第1章:墜落する日常の向こう側
【魂の脱皮】
昭和57年2月7日。
日曜日の朝、世界は驚くほど静かだった。
進の母・千夜子の鼓動が停止したあの一瞬、千夜子の身体に、何かが物理的に断ち切られるような感覚があった。
ずっと張り詰めていた細い糸が、ようやく解き放たれるような、そんな安らぎがまず訪れた。
肉体、という名の重い鎧を脱ぎ捨てた千夜子は、そこにいた。
ベッドの上に横たわる「それ」を、千夜子は天井の隅から少し離れた場所で見下ろしていた。
「ああ、なんて脆いものだったのかしら」
千夜子が38年の間、必死に守り、磨き、働かせ、そして酷使してきた肉体というの器。
今、それは無機質な布に覆われ、ただ静かに冷えていくのを待っている。
痛みも、飢えも、あの重苦しい頭痛も、もうどこにもない。
ただ、ひどく軽やかで、澄み切った意識があるだけだ。
周囲が騒がしくなる。
看護師たちが駆け込み、無遠慮な足音で病室の空気をかき乱す。
「千夜子さん、千夜子さん!」
誰かが千夜子の名前を呼ぶ。
けれど、もう千夜子はその呼びかけには応えられない。
千夜子が返事をしようと口を開いても、そこには音も気配もない。
皆、覚悟していたはずだった。
千夜子がどれほど過酷に自分の命を削ってきたか、一番近くにいた人たちは知っていたはずだ。
それでも、死というのは、やはり唐突で、騒々しいものだった。
慌ただしく動く人々を眺めながら、千夜子は自分の葬送の準備が整えられていく様子を、まるで遠い異国の風習を見ているかのように客観的に眺めていた。
千夜子の意識は、まず一番に、あの子を探した。
進だ。
まだ中学生の、進である。
それは千夜子の唯一の希望だった。
廊下のベンチで、進は膝を抱えて座っていた。
その背中は、私が生前見ていたよりもずっと小さく、震えていた。
「ごめんね、進」
千夜子はそう呟いたが、声にはならない。
千夜子の「母」としての役割は、ここで終わってしまったのだ。
【炎に焼かれる世界の断片】
病院のロビーに降りると、そこにはテレビの画面があった。
早朝のニュース番組は、不吉な映像を繰り返し流していた。
東京のホテルだという。
大きな建物が真っ赤な炎に包まれ、黒煙が冬の空を突き刺すように立ち上っている。
ホテルニュージャパン。
ニュースの記者が、悲鳴に近い声で避難の様子や被害の大きさを伝えている。
死んだばかりの千夜子が、最初に目にするのが「生」を焼き尽くす炎の映像だなんて、皮肉なものだった。
人々が、この世の終わりかのように混乱し、あるいはただ茫然と画面を見つめている。
世界は、千夜子が死んでも、何事もなかったかのように動いていた。
いえ、むしろ、千夜子の死など微々たるものだと言わんばかりに、巨大な悲劇が次々とこの世に押し寄せていた。
千夜子はその混沌を、冷めた目で見つめていた。
もう、千夜子には関係のないことだった。
だが、進の生きる世界は、このテレビの中のように、いつ何時、理不尽な炎に焼かれるかわからない場所なのだと思うと、胸の奥が締め付けられるような、懐かしい痛みを感じた。
「進、逃げて。自分の足で、安全な場所へ」
千夜子は何度も、進の背中に声をかけた。
【逆噴射の響き】
千夜子の「肉体」が安置された車が、自宅へと向かう。
後部座席には千夜子の抜け殻が横たわり、運転席と助手席には親戚の男たちが乗っていた。
車内は沈黙に支配されていた。
誰も、何を話せばいいのか分からないのだ。
「死者を乗せた車というのは、こんなにも気まずいものなのね」
まるで、言葉にしてしまえば、千夜子の死が決定的な事実として刻印されてしまうのを恐れているようだった。
沈黙に耐えかねたのだろう。
助手席の男が、カーステレオのスイッチを入れた。
耳障りなノイズが走ったあと、ラジオからニュースの声が流れてきた。
『……羽田空港沖で、航空旅客機が着陸直前に墜落しました。機長が……逆噴射を……』
逆噴射。
なんとも不穏で、忌々しい響きだった。
ニュースは淡々と、旅客機が海に墜落した惨状を伝えていた。
機長が、着陸寸前に逆噴射装置を働かせたことが原因だという。
「機長は、一体何を考えていたのかしら。」
進むべき道、守るべき乗客を乗せた機体が、なぜ自らブレーキをかけて、地面(海面)に叩きつけられなければならなかったのか。
千夜子は、車窓を流れる松本の冷たい風景を見ながら、その言葉を反芻していた。
「逆噴射」
それからだいぶ時が過ぎて、あの事故の顛末が分かってきた。
機長の精神的な混乱が、数百人の運命を墜落という結末へと導いたこと。
それは、まるで千夜子の人生そのものにも思えた。
千夜子は、進を守るために必死でエンジンの出力を上げ、命を懸けて操縦桿を握りしめていた。
けれど、もしかしたら、千夜子のこの過剰な献身という名の「愛情」こそが、進の人生の機体を、あるべき未来からずらして墜落させてしまう「逆噴射」だったのではないか。
進の日常もまた、取り返しのつかない速度で墜落していこうとしていた。
千夜子が消えることで、進の人生の翼は、支えを失う。
これから、進はどんな荒波に揉まれるのか。
どんな理不尽な逆風に煽られるのか。
ラジオから流れる「墜落」の速報は、まるで千夜子という母を失った進の未来を予告しているようだった。
千夜子はたまらなくなり、耳を塞ごうとした。
けれど、幽霊の千夜子に、そんなことは叶わなかった。
【幽界の入り口で】
車は家に着いた。
皆が慌ただしく動き、千夜子の「器」を運び込む。 千夜子はそれを、ただぼんやりと見ていた。
「あぁ、これで私は完全に、彼らの生活から切り離されるのだ」
進が玄関先で立ち尽くしている。
千夜子は、そのそばに駆け寄った。
進は、泣いていなかった。
ただ、呆然としていた。
進の目は、まだ何も見えていない。
千夜子の死という現実を、進はまだ消化しきれていないのだ。
「ねぇ、進。 泣いてもいいのよ。 声を上げて、大声で叫んでいいのよ。 あなたはまだ、中学生なんだから」
千夜子は、進の頬に、そっと手を伸ばした。
冷たい風のような感触しか残せない。
でも、進は、ふと何かに気づいたように、虚空を見上げた。
「ああ、進は私を感じてくれたのかしら。 あの子の瞳に、ほんのりと熱いものが宿る。」
「……母さん」
あの子が呼んだ。
それは、私の名前ではなく、私の役割を呼ぶ声だった。
千夜子は、「これで良かったのだ」と自分に言い聞かせる。
「私は「逆噴射」をしてしまったかもしれない。けれど、私の命を燃やし尽くした火炎は、あの子の中に、何か熱いものを残せただろうか」
千夜子は呟いた。
「さようなら、進。 私の愛した、不器用で、理屈っぽくて、誰よりも繊細なあなた。これから先、あなたがどのような理不尽な場所に墜落しようとも、何度でも立ち上がって、また飛ぼうとして。 私は、逆噴射の炎に焼かれるあなたを、上空からずっと見守り続ける。 それが、母親という名の、永遠の祝福なのだから。」
千夜子は、振り返ることなく、進の視界から静かに消えていった。
次に千夜子が目にするのは、亡き父・治郎蔵が待つ、あの穏やかな光の庭園であるはずだ。
そこには、智代という名の呪いも、貧困という名の檻もない。
私は、ようやく、一人の女として、安らげる場所へと旅立つのだ。
「進。 どうか、生きて。 誰よりも強く、誰よりも深く、その命を燃やし続けて」
さようなら。 私の愛しい、我が子。
千夜子の祈るような声は、進には届かなかった。
本編
『栴檀は双葉より芳しからず』――父に似て無能と疑われるも、母の死、定時制高校での「偏差値32」から、資格試験予備校講師を経て、YouTuberとして成功するまでの波乱万丈物語
第1幕 第5章 母千夜子の死、叔父政夫との確執
とリンクしています。
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