火が消えるまで
私は、おばあちゃんが嫌いだった。
八月十六日の夜、鴨川沿いで、私は大文字に火が灯るのを待っていた。
鞄の中には、今日見つけたばかりの古い手帳がある。
今年の春、おばあちゃんは死んだ。
あの人は、最後まで強い人だった。
弱音を吐かず、誰にも頼らない人だった。
私が自作の物語を書いていると知ったときも、口から出たのは説教する言葉だった。
そのくせ、私が物語を書くようになったきっかけは、おばあちゃんの家に一冊だけ置かれていた絵本だった。
「物語なんか書いて、何になるん」
台所に立ったまま、おばあちゃんはそう言った。
「優しいだけの話なんて、誰も読まへん。
夢ばっかり見てたら、いつか痛い目に遭うで」
私は、その言葉がずっと許せなかった。
おばあちゃんと会うたび、私たちは言い合いばかりしていた。
本当は、私の物語を読んでほしかっただけだった。
けれど最後の日も、やっぱり喧嘩になった。
「おばあちゃんなんか、大嫌い」
そう言うと、おばあちゃんは何も言い返さなかった。
ただ、少し目を伏せただけだった。
その顔を、私は今でも覚えている。
一晩眠れば、カッとなった頭は冷めた。
謝ろうと思った。
けれど、仲直りする前に、おばあちゃんはいなくなった。
今日、母と遺品整理をしていると、仏壇の引き出しから一冊の手帳が出てきた。
「あんた、これ」
黄ばんだ表紙には、小さく「絵本」と書かれていた。
お互い、驚いた顔で見合わせた。
母は黙って首を振った。
その表情だけで、母も何も知らなかったのだと分かった。
中には、狐や女の子や、星の降る町の絵があった。
日に焼けた紙の上で、鉛筆の線も文字もところどころ薄くかすれている。
どれも途中で止まっていた。
けれど、最後のページだけは違っていた。
紙の色は同じように黄ばんでいるのに、そこに描かれた線だけが、やけに濃かった。
母が、そっと息をのんだ。
「……おばあちゃん、絵、上手やったんやね」
声が少し震えていた。
隣を見ると、母の頬に涙が伝っていた。
母はそれに気づいていないみたいに、じっと手帳を見つめていた。
その横顔を見ていたら、私まで泣いてしまいそうで、奥歯を噛みしめながら手帳へ視線を戻した。
そのとき、手帳の背表紙の隙間から、一枚の便箋がするりと滑り落ちた。
私はそれを拾い上げ、書き出しを見た瞬間、息をのんだ。
「……たぶん、おばあちゃんの最後の日記だ」
震える手でその日記を読む。
『あの子は、やさしいものを書く。
けど、やさしいまま生きていけるほど、世の中は甘くない。
そんなこと、私はよう知っている。
だから、きついことを言うてしまった。
物語なんか書いて、何になるん。
夢ばっかり見てたら、いつか痛い目に遭うで、と。
けれど本当は、あの子のやさしさを折りたかったわけやない。
昔、私は絵本の夢を捨てた。
描きかけの絵も、物語も、夢を見ていた証拠みたいなものは、全部手放した。
それでも、一冊だけ捨てられへん絵本があった。
あの子が小さいころ、その本をきらきらした目で読んでいた。
その姿を見るたび、昔の自分を思い出して、うれしいのか、怖いのか、よう分からんかった。
今日、久しぶりに絵本の手帳を開いた。
あの子が物語を書いて、私が絵を描く。
今さら遅いに決まっているのに、二人で作る絵本なんて夢を見てしまった』
日記を読み終えた瞬間、堪えていたものが崩れた。
息がうまく吸えなくなって、私は便箋を握ったまま泣いた。
隣で、母も声を殺して泣いていた。
「不器用だよ……おばあちゃん」
好きなくせに、好きだと言えない。
守りたいくせに、傷つける言葉しか選べない。
まるで、あの絵本のきつねみたいだった。
涙でにじむ視界の端に、引き出しの奥が映る。
そこには、一冊の古い絵本があった。
『とげとげきつねの花束』
幼いころ、私が何度も読んだ絵本だった。
その隣には、寄り添うように、真新しい手帳が置かれていた。
母が、それを見て、また小さく息を詰まらせた。
おばあちゃんは、終わらせたかったんじゃない。
もう一度、始めようとしていたのだ。
だから私は、古い手帳を鞄に入れて、ここへ来た。
おばあちゃんを送るために。
そして、どうしても送れないものがあると知るために。
鴨川の向こうで、人々が小さく息をのんだ。
そのとき、大文字の火が、夜の山に浮かび上がった。
送り火は、亡くなった人を送るための火だ。
でも、おばあちゃんの夢まで送ってしまいたくはなかった。
おばあちゃんは、私の夢を否定していたんじゃなかった。
きっと、自分と同じように夢で傷つく私を、見たくなかったのだ。
傷ついたことも、傷つけたことも、なかったことにはできない。
それでも、あの人が捨てきれなかった夢だけは、私が受け取りたかった。
おばあちゃんを送るために来た夜だった。
けれど私は、あの人が遺してくれた小さな夢を、これから連れて帰る。




