アケローン
冥界に来て、まだ大して経っていない。
なのに、もう分かることがある。
ここでは休めない。
通路は黒く、静かで、足音だけが妙に響く。
壁も床も、まるで誰がどこを歩いたかを覚えているみたいだった。
俺は一人で歩いていた。
案内役はいない。
けれど迷わない。
いや、迷えない。
この城では目的地に着くことが、通路より先に決まっている。
「お待ちください」
声がした。
振り向く。
銀髪を一つに束ねた女悪魔が、通路の影から現れた。
深紫の衣。黒い手袋。
礼儀の形だけを残したような立ち姿。
見覚えがある。
「冥后侍女リュネだったか」
女は小さく一礼した。
「記憶していただけて光栄です」
「用件は……?」
「確認です」
面倒そうな予感しかしない。
案の定、リュネはまっすぐ俺を見た。
「あなたは、いま自分が何者か理解していますか」
「鍛冶屋崩れのサタンの便利な駒だろ」
「違います」
即答だった。
「あなたは未定義です」
少しだけ、苛立つ。
「分類不能ってことか」
「そうです。観測者はあなたを危険視し、冥界はあなたを利用しようとしている。
あなた自身だけが、まだ自分の位置を決めていない」
「位置なんてどうでもいいんだが」
「そうでしょうか」
リュネの目は冷たい。
「位置を持たない者は、いずれ器にされます」
器。
何だっけ。
その単語だけが、妙に耳に残った。
俺は無視して通り過ぎようとする。
だが、リュネが静かに続けた。
「ご一緒に来てください」
「サタンの命令?」
「いえ、個人的な忠告です」
「何の?」
「すぐ分かります」
少し迷って、俺は踵を返した。
「わかった。案内してくれ」
リュネはまた一礼し、歩き出す。
通路は下へ続いていた。
降りるほど、空気が薄くなる。
肺が苦しいわけじゃない。
生きているという前提の方が、薄くなる。
やがて、開けた場所に出た。
川があった。
黒い川。
広い。深い。
流れているはずなのに、どこか止まって見える。
「アケローン」
リュネが言う。
「冥界の川です」
「見れば分かるよ」
「ただの川ではありません」
そうだろうな、と思う。
泣き声が聞こえる。
耳じゃない。頭の奥に、直接落ちてくる。
祈り。
後悔。
救われなかったもの。
全部、水に溶けている。
川辺には、一人の女がいた。
白い指先を水に触れさせている。
春みたいな色をしているのに、この場所ではそれが異物だった。
ペルセポネ。
冥界の女王。
彼女は俺を見ても驚かない。
最初から知っていたみたいに、静かにこちらを見るだけだ。
「あなたが、未定義?」
柔らかい声だった。
だが曖昧さはない。
「好きに呼んでください」
「では、そうするわ」
彼女はそれ以上、名を掘り下げなかった。
「ここでは、すべてが沈むの」
ペルセポネは水面を見たまま言う。
「泣き声も、祈りも、諦めも。だから流れは保たれる」
「説教なら帰る」
「帰れないでしょう?」
言い返せなかった。
彼女は少しだけ微笑む。
「あなたは、もう休めない場所まで来ている」
その言葉が、妙に腹立たしいほど正しかった。
アケローンの水面が、わずかに光る。
黒い水の底で、何かが形を持つ。
「……反応」
リュネの声が低くなる。
俺は川を見る。
白い輪郭。
人の形。
だが亡霊じゃない。
なぜか分かった。
まだ死んでいない。
それなのに、ここにいる。
水面の顔が、浮かぶ。
少女。
灰色の髪。
白いブラウス。
心臓が止まりそうになる。
「イリス……」
名前が勝手に口から出た。
水面の像は俺を見ていない。
ただそこにある。
未来の結果みたいに。
リュネの報告が震える。
「生者反応。対象識別……地上個体イリス」
ペルセポネは目を伏せた。
「未来が、先に落ちてきたのね」
俺は水際へ踏み出す。
あと一歩で届く。
そう思った瞬間、水面の像が崩れた。
黒い川が、それを飲み込む。
「どういうことだよ」
怒鳴ったつもりだった。
だが声は掠れていた。
ペルセポネは静かに言う。
「まだ確定していない死よ」
「ふざけるな……」
「だから残酷なの」
慰めじゃない。
事実だけを置く声だった。
「あなたは、もう見てしまった」
拳を握る。
喉が焼ける。
「イリスは消えるのか」
「消えるかもしれない。消えないかもしれない」
その曖昧さが、一番きつい。
リュネが小さく言った。
「だから、皆があなたを見ているのです」
観測者。
冥界。
サタン。
全部が繋がる。
俺はようやく理解した。
俺はもう、平穏の外側にいる。
巻き込まれただけじゃない。
巻き込み始めている。
アケローンの水は、再び静かに流れ出す。
だが、もう同じには見えない。
ペルセポネが最後に言う。
「選びなさい。
守るなら、その未来ごと相手をしなければならない」
守る。
未来。
イリスの死。
どれも言葉は簡単なのに、重すぎた。
俺は川から目を離す。
「……サタンのところに行く」
リュネが、ほんの少しだけ視線を動かした。
「判断が早いですね」
「遅いよりマシだろ」
そう言いながら、自分でも分かっていた。
これは判断じゃない。
追い詰められただけだ。
それでも、行くしかない。
未来はまだ確定していない。
だが、もう。
見なかったことにはできない。




