EP 9
女神とタバコと次なる火種
弟クラウスからの悲痛な手紙を焼却処分したその日の夜。
ポポロ村は、深い静寂に包まれていた。
バッカス商会の騒動も落ち着き、村人たちは久しぶりに枕を高くして眠りについている。
真一は、いつものように縁側で紫煙をくゆらせていた――と言いたいところだが、彼が口にしているのはコーヒーキャンディだ。健康志向の隠居生活である。
「……ふぅ。月が綺麗だな」
夜空には、満月がぽっかりと浮かんでいる。
あの月を見ると、昼間に見たキャルルの「ライダーキック」を思い出す。
可愛らしいウサギの耳を持つ少女が、音速を超えて敵を粉砕する姿。この世界は、美しくも過激だ。
(まあ、俺が一番過激なことをしちまったわけだが)
背中の『仁王』が、微かに熱を持っている気がした。
もう二度と、この力を振るうことはないと思っていた。だが、守るものができれば、人はまた刀を抜く。
それが人間の性というやつか。
「――相変わらず、シケた顔してんなぁ、真一」
不意に、真一の脳内に直接響くような声がした。
彼が顔を上げると、目の前の空間がデジタルノイズのように歪み、一人の女性の姿がホログラムのように浮かび上がった。
ジャージ姿に、便所サンダル。
ボサボサの髪を適当なクリップで留め、片手には発泡酒のロング缶を持っている。
この世界の創造主にして、真一をここに転生させた張本人。
女神ルチアナだ。
「……ルチアナ様か。神なら神らしく、もう少し神々しい登場はできんのか」
「うるさいわね。今はオフモードなのよ。……それより、あれ。いつもの」
ルチアナは、親指と人差指を擦り合わせるジェスチャーをした。
金銭の要求ではない。
「……はいはい」
真一は呆れながらも、スキル『酒保(PX)』を開いた。
購入したのは、地球産のメンソールタバコ『ピアニッシモ』のワンカートンと、百円ライター。
「ほらよ。ツケにしとくぞ」
「気が利くじゃない! 愛してるわよ真一!」
ルチアナは実体化したタバコを受け取ると、嬉々として封を切り、一本くわえて火をつけた。
ふぅー、と紫煙を吐き出し、至福の表情を浮かべる。
「あー……生き返るぅ。天界の会議って禁煙だから辛いのよねぇ」
「神様がニコチン中毒でどうする。……で? タバコをせびりに来ただけか?」
真一がジト目で睨むと、ルチアナは「失礼ね」と缶ビールを煽った。
「あんた、今回派手にやったじゃない? S級魔獣をワンパンで粉砕とか、面白すぎ。おかげで天界のモニター視聴率、爆上がりだったわよ」
「……俺は見世物じゃないぞ」
「まあまあ。でね、その報酬というか、詫び賃というか。新しいスキルをあげるわ」
ルチアナが指を鳴らすと、真一の目の前に新たなウィンドウがポップアップした。
【スキル『温泉掘削』を獲得しました】
効果: 地脈を読み取り、源泉を掘り当てる。泉質の調整(美肌、疲労回復、神経痛など)も可能。
「……温泉?」
「そう! あんた、日本人なら風呂に入りたいでしょ? ポポロ村って実はいい地脈が通ってるのよ」
「ほう……」
真一の目が輝いた。
隠居生活において、風呂は重要だ。今はタライにお湯を溜めて行水しているが、肩まで浸かる大浴場があれば、QOL(生活の質)は爆上がりする。
「それにね、温泉宿を作れば、観光客も来るし、村の財政も潤うでしょ? ……あと、私もお忍びで入りに行きたいし」
「最後のが本音か。……まあいい。ありがたく貰っておく」
真一は満足げに頷いた。
これで陶芸の後は、ひとっ風呂浴びてビール。完璧な老後プランだ。
「じゃ、よろしく頼んだわよー。あ、そうだ真一」
消えかかったルチアナが、思い出したように言った。
「あんたが派手に暴れたせいで、ちょっと『因果』が動いちゃったみたい。……東の方から、面倒なのが来るかもね」
「あ?」
「ま、あんたなら大丈夫でしょ! せいぜい頑張って! あー、ガチャの時間だ、じゃあねー!」
プツン。
ノイズと共に、女神の姿は消えた。
後に残ったのは、かすかなタバコの残り香と、不吉な予言だけ。
「……因果、だと?」
真一は眉間の皺を深くした。
東の方角。そこにあるのは――『レオンハート獣人王国』だ。
†
時を同じくして。
ポポロ村から遠く離れた東方、レオンハート獣人王国・王都ガオ・ギガ。
その深奥にある王城の一室で、一人の男が報告書を握り潰していた。
「……ほう。見つけたぞ」
男は、獰猛な虎の耳と、筋骨隆々たる肉体を持っていた。
獣人王国の将軍にして、虎耳族の次期族長、タイガ・ヴォルグ。
彼の周りには、怯えた様子の部下たちが平伏している。
「間違いあるまいな? 緩衝地帯の村で、音速を超える蹴りを放つ『白兎』が現れたと」
「は、はい! 冒険者たちの噂ですが……『雷神の月兎』と呼ばれているそうです!」
「ククク……! 雷神だと? 笑わせる」
タイガは口の端を吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「キャルル……俺の愛しい婚約者よ。近衛騎士の座を捨てて逃げ出したと思えば、そんな田舎で村長ごっこか」
彼は立ち上がり、窓の外に広がる夜空を見上げた。
その手には、キャルルの手配書が握られている。
「『弱い種族は、強い種族に守られていればいい』。……あの時の俺の言葉が、まだわからんようだな」
タイガの全身から、黄金色の闘気が噴き上がる。
それは、イグニスの炎すら凌駕する、圧倒的な覇者の気配だった。
「行くぞ。俺の女を連れ戻しにな」
「はっ! して、その村にいるという『鬼の軍神』なる男は……?」
「鬼? 人間ごときが粋がるな。……俺の爪で引き裂いて、虎の餌にしてくれるわ」
東の空に、暗雲が立ち込める。
ポポロ村の平和は、温泉を掘る間もなく、再び破られようとしていた。
†
翌朝。
真一は、村外れの空き地でスコップを構えていた。
「よし、ここだ」
スキル『温泉掘削』が、地下深くに眠る極上の源泉を感知したのだ。
キャルルとイグニス、リーシャがきょとんとして見ている。
「真さん、何してるの? 畑作り?」
「いや……『夢』を掘るんだよ」
真一がスコップを突き立てた瞬間。
プシューーーッ!!
大地から、白い湯気が猛烈な勢いで噴き出した。
硫黄の香りと、温かい蒸気が辺りを包み込む。
「うわぁ! お湯だ!」
「すっげぇ! 温泉だぁ!」
はしゃぐキャルルたちの笑顔を見ながら、真一は満足げにコーヒーキャンディを舐めた。
「へへ、こいつはいい湯になりそうだ」
東から迫る「虎」の足音にはまだ気づかず。
元公爵の隠居ライフは、まだまだ前途多難のようである。




