EP 3
東からの来訪者 ~虎の威を借る将軍~
「……真さん。お茶、淹れましたよ」
「おお、すまんな。……ん?」
翌日の昼下がり。
集会所の縁側で日向ぼっこをしていた俺は、差し出されたお茶を受け取ろうとして、ふと違和感を覚えた。
お茶を淹れてくれたキャルルの様子が、どうにもおかしいのだ。
いつもは元気いっぱいに走り回っているのに、今日は妙におしとやかに三つ指をついている。
おまけに、俺を見る目がやたらと潤んでおり、上目遣いでチラチラとこちらを窺ってくる。顔もほんのり赤い。
(風邪か? いや、月兎族は自己回復力が高いはずだが……)
「どうした、キャルル。熱でもあるのか?」
「い、いえっ! なんでもありません! ただ、その……『奥さん』としての振る舞いを練習しておこうかと……」
「奥さん? 誰が?」
「えっ? あ、ううん、独り言です! さあ、冷めないうちにどうぞ、あなた!」
キャルルが両手で差し出してきたのは、昨日俺が作ってやった『月白粘土』の茶碗だ。どうやら、お茶を飲む湯呑みとしても使ってくれているらしい。
嬉しそうに兎耳を揺らす彼女の頭をポンと撫でてやり、俺は自分の『ぐい呑み』を取り出して口をつけた。
「うむ。やはり自分で作った器で飲むと、ただの白湯でも美味く感じるな」
「はいっ! 夫婦水入らずのお茶、最高です!」
「夫婦?」
「ニャーーーッ!! 真さん、ちょっと帳簿の確認よろしおまっか!?」
不意に、ニャングルが物凄い勢いで割り込んできた。
彼はキャルルと俺の間に割って入ると、滝のような冷や汗を流しながら俺の耳元で囁いた。
「(真さん! あんた、キャルルに『夫婦茶碗』渡しよったやろ! 獣人の風習でそれ、完全なプロポーズでっせ!)」
「(……は?)」
「(せやからキャルルは、あんたと婚約したつもりでおるんや! この天然ジゴロオヤジが!)」
俺は口に含んだ白湯を、危うく吹き出しそうになった。
プロポーズ? 俺が? 娘ほども歳の離れたこのウサギっ娘に?
いやいや、いくらなんでも冗談だろう。俺はただ、手伝いの礼に茶碗を……。
チラリとキャルルを見ると、彼女は両手で茶碗を抱きしめ、うっとりとした表情で俺を見つめている。
完全に「恋する乙女」の顔だった。
(……やっちまった。早急に誤解を解かねば)
俺が咳払いをして、どう切り出そうかと悩んでいた、その時だった。
ドドドドドドッ……!!
村の東側から、地響きのような重低音が響き渡った。
ただの馬の足音ではない。もっと重く、強靭な爪が大地を蹴る音。
それが数十、いや、百近い群れとなってポポロ村に接近してくる。
「なんだ!?」
俺が立ち上がると同時、村の入り口の木柵が、凄まじい衝撃で粉砕された。
舞い上がる土煙の中から姿を現したのは、黒い鱗に覆われた巨大な地竜――『ジオ・リザード』の騎兵隊だった。
「ひぃっ……!」
「れ、レオンハートの……『黒虎騎士団』だ!」
村人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
黒虎騎士団。それは、獣人王国の中でも最強の武闘派として知られる、虎耳族のみで構成されたエリート部隊だ。
彼らは無遠慮に村の中央広場まで乗り込んでくると、ジオ・リザードの背から一斉に降り立ち、広場を制圧した。
「チッ、相変わらず泥臭い村だな。俺の鼻が曲がりそうだ」
その集団の中心から、一人の男が進み出た。
身長はイグニスにも引けを取らない二メートル超。筋骨隆々たる肉体は、黒い重装甲の鎧で覆われている。
頭には獰猛な虎の耳。太く長い虎の尾が、不機嫌そうに空を叩いていた。
「ワイルダー……将軍……」
キャルルが、血の気を失った顔で呟いた。
その手から、大切に抱えていた茶碗が滑り落ちそうになり、俺が慌ててキャッチする。
「知り合いか、キャルル」
「……はい。私が国にいた頃の、近衛騎士団の団長……そして、私の……」
キャルルの言葉を遮るように、ワイルダーと呼ばれた虎の獣人が、傲慢な笑みを浮かべて口を開いた。
「見つけたぞ、俺の愛しい婚約者よ」
その言葉に、俺とニャングルは顔を見合わせた。
婚約者。なるほど、面倒な修羅場の予感しかしない。
「逃亡生活もそこまでだ。……さあ、俺の妻として国へ戻れ、キャルル。お前のような極上の『種馬』が、こんな辺境の泥にまみれているなど、国家の損失だからな」
ワイルダーの言葉には、キャルルへの愛情など微塵も感じられなかった。
あるのは、優秀な血統を持つ月兎族への「所有欲」と、自分のモノが逃げ出したことへの「苛立ち」だけだ。
「……お断りします」
キャルルは、震える足で一歩前に出た。
バッカス商会の時とは違う。彼女の目には、はっきりとした反抗の意志が宿っていた。
「私は種馬でも、あなたの所有物でもありません! 私はポポロ村の村長です。国へ帰るつもりはありません!」
「ほう? 下等種族のウサギが、虎に向かって口ごたえするか」
ワイルダーの目つきが、スゥッと細められた。
次の瞬間、彼の全身から、黄金色に輝く凄まじい『闘気』が噴き出した。
ビリビリと空気が震え、周囲の村人たちがその圧力だけで膝をつく。
「テメェ! ウチの村長を舐めてんじゃねぇぞ!」
詰め所から飛び出してきたイグニスが、戦斧を構えてワイルダーに斬りかかった。
「邪魔だ、トカゲ」
ワイルダーは武器すら抜かず、裏拳を一閃させた。
ドゴォッ!!
イグニスの巨体が、いとも容易く吹き飛ばされ、集会所の壁をぶち抜いて瓦礫に埋もれる。
「ガハッ……! はえぇ……重てぇ……」
バッカス商会の傭兵とは次元が違う。
ワイルダーは間違いなく、一騎当千の「本物」の強者だった。
「弱いな。弱者は強者にひれ伏す。それが獣人の、いや、この世界の絶対の掟だ」
ワイルダーは悠然と歩みを進める。
そして、ふと、広場の端に置かれていた木台の前で足を止めた。
そこには、俺が今朝方焼き上げ、天日干しで冷ましていた『月白粘土』の皿や小鉢が並べられていた。
「なんだ、このゴミは?」
ワイルダーは、無造作にその中の一枚――俺が丹精込めて形を整え、完璧な焼き上がりを見せていた平皿を手に取った。
「こんな泥遊びのガラクタで、飯を食っているのか? やはり下等種族の集まりだな」
パリンッ。
ワイルダーは、その平皿を無造作に握り潰した。
それだけではない。
彼は木台を蹴り飛ばし、並べられていた全ての陶芸品を地面にぶちまけ、鉄のブーツで無惨に踏み砕いたのだ。
ガシャッ、ジャリッ……。
月光のように美しかった乳白色の欠片が、泥にまみれ、ただのゴミへと変わっていく。
「…………」
広場が静まり返った。
ワイルダーの傍若無人な振る舞いに、誰もが息を呑んだからではない。
俺の、坂上真一の全身から、先ほどの闘気すら霞むほどの、絶対零度の冷気が立ち昇り始めたからだ。
「あーあ。……ワレ、やっちまいよったな」
離れた場所で、ニャングルが天を仰いで十字を切った。
俺は、手に持っていた『キャルルの茶碗』と『俺のぐい呑み』を、そっとキャルルの腕の中に預けた。
「持っていてくれ。……転ぶと危ないからな」
「ま、真さん……?」
俺は、土埃の舞う広場へと歩み出た。
頭の奥で、何かがプツンと切れる音がした。
この村を守るため? キャルルを助けるため?
それもある。
だが、今の俺を突き動かしているのは、もっと純粋で、私的な怒りだった。
「……おい、そこの虎の被り物」
俺の低くドスの利いた声が、広場に響く。
ワイルダーが、不快そうに振り返った。
「誰に向かって口を利いている、人間。……死にたいのか?」
「死ぬのはお前だ」
俺は、足元に散らばった陶器の欠片を拾い上げ、握りしめた。
指先から血が滲むのも構わず。
「俺が、徹夜で温度管理をして、ようやく納得のいく焼き上がりになった最高傑作を……」
ギリッ、と奥歯が鳴る。
「よくも……土足で踏み躙ってくれたな……!」
穏やかな温泉計画と陶芸ライフをぶち壊された、隠居ジジイの静かなる激怒。
今、帝国最強の元・軍事公爵が、虎狩りのスイッチを入れた。




