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右腕

 冥界の空は、燃えていないのに朱い。


 赤黒い雲の下、無数の塔が沈黙していた。

 その中心、万魔殿パンデモニウム最下層。

 俺は今、悪魔どもの王サタンの玉座の前に立っている。


 足元は黒曜石。

 映るはずのないものまで映す、不吉な床だ。

 正面では、炎のない火にサタンが指先で触れていた。

 熱はない。だが、それがそこにあるという事実だけで、空間全体が支配されていると分かる。


 その視線が、静かにこちらへ落ちた。


「カイ」


 低い声だった。

 怒鳴りもしない。威圧もしない。

 だが、その一言だけで、俺が今どこに立っているのかを思い知らされる。


「お前を、私の右腕とする」


 あまりにも簡単に言った。


 冗談みたいに。

 だが、冗談ではない。


 冥界が、ほんのわずかに沈んだ気がした。

 この言葉ひとつで、世界のどこかの均衡が書き換わったのだと分かる。


 右腕。


 魔王の補佐。

 権力。地位。力。


 人によっては夢みたいな話だろう。

 実際、少し前の俺はそう思っていた。


 だが今は違う。


 右腕になったところで、休めるわけじゃない。

 平穏がもらえるわけでもない。

 むしろ逆だ。


 人界では、未来の死が漏れ始めている。

 地上の観測者たちは、俺を消すべき個体として見ていた。

 そして俺だけが知っている。

 次の周期──、十六回目。

 その未来で幼なじみの少女イリスは死ぬ。


「返事は?」


 サタンが問う。


 断ればどうなるのか。

 そんなもの、考えるだけ無駄だった。


 断らなくても地獄。

 断っても地獄。


 なら、せめて選ぶしかない。


 俺はゆっくりと頭を上げた。


「……了解した」


 その瞬間。


 玉座の奥で、炎のない火がわずかに揺らめいた。


 歓迎ではない。

 世界がひとつ“確定”しただけだ。


 俺は元人間だ。

 魔神との契約は63%で止まり、悪魔にもなりきれていない。

 見た目もほぼ人間。ツノも尻尾も翼もない。


 スローライフ?


 そんなもの、最初から存在しない。


 サタンの右腕になった俺に残されていたのは、

 終わりかけた世界で、何を守り、何を見捨てるかという選択だけだった。


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