EP8 夏休み開幕
セミの大合唱が、すでに暑さでイライラしている俺の神経を逆撫でする。
「あっつい……」
こうなれば口から出るのは地球温暖化に対する文句ばかりで、なんの意味も為さないとわかっていながらも、ついつい頭の上で一心不乱に熱線を振り撒く太陽を睨みつけてしまう。
目先の景色はアスファルトからの熱で揺らめき立っていて、このまま自分の存在が不明瞭になってしまう様な気すらしてきた。
「やばい……そろそろ日陰に入らないと、本格的にやばい気がする」
楽しい楽しい夏休み初日。
当初の予定では、エアコンの効いた部屋でゴロゴロと自堕落に過ごす計画だった。しかし残念なことに俺は今、真夏の真昼間に外に出かける羽目になっていた。
夏休み前、中間考査に向けて連日図書室で勉強した甲斐あって、下月さんは赤点ギリギリで補習を回避した。
そもそも普段の小テストなんかの点数は絶望的で目も当てられない彼女が、全教科赤点を回避したことは奇跡に近い。
そんな夏休み前の出来事を思い出していると、ポケットの中でスマホのバイブがメッセージの受信を告げた。
『件名:今どこ?』
から始まるメッセージの送信者欄には、『下月人美』の名前があった。
『藤宮くんは今どの辺?私達はもうファミレスに着いたよ〜。店内涼しくて幸せ』
『まだコンビニの近く』
一瞬、イラッとした。
しかし、スマホに罪はないので優しく画面をなぞって返信を入力する。
送信ボタンを押してすぐに、またメッセージが届く。もちろん差出人は下月さんなのだが、それにしても返信速度が速すぎて、その返信を入力する指がどんな風に動いてるのか想像するだけで気味が悪いと感じてしまった。
『OK!席に先に座っておくね〜。外は暑いから気をつけるんだぞ。藤宮くん、太陽に弱そうだし』
『はいはい』
スマホの電源ボタンを短く押して、暗くなった画面に自分の顔が反射する。
なんともまあ、自分で言うのもなんだが、実に不健康そうな顔をしている。
「はあ……。そもそも、俺必要なくね……?」
ため息を何度も漏らしつつも、着実に一歩ずつ目的地のファミレスを目指すことにした。足取りは思ったよりも重くて、一歩踏み出すごとに憂鬱さが増していく。
「遅いよ!」
鉛のように重かった足を引きずって、ようやくファミレスにたどり着いた俺に向けられた第一声がこれだった。
「これでも帰らずにここまで来たんだ。むしろ褒めてくれ」
「えー……藤宮くんの家から歩いて10分もかからない所だよ」
「それがどうした?」
「それを一時間もかけて歩いてくるなんて、むしろ熱中症になっちゃうよ!?」
「じゃあ誘うなよ……」
「ん?何か言った?」
「なんにも」
不意に溢れた俺の小さな愚痴は、幸いにも下月さんの耳には届かなかったみたいだ。
「そんなことより、はい。藤宮くんの分。コーラでよかった?」
一方で橘花さんは、暑い道中を歩いてきた俺をきちんと労ってくれる。
差し出されたグラスはコーラで満たされていて、水滴が纏わり付いている。見るからにキンキンに冷えていて、飲み出す前から体内の熱を吸い取ってくれそうに感じる。
「ありがとう。二人は宿題を先に進めていたのか?」
「うん。でも、下月さんの集中がぜんぜん続かなくてね」
困った様な表情を浮かべて下月さんの方をチラ見する横顔を見ると、今日ここにやってきて正解だったなと思えた。
橘花さん一人に任せっきりにするのは、申し訳なく感じてしまったのだ。
「さてと。俺も宿題するから、下月さんも集中してくれ」
「はーい」
「なんだその気の抜けた返事は」
「だってー。まだ夏休みは始まったばかりだよ?」
ぶん殴ってやりたくなるのを堪えて、自分の宿題に向き合うことに決めた。
数学の課題を難問か解いた後、突然橘花さんから声がかけられた。
「藤宮くんって、塾か何か通っていたの?」
「どうしてそう思った?」
「うちの学校って一応進学校だよね?それなのに全然、苦戦してなさそうだから」
「あー……。昔、ちょっと師匠に教わってな」
「えっと、祓魔師としてのお師匠さんなんだっけ?」
「うん」
「その人のこと詳しく聞いてもいいのかな?」
「嫌だ。それより勉強しようぜ」
「えー……」
落胆した様子の橘花さんを見て少し心が痛むが、俺にだって聞かれたくないことの一つや二つある。
ここは一つ、彼女には大人になってもらおうと密かに心の中で祈ったのだが、
「私も藤宮くんのお師匠さんの話聞きたい!」
と、半分諦め始めていた橘花さんの熱意を煽るように下月さんが会話に割り込んできた。
「そんなに面白くもない話だし。なによりも下月さんは勉強した方がいいと思うぞ」
「休憩だよ」
「休憩しかしてないだろ」
ファミレスに来店して二人と合流してから約10分。勉強時間にして5分程度といったところで、すでに下月さんの集中力は切れてしまったらしい。
この人はどうやって受験に成功したのだろうか、という失礼な事が思い浮かんだが、その考えを頭の片隅に追いやって勉強の続きに勤しむ事にした。
「今なん時……?」
黙々と勉強を続ける俺と橘花さんの集中を遮る声が耳に入ってきた。
「……二時間は経ったか」
無視しようと思ったが、さすがに集中も途切れかけていたし、なによりも飲み物がなくなってしまったので仕方なく相手をする事にした。
「橘花さんは……さすがの集中力だな。邪魔しちゃ悪いし、俺は飲み物とりに行ってくるよ」
「私も行く!!!」
勉強から離れられると悟った、明るい下月さんの嬉々とした声が店内に響き渡った。
一瞬、周りの客の視線がこちらに集まるが、それもすぐに店内の穏やかなBGMのように霧散していった。
「俺はコーヒーにするけど、下月さんは何にする?」
「ん?今日はやけに話しかけてくれるね。何かいいことでもあった?」
「特には」
「そっか〜。私はメロンソーダにしようかな」
他愛もない会話をしながらドリンクバーに向かう。
「藤宮くん知ってる?」
「なにを?」
「ドリンクバーで濃い飲み物を作る裏技」
なんともくだらない話題だと思ったが、不思議と会話をやめる気は起こらなかった。
「あれだろ。原液と水が半分ずつ出てくるから、原液側だけ注ぐってやつ」
「そう!その方がお得じゃない!?」
「グラス濡れるし、なにより店の人に迷惑な変な客と思われたくないからやらない」
「えー。せっかく教えてあげたのに」
「いや。最初から知ってたから」
グラスに注がれたほろ苦い香りの漂うコーヒーが溢れてしまわないように注意しながら自分たちの席に戻る。
席に近づくと橘花さんが一息ついているのが見えた。区切りの良いところまで勉強が進んだのだろう。
「遅いよ二人とも。二人だけで仲良く飲みのも取りに行くなんて。誘ってくれてもよかったのに」
少し不満そうに頬を膨らませながら橘花さんはストローから口を離した。
「橘花さん、集中してたし。邪魔しちゃ悪いかと思ってさ」
「そっか。それで、二人は勉強どこまで進んだの?」
勉強の進捗を聞かれて一瞬ドキッと肩を震わせた下月さんを横目に、自分の開きっぱなしのノートに目線を落とす。
「概ね順調って感じだな。橘花さん程じゃないにしろ、家で一人勉強するよりかは捗ってる」
勉強は嫌いじゃなかった。とはいえ、エアコンの効いた自分の部屋で勉強していたら、ここまで集中することはできなかったと思う。
どこかで聞いたありきたりな成功者の名言である、『環境を整えること』の重要さんが素直に身に沁みて実感できた。
「私が誘ったおかげだね」
そんなささやかな感動を打ち消すように、向かいの席に座りなおした下月さんが、胸を張って偉そうにしている。
「はいはい」
言い返すのも面倒くさそうで適当に相槌を打っておいた。どうせ、この後に橘花さんに進捗を聞かれてキョどる彼女の姿が目に浮かんだのだ。
「で、下月さんの方は?」
ほら、やっぱり。
さきほど思い浮かんだ情景がそのまま目の前で再現されたことに、内心笑みが浮かんだ。