未来の破片
地上へ続く門は、万魔殿の外れにあった。
門といっても、扉ではない。
黒い石を円形に組んだだけの、古代遺跡みたいな構造物だ。
その中心だけが、夜より暗かった。
落ちれば、戻れない気がする。
俺は門の前で立ち止まった。
「怖じ気づきましたか」
背後から、乾いた声がした。
振り向かなくても分かる。
リュネだ。
「……お前はそういう言い方しかできないの?」
「必要なら、もう少し柔らかく言い換えましょうか」
「いや、いい」
銀髪をひとつに束ねた冥后侍女は、黒手袋の指先で自分の袖を軽く払った。
深紫の衣は夜気を吸っても乱れない。
相変わらず、感情の温度が見えにくい女だった。
「補佐兼監視役、だったな」
「ええ」
リュネの簡素な返事に、俺は短く息を吐く。
門の向こうは人界だ。
少し前まで俺がいた側。
鍛冶場があって、石畳があって、イリスがいた側。
帰る、という感覚はなかった。
戻る、でもない。
ただ、送り返される感じに近い。
「準備は?」
リュネが問う。
「特にないよ」
「サタン様の右腕就任直後とは思えない軽装ですね」
「鎧を着れば未来が軽くなるなら着る」
「なりません」
リュネはそれ以上言わなかった。
物分かりがいいのではなく、無駄を切っただけだろう。
門の中心が、わずかに明るくなる。
「転送は一度だけです」
リュネが言う。
「人界側での再接続は不安定になります」
「簡単に帰れないってことか」
「はい」
「親切にどうも」
「説明は義務ですから」
義務。
この女悪魔は本当にそういう言葉が好きだ。
俺は門へ一歩近づいた。
冷たい。
熱はないのに、皮膚の表面だけが削られるような感覚がある。
「一つ聞きたいんだが」
俺が言うと、リュネは小さく首を傾けた。
「なんでしょう」
「俺が失敗すると思ってる?」
少しの沈黙。
「失敗の定義によります」
「便利な答えだなぁ」
「あなたは任務を果たしても、別の意味で失敗する可能性が高い」
その返答が妙に正直で、少しだけ笑いそうになった。
「……じゃあ、君は何を見に来たんや」
「あなたです」
即答だった。
「未定義が、未来を知ったあと、どこまで本人でいられるのか。それを確認しに来ました」
冷徹な答え。
笑えなかった。
門の闇が揺らぐ。
俺は最後に一度だけ、冥界の空を見上げた。
燃えていないのに紅い空。
あの色にも、少し慣れ始めていた自分が嫌だった。
「行くよ」
「ええ」
俺たちは同時に門をくぐった。
落ちる感覚はなかった。
引かれる感覚だけがあった。
視界が黒く染まり、次の瞬間には空気が変わっていた。
冷たさが違う。
湿り気が違う。
何より、息のしやすさが違う。
地上。
夜だった。
だが冥界の夜とは違う。
星がある。
風がある。
土の匂いがする。
その当たり前の全部に、少しだけ腹が立った。
こっちはもう、そんな場所に素直に安心できる側じゃない。
リュネが周囲を見回す。
「座標、概ね正常」
「概ね、って何だ」
「誤差があるということです」
「嫌な言い方だな」
「実際、嫌な誤差です」
俺は眉をひそめた。
「何がズレた」
リュネは少し黙り、それから前方を見た。
「……あなたの鍛冶場に飛ぶはずでした」
「はず?」
「ええ」
「じゃあ、ここはどこだ」
答える前に、俺の方が先に気づいた。
崩れた石畳。
傾いた街灯。
見覚えのある商店街。
そして、妙に静かすぎる夜。
ここは。
「イリスと待ち合わせた場所か」
「記録上は、そうなります」
喉の奥が冷えた。
鍛冶場じゃない。
よりにもよって、ここ。
未来視の起点。
あの朝の残骸みたいな場所。
「座標が、あなたの現在地ではなく執着点を優先したのでしょう」
「最悪だな」
「はい」
そこで初めて、リュネがわずかに同意した。
風が吹く。
だが、どこかおかしい。
草木の音はあるのに、人の気配が薄い。
まるでこの一帯だけが、誰かに避けられているみたいだった。
「……何かいる」
俺が呟くと、リュネはすでに黒手袋の指先を上げていた。
魔力の糸みたいな薄い光が、空気の継ぎ目を探っている。
「観測痕があります」
「HKOか」
「断定はまだ。ですが、見ているものはいます」
面倒なのが早すぎる。
俺は足元の瓦礫を蹴って、少し前へ出た。
見覚えのある場所なのに、今は知らない戦場みたいだった。
「入口を探れ、だったな」
「ええ」
「なら、ちょうどいいか」
「何がですか?」
「入口の方から寄ってきてる」
言った瞬間だった。
空間の一点が、音もなく暗くなる。
穴ではない。
影でもない。
そこにあってはいけない黒が、現実の表面に滲み出た。
リュネの声が低くなる。
「固定化の初期症状……」
黒が脈打つ。
次の瞬間、そこから何かが落ちてきた。
人の腕。
いや、腕に見えるだけの人形だ。
輪郭が定まらないまま、石畳に触れた場所だけが腐ったみたいに色を失う。
「うわっ、趣味悪いな」
俺は反射的に距離を取る。
リュネは静かに言った。
「回避してください。接触ログを持ち帰られると厄介です」
「持ち帰られる?」
「向こうに、です」
黒がもう一度脈打つ。
今度は腕だけじゃない。
肩。頭部。人型の輪郭が、現れかけては崩れる。
見ているだけで、胃のあたりがざわつく。
これは魔物でも悪魔でもない。
もっと嫌なものだ。
決まりかけた未来の破片みたいな。
「これが入口か」
「正確には、入口の滲みです」
「怖すぎるよ」
「サタン様がどうして貴方を選んだか、
真意が分かりかねます」
俺は無視して腰の短剣に手をかける。
だが、抜き切る前にリュネが言った。
「切っても意味はありません」
「じゃあどうする」
「観測してください」
「一番嫌いな答えだ」
黒い人型が、こちらへ顔を向けた。
目はない。
口もない。
なのに、見られたと分かる。
頭の奥にノイズが走った。
石畳。
血。
白いブラウス。
灰色の髪。
「……っ」
イリス。
ほんの一瞬だけ、未来視の残りカスが閃く。
俺は舌打ちした。
「クソ、またか」
リュネが俺を見る。
「見えましたか」
「嫌なもんが」
「十分です」
黒い人型が一歩、こちらへ近づく。
石畳の色が抜ける。
街灯の影が細くなる。
この場だけが少しずつ、“未来に寄っていく”感じがした。
俺は短剣を抜いた。
意味が薄くても、素手よりましだ。
リュネの声が背後から飛ぶ。
「接触は最小限に」
黒い人型が、腕とも脚ともつかないものを持ち上げる。
俺は踏み込んだ。
右腕就任の初任務は、地上に戻ったその夜から、もう始まっていた。




