした。
「だから、今チカの職場の近くで飲んでるから来なよ」
「何で私が行かなきゃいけないのよ。私達別れたでしょうが」
「えー……うーん」
少し悲しそうに唸る元春。子犬がきゅーと鳴いたような幻聴に陥る。いつもそうだ。自覚がないからタチが悪い。
溜め息を吐きながらも、私はホームの階段を駆け上がった。
まぁいいか。明日は土曜。
「早かったじゃーん」
十五分後、言われた居酒屋に入ると、一番奥の座席にいた元春が、ジョッキを高々と掲げて言った。
既に酔っている。
元春は一人ではなかった。
向かいには知らない男の子。多分まだ若い。私はペコリと頭を下げ、元春の隣に座った。
男の子は、くしゃっという効果音がつきそうな見事な笑顔をこちらに向ける。
ぞっとする程綺麗な顔をしていたが、それを自覚していないような抜け感が漂っていた。
「チカ久しぶりー全然電話でねーもんなぁ。やっと会えたよー」
「元春さん、良かったね」
元春が子犬なら、この男の子は子猫だ。小動物に囲まれた私は何なんだろう。
元春が男の子を指差して言った。
「こいつ俺の後輩な」
「初めましてチカさん。僕は篠岡タイチと言います。元春さんにはお世話になってます」
礼儀正しい好青年。その綺麗な顔に見つめられると、どんな女もイチコロだろう。その証拠に、隣の席の若い女二人組は会話の途中で熱っぽい視線をチラチラとタイチに送っている。
私もつられて頭を下げた。
聞けば、タイチの歳は24だと言う。元春よりも年下なのだ。
「元春さんが言ったとおり、綺麗な方ですね」
近頃の24歳は、こんな丁寧な話し方をするのだろうか。
それにしても、女の私よりもずっと綺麗な顔したタイチに言われても嫌味にしか聞こえない。本人は、そんなつもりじゃないのだろうけど。
美少年という言い方は現実離れしていて好きじゃないけれど、その言葉がぴったりと当てはまる現実離れした男の子。白い肌にすっと伸びた鼻筋。涼しげな目元は笑うと子供のような表情を見せる。全体のバランスが恐ろしく良い。チラリと見えた小さな八重歯がそれはそれで絶妙な味を醸し出している。神様はこの子の顔の設計に随分力を入れたらしい。
それでいて彼はどこか、絵画の中から飛び出してきたような妖艶さを持っていた。
私はコートを脱ぎながら、店員にウーロン茶を頼んだ。
「お酒飲めないんですか?」
タイチが尋ねる。
「いや、今日は遠慮しとく」
この二人の前で酔っぱらうのもおかしな話だ。私はもともと、それほどお酒が強くない。
「なんだよー、ノリ悪いなぁ」
元春が寄りかかってくるのをやんわり返した。タイチはそれを見て笑っている。
話題の中心のほとんどは元春のことだった。
私に言っていた裏ビデオの販売でまぁまぁ儲けているらしい。
確かに、元春はサラリーマンをしていた時よりも生き生きしている。
枝豆をつまみにウーロン茶を飲みながら、好き勝手に話す元春の言葉を聞いていた。
「それでさぁ、そのオタク、なんてったと思う?」
やはり彼に、普通の仕事は無理なのだろう。そういう人間も中にはいるし、何もみんなが正規雇用者にならないといけないわけじゃない。
元春がそういう男だってことは、何となく解っていた。
よく考えると、結婚したいと思うほど好きなわけじゃなかったな。
冷静にそう見れば、何だか元春が可愛く見えた。私に兄弟はいないけど、弟を見守る姉の心境とはきっとこんな感じだろう。
少し前の自分は、結婚に焦るあまり元春自身のことをちゃんと見ていなかったのだ。
私と元春が話している間、タイチは嫌な顔ひとつせずににこにこしていた。
私が来て、退屈させてしまているのかもしれない。
「ごめん、私そろそろ出るね」
キリの良さそうなところでそう言った。二人はそれぞれ形の違う目を開いて私を見る。
「明日休みだろ?二件目行こうぜ!」
「いーや。酔っ払いめんどくさいもん。タイチくん、元春のことよろしくね」
そう言うと、先程まで笑っていたタイチは少し濁すような返事をして美しい顔に影を落とした。
不思議に思ったけど、私は気にせず立ち上がる。
じゃあね、と言おうとしたとき、タイチは声を張った。
「あの、僕も、行きます」
私は、なぜか初対面の男の子と駅までの道を歩いている。
「元春さん、今から彼女と会う予定なんですよ」
「え、あいつ今、彼女いるの?」
「はい」
人通りもまばらな夜道を歩きながら、タイチは言う。並ぶと意外に背が高い。
「あれ、嫉妬してますか?」
からかうような言い方にムッとした。
別に今更未練なんてないけど、何だか腑に落ちない。
私と別れてからまだ2週間しか経ってないのにもう新しい彼女を作っている元春。更に元カノである私を呼び出すなんて。
きっと、私と付き合ってた時にも同じようなことをしていたに違いない。
「で、今元春はその彼女の家に転がり込んでると」
「あはは。よく分かりますね」
「そういうのは、パターンだからね」
苦笑いで返すと、急にタイチがこちらを見た。暗くても分かる、彼の肌の透明感。
「いいなぁ、チカさんのそういうところ」
そう言って目を細める。
こんな年下に、からかわれていることは明白なのに。なのに、喜んでいる自分がいる。
「可愛げがないって、よく言われるわ」
「僕は可愛いと思いますよ」
「はは……」
男にそんなことを言われたのは、いつぶりだろう。
ほんの二年前までは、よく言われていたのに。だから私は、自分のことをまぁまぁイケてる女だと勘違いしていた。
でもそれは、ただ私が若いというだけだったのだ。
「チカさん、何か飲みますか?」
自販機を見つけたタイチはポケットから小銭を出した。
「いや、いいよ」
それよりも、と私はちらりと自分の腕時計を見る。終電まで、もうあまり時間がない。
「ねぇ、私急がないと……」
「あ、コーヒーでいいですか?」
「え、あ、うん」
呑気に二人分のコーヒーを買うタイチにイライラしながら、つい流されてしまった。
コーヒーを受け取って、少し早歩きで駅を目指すが、タイチの足取りは相変わらずのんびりしている。
こんなことなら、一人で出れば良かった。
もし終電を逃せば、ここから家までタクシーでいくらかかるだろう?割増だから高いかな。それか、どこかネットカフェで始発待った方が安く済むかな……。あぁ、でもめんどくさいなぁ。
タイチの話はそっちのけでそんなことを考えていると、駅の改札についた時点で終電の時間を過ぎてしまったことに気が付いた。
「終電……行っちゃった」
そう呟くが、タイチは少しも焦っていない。
改札には同じように乗り損ねた人が何人か立ち往生していた。
「行っちゃいましたね、チカさん」
ムカつく。あんたがモタモタしてたからなのに。
「ごめんなさい。怒ってますか?」
ふと、私の顔を覗きこんできた。
ガラス玉のようなその目が私の姿を映す。
別に、と言った私の声はすごく不機嫌に響いた。
「……タイチくんのせいじゃないし」
「僕のせいですよ」
「は?」
「どうしてもこのまま、帰したくなかったから」
……は?