EP 1
隠居ジジイと、朝のコーヒーと、とんでもない来客
早朝の空気は、いつだって美味い。
だが、そこに炒りたての豆の香りが加われば、それは至高の時間へと昇華する。
「ふぅ……。やはり、マンデリンの苦味は体に染みるな」
大陸中央部、ルナミス帝国、ワイズ皇国、レオンハート獣人王国の三カ国が接する緩衝地帯――ポポロ村。
その外れにある小さな古民家の縁側で、一人の初老の男が湯気の立つマグカップを傾けていた。
男の名は、坂上真一。
短く刈り込んだ白髪交じりの髪に、深く刻まれた眉間の皺。一見すれば、ただの厳格そうな農夫か、引退した兵士にしか見えないだろう。
彼が纏うのは、飾り気のない麻のシャツと、緩いズボン。
手にした無骨なマグカップは、彼自身が村の窯で焼いた失敗作の一つだ。
(鉄と油と火薬の臭いにまみれていた頃に比べれば、ここは天国だな……)
真一は目を細める。
かつて彼が身を置いていた場所は、怒号と悲鳴が飛び交う戦場か、あるいは書類と陰謀が渦巻く統合幕僚監部のような場所だった。
それがどうだ。今は鳥のさえずりと、遠くでトライバードが鳴く声しか聞こえない。
平和だ。
この静寂を守るために、彼は地位も名誉も、何もかもを優秀な弟に押し付けてここへ逃げてきたのだから。
「あ! 真さーん! おっはよー!」
静寂を破る、鈴を転がしたような明るい声。
真一が苦笑して顔を上げると、長い白銀の耳をぴょこぴょこと揺らしながら、一人の少女が駆けてくるところだった。
この村の村長、月兎族のキャルルだ。
透き通るような白い肌に、愛らしい村娘の衣装。だが、そのスカートの下から伸びる脚が、岩をも砕く凶器であることを真一は知っている。
「おはよう、お嬢ちゃん。朝から元気だな」
「えへへ、見て見て真さん! 新作のハンカチ! 今回は『人参畑とロックバイソン』を刺繍してみたの!」
キャルルが鼻息荒く突き出してきた布には、オレンジ色の逆三角形と、茶色い塊のようなものが縫い付けられている。
……前衛的だ。ピカソも裸足で逃げ出すレベルである。
「お、おう……。味があるな。ロックバイソンの荒々しさが表現できている……気がする」
「でしょー!? これ、次の行商で売れるかな?」
「ま、まあ、魔除けとしてなら需要があるかもしれん」
真一が言葉を選んでいると、ドスン、ドスンと地面を揺らす足音が近づいてきた。
「おい真さん……。腹減ったぞ……」
現れたのは、身長二メートルを超える巨漢。
背中には畳んだ翼、額には立派な角。竜人族のイグニスだ。
かつて竜人の里で神童と呼ばれた男だが、今は寝癖でボサボサの頭をかきながら、涎を垂らしている。
「豚汁……。昨日の豚汁の残り、まだあるか?」
「お前なぁ、朝一番の挨拶がそれか。……鍋に残ってるから、勝手に温めて食え」
「うおお! サンキュな真さん! あんた、やっぱ最高のジジイだぜ!」
イグニスが尻尾を振って台所へ消えていく。
続いて、計算高い猫耳族の青年、ニャングルもひょっこりと顔を出した。
「毎度。真さん、今月の『コーヒー豆』の仕入れ代、ツケとくで。しかし、あんたのそのスキル『酒保』っちゅーのは便利やなぁ。見たこともない豆や菓子が無限に出てくるんやから」
「ああ、頼む。……俺の唯一の楽しみだからな」
真一はポケットから、銀紙に包まれたコーヒーキャンディを取り出し、口に放り込んだ。
甘くほろ苦い味が広がる。
ルチアナとかいうふざけた女神から貰ったスキルだが、この隠居生活には欠かせない。
キャルルが笑い、イグニスが豚汁をすする音を立て、ニャングルが算盤を弾く。
完璧な朝だ。
この穏やかな日常が、死ぬまで続くと思っていた。
――ズドォォォォン!!
突然、村の入り口の方角で爆音が轟いた。
真一の眉がピクリと跳ねる。
イグニスが豚汁の椀を持ったまま飛び出してきた。
「な、なんだぁ!? 敵襲か!?」
「……ただ事じゃないな。行くぞ」
真一は飲みかけのコーヒーを置くと、ゆっくりと腰を上げた。
†
村の入り口にある広場には、土煙が舞っていた。
そこに陣取っていたのは、豪奢な馬車と、武装した数十人の男たち。
男たちの装備は統一されていないが、ガラが悪く、歴戦の傭兵といった雰囲気だ。
そして、馬車には見覚えのある紋章――『ルナミス帝国』の国章が入った旗が掲げられている。
「おいおい、シケた村だなァ。ここが『緩衝地帯のオアシス』だって? 笑わせるなよ」
馬車から降りてきたのは、小太りで脂ぎった男だった。
ジャラジャラと不趣味な宝石を身に着け、高慢な態度で村人たちを見下している。
駆けつけたキャルルが、村長の顔つきになって前に出た。
「ポポロ村へようこそ。私は村長のキャルルです。……いきなり魔法を放つなんて、どういうつもりですか?」
彼女の声には、隠しきれない怒気が混じっている。
先ほどの爆音は、威嚇射撃だったらしい。広場の地面が黒く焦げている。
脂ぎった男は、キャルルを見るなり、いやらしい目でその体を舐め回した。
「ヒヒッ、噂通りの上玉じゃねぇか。……俺様は『バッカス商会』の支店長、ゴズハラだ。ルナミス帝国の貴族様御用達の商会だぞ、頭が高い!」
ゴズハラと名乗った男は、羊皮紙をばさりと広げた。
「単刀直入に言おう。今日からこの村で採れる『陽薬草』と『月見大根』、その他の特産品は、全て我々バッカス商会が管理する! 買い取り価格は市場の半値だ!」
「は、半値!?」
ニャングルが目を丸くして飛び出した。
「無茶苦茶や! そんな値段じゃ肥料代も出えへん! それに、ウチは三国の商会と等分に取引する協定を結んでるはずや!」
「協定? 知ったことか。俺たちのバックには、帝国の『あの御方』がついているんだ。逆らえばどうなるか……わかっているな?」
ゴズハラが指を鳴らすと、後ろに控えていた傭兵たちが、一斉に武器を構えた。
剣、槍、そして魔法使いの杖。殺気が村人たちを威圧する。
「テメェら……!」
イグニスの全身から、灼熱の闘気が漏れ出した。
背中の巨大な斧に手が伸びる。
だが、真一は知っていた。ここでイグニスが手を出せば、それは「帝国への反逆」とみなされる。
相手はそれを狙って、わざわざ帝国の旗を掲げているのだ。
(……典型的な、虎の威を借る狐か。だが、一番タチが悪い)
真一は溜息を一つ吐くと、スッと前に出た。
殺気立つイグニスの肩をポンと叩き、制止する。
「まあまあ、旦那方。そう殺気立たさんでくださいよ」
揉み手をしながら、人の良さそうな笑みを浮かべて近づく。
完全に「田舎の気のいい隠居ジジイ」の演技だ。
「なんだ貴様は? 村の老人か?」
「へえ、ただの陶芸好きの隠居でさぁ。……商売の話なら、もう少し穏便に話し合いませんか? ほら、この村の宿には美味い『芋酒』もありやすんで」
真一は下手に出て、場を収めようとした。
だが、ゴズハラは鼻で笑い、あろうことか真一の足元に唾を吐いた。
「汚らしいジジイが近寄るな! 芋酒だと? そんな貧乏臭いもんが飲めるか!」
ゴズハラは、真一が置いたままにしていた陶芸用の土が入った桶を蹴り飛ばした。
ガシャン、と音を立てて桶が転がり、真一の靴が泥で汚れる。
「……」
「いいか、よく聞け! 明日の朝までに契約書にサインしろ! さもなくば、この村を地図から消してやるからな!」
高笑いを残し、ゴズハラたちは村外れに強引にテントを張り始めた。
泥だらけになった靴を見つめながら、真一は口の中でコーヒーキャンディをガリリと噛み砕いた。
その背中にある「仁王」の刺青が、服の下で熱く疼き始めていた。
(……俺の穏やかな老後を邪魔する奴は、どこのどいつだ?)
元・帝国軍筆頭公爵の目が、一瞬だけ、かつての「鬼」の色を宿した。




