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パンデモニウム

 右腕就任から、まだ半日も経っていない。


 なのに、もう昔の自分がどこにいたのか曖昧だった。


 万魔殿パンデモニウムの廊下は静かだ。

 黒い壁も、黒い床も、何も語らない。

 だが、黙ってこちらを記録している気配だけがある。


 俺は再び、最下層へ向かっていた。


 アケローンを見た後だ。

 イリスの魂を見た後だ。

 まだ死んでいないはずのイリスが、未来の死として冥界に落ちてきた。


 見なかったことにはできない。


 巨大な扉の前に立つ。


 今度は止まらなかった。

 躊躇って意味がある段階は、もう過ぎている。


 扉の向こう。

 玉座の前。


 黒光りした巨躯にザ・悪魔といった容姿をしたサタンは、

 前と同じように、炎のない火に指先を触れさせていた。


「来たか」


 短い声だった。


 歓迎でもなく、確認でもなく、

 来ることが決まっていた者への声だった。


「アケローンは見た」


 俺が言うと、サタンは目を細めた。


「なら、理解もしたな」


「未来の死が先に落ちてくる。

 ろくでもない世界だ」


「今さらだ」


 その通りだった。


 俺は玉座の前まで歩く。

 距離を詰めても、この男は遠い。

 近づくほど、世界そのものに話しかけている気分になる。

 サタンは炎から指を離した。


「カイよ。初任務だ」


 簡潔だった。


「地上、人界へ行け」


「いきなり?」


「右腕を遊ばせるつもりはない」


 腹立たしいほど無駄がない。


「目的は三つ」


 サタンの声が低く落ちる。


「一つ。

 十六回目の入口を探れ」


「入口?」


「固定化は突然完成しない。

 必ず先に歪む場所がある」


 俺は黙って聞く。


「二つ。

 観測者どもの動きを見ろ」


「Σ7か」


「名はどうでもいい。

 重要なのは、奴らがお前を消す以外の手段を取り始めるかだ」


 それは少し気になった。


「抹消以外にもあるのか」


「ある」


 サタンは即答した。


「隔離。凍結。代替器への転写。

 消去だけが管理ではない」


 嫌な話ばかりだ。


「三つ目は?」


 サタンは、ほんのわずかに間を置いた。


「お前の未来視を使え」


 思わず眉をひそめる。


「好きで見たわけじゃない」


「だから価値がある」


 サタンは平然と言う。


「意図して得た視界は偏る。

 事故で開いた視界は、生に近い」


 玉座の前で、沈黙が落ちる。


 俺はアケローンで見たイリスの顔を思い出していた。

 灰色の長い髪。

 白いブラウス。

 黒い川に呑まれる前の、あの一瞬。


「……条件がある」


 サタンが少しだけ顎を引く。

 続けろ、の合図。


「イリスに手を出すな」


 炎のない火が、わずかに揺れた。


「お前が右腕にしたいのは、未来を知った俺だろ。

 その未来の中心にいるのがイリスなら、勝手に盤面を動かされると困る」


 半分は本音。

 半分は交渉だ。


 サタンは、しばらく何も言わなかった。


「……よく学んだな」


 そこで初めて、ほんの少しだけ口元が動いた。

 笑いではない。

 評価に近い何かだった。


「イリスという一人間、現時点で、こちらから手は出さん」


 完全な保証じゃない。

 だが、今ここで取れる答えとしては悪くない。


「もう一つ」


 俺は続ける。


「俺は冥界の都合だけでは動かないぞ」


「まぁいいだろう」


 相変わらず思考が読めない男だ。

 だが、嫌いじゃなかった。

 少なくとも、優しい嘘で誤魔化す連中よりは。


「出発は今夜だ」


 サタンが言う。


「リュネを補佐につける」


「監視役の間違いじゃないのか?」


「両方だ」


 正直すぎて、逆に清々しい。


「わかったよ」


 俺は小さく息を吐いた。


 サタンは玉座から立たない。

 それでも、この場の主導権は一歩も動かない。


「最後に一つだけ教えてやる」


 サタンの声が、少しだけ深くなった。


「十六回目を恐れるな」


「簡単に言うな」


「恐れたところで、来るものは来る」


 正論だった。

 腹が立つほどに。


「恐れるべきは、十六回目そのものじゃない」


 視線が、俺を貫く。


「それを使おうとする者だ」


 観測者。

 冥界。

 そして、サタン自身。


 たぶん、俺ももうその中に片足を突っ込んでいる。


「行け」


 命令は短かった。


「右腕としての最初の仕事だ。

 失敗するなとは言わん」


「優しいな」


「失敗しても、次を拾わせるだけだ」


 まったく優しくない。


 俺は踵を返した。


 扉へ向かいながら、ひとつだけ気づく。


 もう俺は、冥界に呼ばれる側ではない。

 冥界の手として、地上へ戻される側だ。


 それは少しだけ、気分が悪かった。


 扉の前で足を止める。


「俺はいつか普通の人間に戻れるか?」


「……」

 返事はない。


 けれど、背中越しでも分かった。

 答えないということは、あの男は今の言葉を、

 冗談として処理しなかったということだ。


 扉が開く。


 黒い通路の先に、地上へ続く道がある。


 未来はまだ確定していない。

 だが、確定させたがっている連中は、もう動いている。


 なら。


 その前に、俺が動くしかない。


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