EP6 怠惰な夏休み〜突入編①〜
早いもので、気付けば季節は本格的な夏になっていた。そろそろ夏休みが到来し高校生には嬉しい時期なんだけど。
「で?下月さんは、中間テストは大丈夫そうなのか?」
「いや〜。自慢じゃないけど、勉強の方は不得意でして……」
「だろうな」
「ひどいよ!!どうせ藤宮くんだっていつも授業中寝てるんだし、成績もそこそこでしょ」
「あの〜……。藤宮くんは授業態度こそアレだけど、成績的には学年でも上位な感じだよ?」
絶賛、夏休みをかけたテスト期間の真っ只中なのである。
そして私の成績は、正直赤点ギリギリという感じなので、このままでは青春時代の貴重な夏休みが失われようとしているのである。
「二人とも……私たちって、友達だよね?」
「うん」と橘花さん。
「そうなのか?」と言うのは藤宮くん。
藤宮くんが冷たいのはいつものことなので気にしないが、橘花さんはとても良い子だと思う。
そんな私の友人達なら、と一途の望みにかけることを決心した。
「私に勉強教えてくれない?」
******
そんなこんなで放課後。
私たちは勉強会のために藤宮くんに連れられて、講義棟三階の一番東の部屋である『図書室』を訪れることにした。
「ここってーー」
先頭の藤宮くんが開け放った扉をくぐると、そこには『非日常』が存在していた。
その乱雑に積み上げられた本の山々の上、少し見上げるほどの高さに、本を片手に持ちながら視線だけをこちらに見下ろすように佇む銀髪の少女がいる。
「よう。今日は立ってるんだな」
と、藤宮くんは普段と変わらない様子で話しかける。
「座りっぱなしは体に悪いからね。それより、そちらの二人はどなたなのかな?」
彼女の真紅の瞳に見据えられ、私は身動き一つ取れないでいた。
おっとりとした言葉遣いの裏に、どこか藤宮くんに感じる異物感のような物が喉に刺さって声が出ない。
「おい。そんな邪険にしてくれるな。二人は俺の同級生だよ」
「ふーん……同級生……ね」
「なんだよ」
「べっつに〜。今日はどんな用なの?」
「ああ、それなんだがーー」
二人のやりとりと、何とも親しげな雰囲気に橘花さんが耐え切れず、口を開いた。
「えっと。藤宮くん、こちらの方は?」
「あ〜……。こいつはーー」
銀髪美少女が藤宮くんの言葉に割って入る。
「私は白菊京。藤宮くんとは〜『特別な間柄』かな?」
少し意地悪な笑みを浮かべながら、白菊と名乗る少女は答えた。
どうやら、橘花さんのことをからかっているみたいだ。
「え……!?特別!?……うええ!?」
橘花さんは純粋にも程がある。いじられることに不慣れなのが、その動揺ぶりから丸わかりなのだ。
「おい、言い方」
「だって〜」
藤宮くんは一喝して、私たちの方に振り返る。
「こいつとは、まあ少し訳ありでな。でもそこまで深い仲じゃないぞ?」
「ひどいこと言ってくれるね〜。まあいいや。それで?話の続きだけど、結局今日はどんな用事で『仮構図書館』に来たのかな?」
美少女の考える姿勢というのは、なんというか絵になるのだ。
拳を顎の下に当てる。そして少し首をかたむけつつも、しっかりと上目遣い。
そんな仕草を向けられたら、普通の男の子だったらひとたまりもないんじゃないかと思うが、藤宮くんはいたっていつも通りだ。
「それなんだけどさあ、白菊は勉強得意か?」
「ん?それなりにって程度だけど……それがどうかした?」
「いや、こいつ……『下月人美』っていうんだけど、勉強のできがアレでさ。ちょっと勉強教えてやってくれないかと思ってさ」
「ちょっと!?初対面の人にそんなアレとか、失礼なこと言わないでくれないかな!?」
私は思わず、藤宮くんのデリカシーのない発言に突っ込んでしまった。
藤宮くんはちらっと私の方に黙したまま、『めんどくさいやつだな』とでも言いたげな視線を向けてくる。
しかし、藤宮くんの態度に悪びれた様子はなく。結局、私の悲痛な叫びはまったく聞き入れて貰えないまま、目の前の二人の会話は続く。
「下月さんに勉強を教えるのは構わないんだけど、どうして私なの?藤宮くんだって、そんなに成績悪い方じゃなかったと記憶しているのだけど……?」
「成績だけで言えば、確かに俺が教えても問題ないんだがな」
「ん?他に何か問題でも?」
「残念ながら、俺は他人に物事を教えるのが得意じゃないんだよ」
「ふーん。そういうことにしといて欲しいって感じね」
「ああ、頼むよ」
「わかったわ。それじゃあ、下月さん?勉強を始めましょっか」
そう言って、私に体を向ける白菊さんの所作の一つ一つがキラキラとまぶしい。彼女の銀髪が、蛍光灯の灯りを反射させるし、新雪のような白い肌は藤宮くんとの会話で少し赤く色づいていて、なんだか妙な気分になってしまう。
「ああ、それとーー」
白菊さんに魅入っていると、突然彼女が口を開いた。
「あの時計は当てにしないでね?」
彼女に指差された方向。積み上げられた本の山によって、部屋の灯りが遮られて少し薄暗くなった奥の柱。
時刻が18時少し過ぎであることを指し示す、アンティーク風の壁掛け古時計が目に止まる。
白菊さんの言葉から、あの時計が故障しているのか、もしくは時刻がずれているのか、そんな何かしらの秘密があることが伺える。
しかし私は、一見何の変哲もないその時計に、いったいどんな秘密があるのか、まったく見当が付かないでいた。
そんな小さな違和感を残して、私たちの勉強会は始まった。
*****
「うーーーーん。つかれた……」
凝り固まった身体をほぐそうと大きく伸びをする。
「白菊さん、ありがとうね。教えるの上手で、私でも理解しやすかったよ」
「そう。それなら良かったわ」
優しく微笑む白菊さんの表情を見て、私の中にあった彼女に最初に抱いた不気味な感じは、もうすっかりと消えていた。
ふと隣に目をやると、休憩を挟んだ私とは対照的に、いまだカリカリとペンを走らせながら集中する橘花さんの横顔が目に映る。
私の視線に気づいたのか、橘花さんは手を止めて私の方に顔を向けた。
「どうかしたの?そんなに見られると勉強しにくいんだけど……」
「あっ!ごめんね!邪魔する気とかなくて、ただただ集中してすごいなあって思ってさ」
「何を言ってるの?」
「え?ああ、私は普段こんなに長い時間勉強しないからさ〜。橘花さんの集中力に驚いちゃって」
「だから、下月さんがそんな真剣に、何に驚いてるのかわからないよ」
「え?」
私はようやく、橘花さんとまったく話が噛み合っていないことに気づいた。
真剣な表情で私に対して怪訝さを向けている橘花さんは、きっと本心でこんな長い時間の勉強を苦とも感じていないのだ。
「そっかそっか」
クスクスと白菊さんが笑っている。
「なに?どうかしたの?」
私は不気味な笑顔を浮かべる彼女を、問いたださずにはいられなかった。
しかし、そんな私の言動に反して、白菊さんは手をひらひらさせながら笑顔で楽しそうに話し続ける。
「いや〜。藤宮くんが連れてきたから、『二人のうちのどっちか』はって思っていたけど。どうやら『二人とも』みたいだね」
これには思わず、私も橘花さんも「なんのこと?」と聞き返しながら、頭にハテナマークを浮かべてしまった。
「二人とも『夢魔』って知ってるでしょ?」
白い肌に似つかわしくないプックリとした、丸みと潤いを帯びた薄桃色の血色のいい唇。
そんな非現実的なほどに綺麗な彼女の口元に視線は吸い寄せられるものの、私の思考は一気に記憶の中の悪夢が呼び起こされていた。
「なんで……いや……えっと……」
あまりにも唐突な出来事に思考が追いつかず、何から聞けばいいのかわからなくなってしまった。
「落ち着いてよ。別にとって食べたりしないわよ」
私の動揺を楽しんでいるのか、白菊さんは肩を小刻みに震わせている。
その様子から、白菊さんに敵意がないことは伝わってきた。
「その様子だと。たぶん最初は下月さんで、その次が橘花さんってところかな?」
「どうして……?それに、橘花さんも『夢魔』に出会ったの……?」
橘花さんは目を見開いたまま固まっている。表情がひどく強張っていて、少し呼吸が早いのが、まさに白菊さんの言葉が真実であることを裏付けている。
「さて、そろそろ藤宮くんが二人をここに連れてきた理由を話してくれるんじゃないかな?」
白菊さんに催促されて、机の端の方で読書していた藤宮くんはパタリと本を閉じる。
気だるそうな目、『やっとか〜』と言いたげな深い吐息、ぶっきらぼうに机に本を置く振る舞い。
その全てが、これからなにか重要な話が始まるということを告げるかのようだった。
「とりあえずだけど、下月さん。今何時かわかるか?」
「えっと……あれ?」
私は部屋の奥の古い時計に目を向ける。
短針が指し示しているのは、文字盤上に描かれた6と7の間、長針は6を指していた。
勉強開始時刻が18時。現在時刻18:30なので、つまりあれから30分。
それが私が長い時間、勉強に費やしたと感じていた間に経過した時間だった。
「橘花さんはこの時間経過に違和感はない?」
「私はちょうどそのくらいかなって感じ」
「俺も読んだページ数的にそのぐらいだ。つまり、下月さんの体感時間だけが早まっているんだよ」
「どういうこと?私にもわかるように、もう少し簡単に説明してくれない?」
「……。」
「ねえ!!!そんなめんどくさそうな目で見ないで!?」
藤宮くんは私に冷ややかな目を向けている。
「えっとね。たぶんだけど……この部屋も、なんだったら白菊さんも『夢魔』に関わっているってことじゃないのかな?」
「正解。さすが橘花さんだね。この状況とメンツから、しっかり正解を導き出すことができた」
「えへへへ。ありがとう」
藤宮くんに褒められて、橘花さんは照れくさそうに、でも嬉しさを隠す気のない表情を浮かべる。
「橘花さんが言った通り、『図書室』はそこの白菊の妄想が生み出した世界なんだよ」
「そんなことができる夢魔なんているの?」
「……そうだな。まずは『夢魔』についてしっかり話さないとだな」
「うん。それに……たぶん私が忘れている橘花さんのこともね」
「私も知りたい。下月さんと藤宮くんの間になにがあったのか」
私と橘花さんは、お互いの『夢魔事件』について、薄々はなにかあるのだろうとは思っていたものの、そこに深く関わることはこれまでなかった。
聞いていいのかわからなかったのだ。正直私も、自分の『事件』について、そうやすやすと他人に踏み込んで欲しくないと感じていたから。
「下月さん、君に取り憑いたのは直接的に人間の寿命を奪いに来るタイプの『夢魔』だ。この手のタイプは、人の負の感情……下月さんでいえば死にたいという感情を大きくさせる。そしてまともな人間では越えない一線をいとも簡単に越えさせてしまうんだ」
「そうだね。今思えば、私の自殺が叶わなくて、すぐに藤宮くんをターゲットに代えてしまったんだと思う」
「それに比べて橘花さんの『夢魔』は、間接的に人を殺めるタイプだったね」
「私、死にたいなんて思ったことないよ?」
「生物学的にはそうかもしれないね。でも、『真面目な橘花椿』は死んでたよ」
「また、藤宮くんが難しい話してる……」
「えっと。真面目なままの私が送るはずだった残りの人生が奪われるって認識かな?」
「そう。それも一種の殺人だよ。選択肢の選ばれなかった世界が奪われる。それが夢魔の真の力なんだ」
「わかんないよ!!!」
橘花さんは話についていけているみたいだけど、私にはさっぱりわからなかった。
そんな私たちのやり取りをニコニコと静かに見守っていた白菊さんが、藤宮くんに代わって丁寧に解説を始めてくれた。
「下月さん、例えばパンと白ご飯が選べるとして、どっちを食べる?」
「う〜ん……パンかな」
「これで、白ご飯を選んだ下月さんと、パンを選んだ下月さん、ふたつの世界線が誕生するってのは理解出来る?」
「なんとなく」
「じゃあ、選ばれなかった『パンを食べる世界』はどうなっちゃうと思う?」
「ふぇ?」
「これがいわゆる平行世界の成り立ちよ。夢魔はそんな平行世界の下月さんの寿命を奪っちゃうの」
「なるほど……」
白菊さんの解説を聞いて、ぼんやりながらも私の中で点と点が繋がっていく。
なぜ、夢魔は現実世界に干渉できないのか。それは夢魔が平行世界の存在だから。
なぜ、夢魔は思春期の人間に積極的に取り憑くのか。それは若い人間の方が、より多くの選択を強いられるから。
なぜ、夢魔事件は解決した途端に、世界からその出来事が消えてしまうのか。夢魔という存在とともに平行世界を認識できなくなるから。
「シュレディンガーの猫。それがこの世界の在り方だ」
藤宮くんの言葉で、改めて自分が非科学的で非現実的で、非日常なものに関わってしまったことを実感する。
それが恐ろしくも、どこか魅力的で。だからこそ私は、そんなものに無自覚に引き寄せられてしまっているのではないかと思った。