EP1 少女は死にたいの反対の気持ちに気づいた
「ああ、まただ……。あの声が聞こえる……」
夕方の屋上は、まだ春の穏やかさを残しつつも、初夏の訪れを実感させるのに十分な強い西日に照らされる。眼前に広がる景色は綺麗な夕焼け色に染まり、熱を蓄えたコンクリートがゆらゆらと世界の輪郭をボヤけさせた。
背中に触れるフェンスは暖かく、そっと撫でられているようにすら感じさせる。それでいて、スカートの中に入り込む風は爽やかで、ふわりと重力が軽くなった様に錯覚させる。
ジリジリと肌を少しずつ焼くような熱に、しだいに頭がぼーっとしてくるような感覚の中、
『あと一歩前だよ……あと一歩……はやく……早く行けよ!!』
そんな声が耳元から聞こえる気がする。その声に耳を澄ますと遠くから聞こえる気もするし、後ろからのような気がして少し気味が悪い。
そしてなによりも気味が悪いと感じさせる理由は、私がこの声を知っているからだろう。
その声は、何度もなんども聞き覚えのあるもので特にここ最近に至っては毎日聞かされた声だ。
私はその声を聞く度に、恐怖で目が覚める。
そう、この声は私の夢の中に出てくる小さな悪魔の声なのだ。
でも今はそんなことはどうでもよくて、私はそっと一歩を踏み出そうとした。
「あ〜あ、死んじゃうんだ」
突然後ろから、投げやりで無気力で気怠そうな声が私の耳に入る。
その声に、私はハッと意識が定まり後ろを振り返る。
ヨレヨレのワイシャツを腕まくりして、学生ズボンのポッケに両手を突っ込んだままこちらを見つめる、気怠げな声の主と目が合う。
特段イケメンなわけでもなく、かといってブサイクと呼ぶにはあまりに平凡な顔立ち。寝癖なのか、そういうセットなのかわからない、くしゃっと整えられた黒い前髪が風になびいている。
黒縁メガネの奥から覗く目は、半開きでどこか眠気を伴っているし、その瞳にはこの綺麗なオレンジ色の世界が写り込んでいない。
『まるで死んだ魚のような目』、という表現がここまでしっくりくる人間を私は初めて見た。
身長もだいたい170㎝前後の少し痩せ型の体型で、袖から覗くスラリと伸びた手が、彼がインドア派であることを物語っているみたいだ。
「……何?」
という警戒心MAXの私の問いかけに、彼はフッーっと少し長めの息を吐いてから喋り出す。
「《下月人美》。城新高校一年A組の16歳。品行方正で先生方からの信頼も厚い。その綺麗な容姿から、男女問わず友人は多い。趣味は……」
突然彼が語り出したのは『下月人美』のプロフィールだった。
いったい彼は何がしたいと言うのだろう?
彼とはクラスメイトとはいえ、普段から会話をするような仲ではないし、どうしてそこまで私のことに詳しいのか謎だった。
「何よ。私のストーカーなの?」
怪訝な表情を向ける私に、彼はニコッと微笑む。
「同級生がいじめられている現場を運悪く見かけてから、次のターゲットになった……か。可哀想に。何も悪いことはしていないが、強いて言うなら自分の運が悪かったな」
「なっ……!?なんで、あなたがそんなこと知ってるのよ」
私は同じクラスの女子グループから迫害を受けている。それは、虐めなどという優しい言葉では言い表せないほどのものだった。
けれどもそれを誰かに相談したことは無かった。誰に言っても仕方ないことだと、私がもっと頑張って苛められないようにするしかないのだと、そう考えていたからだ。
そんな私の秘密を、この『友達ですらない彼』が知っていることが不気味だと感じる。
「教えてくれるのさ。コイツが……」
彼はポケットから右手を引き抜き、ゆっくりと自身の足元を指差す。背後から夕日に照らされ、引き伸ばされた彼の影。
そんな彼の影の足の横に『なにか』が座っている。当然、彼のそばには誰もいない。
「ひっ!?な、なによそれ!?」
「あん?こいつのことは俺よりあんたの方がよく知っているだろ。さっきもこいつの声が聞こえていたんじゃないのか?早く行けって」
私にずっと話しかけていたもの。この世に実体のないもの。目には見えないなにかであり、でも確実にそこに存在している何かでもある。
「なんなの……なによ……?それはなに?あなたには見えているの?」
また彼は長い溜息のような息を吐き、そっとその『なにか』に寄り添うようにその場にしゃがむ。
冷んやりとした夕方の風が背中を通り抜ける。それによってジンワリとかいていた汗が冷え、全身に鳥肌が立つ。
「こいつらは『夢魔』って言って、まあ簡単に言うと悪魔だ」
「あくま……?本気で言ってるの?」
「連日、誰かに突き落とされる夢をみてるだろ」
彼の言葉に、またぞくりと全身に鳥肌が立った。私の目に映る、その『なにか』の存在感が現実味を増していく。
世界から音が消えたように、私の世界が静寂に支配される。
グラウンドで部活動を行う生徒たちの声が消え、つい先程までカアカアと鳴いていたカラスは、今は一羽も見当たらない。
「夢魔ってのは、人の心に巣食い、人の心を蝕む病気みたいなもんだ。実体がないから直接は干渉してこれない。その代わりに取り憑いた人間に悪夢を見せるーー」
彼の言葉が聞こえない。いや、聞こえてはいるのだけど頭に入ってこないのだ。
ぐるぐると、世界が上下を失って回っているような感覚に襲われた。船酔いしたみたいな気分になり、私はフェンスを掴んでその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
「ああ、すまんな。混乱しているみたいだし、今すぐに理解はできないよな。それにもう死ぬ気なら関係ないしな」
そんな姿を一瞥してから、彼はクルリと向きを変えて屋上の扉に向かって歩いていく。
見捨てられた。
そう実感した瞬間、恐怖にも似た感覚が私の思考を支配する。
「私はどうしたらいいの!?」
私の悲痛な叫びにも似た、上ずった声が彼の歩みを制止した。
「安心しろ、夢魔を払う方法はある。一つは取り憑かれた人間が死ぬこと。もう一つは、夢魔に取り憑かれた原因を解消すること」
彼はこちらを振り向かずに答える。その背中が、自分には関係ないから好きにしろと言っているみたいだった。
「助けてよ……。おねがい……」
私は今にも泣き出しそうになる。怖くて怖くて、どうしようもなかった。
私の精一杯の懇願に、ようやく彼はこちらを振り向いてくれた。
その表情は穏やかだっだが、でも彼の黒縁のメガネの奥の瞳にはやっぱり光が無かった。
「あっ……その……」
言葉が思い浮かばない。パクパクと口は動くが声が出ない。そして決局何も言えないまま、ただただ立ち去る彼の背中だけが私の脳裏に焼きついた。
*****
始まりは些細なことだった。
ここ、城新高校に入学して一ヶ月くらいが経った頃、私は部活棟の裏で同級生の子が虐められているのを見かけた。
たったそれだけ。
特に口を出したわけでも、先生にチクったわけでもない。それなのに、その日から地獄のような日々が始まった。
呼び出される毎日。殴られ、叩かれ、水をかけられる。物が無くなるなんて可愛いもので、私の机に花瓶が飾られていたこともある。
先生には相談できなかった。仕返しが怖かったのだ。もっと酷いことをされるんじゃないかと、毎日怯えていた。
もし、私がそこで声をあげて誰かに助けを求めることができていたらーーなんて、今となってはもう遅い。
私は必死に明るいキャラを演じた。一人でも自分の味方を増やしたかったのだ。
そんな日々が始まってから、私は毎日悪夢を見るようになった。
長い長い階段を上っていく夢。結末はいつも同じだった。
長い階段の終わりに辿り着くと、後ろから悪魔に押されて地の底に広がる深い深い闇の中に落ちていく。
その悪魔はいつも、まるでおとぎ話のゴブリンのような矮小で醜悪な見た目に、不敵に邪悪な笑みを浮かべている。突き落とされた私は、藁にも縋る思いで必死に手を伸ばす。その手が何かに触れることはなく、非情にも無慈悲に絶望に引き込まれていく。
そんな私を、私が見ている。
「ああ……そっか。私が『悪魔』なんだ……」
*****
その日は記録的な大雨となった。太陽は厚い雲に遮られて、朝から薄暗い。登校中も授業中も、ずっと私はポケットの中に固い感触があるかを確かめていた。
頭の中はひどく冷静で、辛うじて記憶した昨日の彼の言葉が反芻していた。
『夢魔を払う方法はある……夢魔に取り憑かれた原因を解消すること……』
昼休み前、午前中最後の授業の終わりを告げるチャイムが校内に響き渡る。その鐘の音はまるで今日、私の高校生活が終わることを告げているようだった。
さあ、始めようかなと立ち上がるために椅子を引く。キュッという、上履きが強い摩擦を起こす音が心地よく耳に伝わる。私の視線が捉えているのは、いつも私にひどいことをする同級生の女の子。教室から出て行こうとしているその背後から、一撃必殺で仕留める覚悟で駆け出した。
直後、教室内に阿鼻叫喚の悲鳴が木霊す。握られたカッターナイフから、暖かい感触と血液の躍動感が手に伝わってくるーーはずだったのに。
「おい、そんなもん持って走ったら危ないだろ?落ち着けよ」
昨日屋上で聞いた声がまた私の邪魔をする。ああ、なんと腹立たしく胸糞悪いのだろうか。
「あなたが教えてくれたんじゃない……悪魔を払う方法を」
「馬鹿か?」
彼は心底呆れたという表情をしている。
噛み締めた唇から鉄の味がした。
「悪魔のせいにすれば気持ちは軽くなったかい?復讐してもいいという考えを正当化して……本当に人間は醜いね」
と彼はニコッと不敵に微笑みながら言う。昨日と同じ、冷たい目をしたままでだ。
「あなたになにがわかるの!?毎日毎日、理不尽に殴られ、馬鹿にされ、見下される。だから私は誰にも嫌われないように明るく振舞って頑張ったのに……」
「夢魔なんかよりも、詐りだらけのお前の方がもっとずっと悪魔だな。」
ああ、ダメだ。こいつはきっと私の敵なんだ……。
そう思うとさっきまで激情にかられていた頭の中がすうーっと冷めていく。そして冷静になった思考が一つの結論を導き出した。
『殺そう』
わたしは真っ直ぐに、彼めがけて駆け出した。ガタガタっと何度か机にぶつかるが、気にせずただただカッターナイフを前に突き出しながら進む。
「そっか。そんなに自分を殺すのが怖いのか。じゃあ俺が代わりにーー」
そう言って、ヒラリと私を躱して彼は手を伸ばす。
掴まれた喉仏は、自分が女でこの無気力な目を持つ彼が、それでもなお男であることを物語っていた。
冷たい手の感触が、熱の上がっていた私の首元を冷ます。
ガシャっと音を立てながら、彼に押し付けられた私の体が窓ガラスを割る。それでも、私を窓外に押し出そうとする彼の手は止まらない。
その威圧感と腕力に、私は、彼が本気で殺そうとしていることを悟った。
『私は死にたくない……』
夢の中の私が、悪魔に言った。その夢の終わりが、現実で近づいている。
重力が無くなったような感覚がした。それと比例するように、私の意識は薄れていく。
最後には、開けた扉を閉めるように、差し込んでいた光が閉ざされるように闇の中に消えてしまった。
*****
気がつくと白い穴あき板の天井が眼前に広がっていた。保健室だろうか。病院ではないことは確かで、私の体に傷は一つもない。つまり、生き長らえたのだろう。安堵とともに、あんな事件を教室のど真ん中で起こした私が、普通の生活に戻れるのだろうかという不安が襲ってくる。
ふと、枕元に目を移すと一枚の手紙が置かれていることに気がついた。
『眼が覚めたか?安心していい。夢魔によって引き起こされた事件は、解放された瞬間に世界からその痕跡が全て消える。だって、夢魔は夢の中の悪魔だから。
記憶が残るのは、本人と、夢魔事件に深く関わりすぎた特殊な境遇の者だけだ。
だから、お前は普通に生きろ。
思春期なんて黒歴史の塊みたいなもんだ。ちなみに下月さんは、立ち眩みで倒れて保健室に運ばれた。ってことになっているからな』
そう書かれていた。
彼がこんな手紙を書いたのだと思うと、プッと吹き出してしまいそうになる。なんだかんだ言って、私のことを心配してくれているのだろうと思うと、ついつい表情が和らいでしまう。
私の身体はそのままの意味で、何か憑き物が落ちたように清々しい。
時刻は夕刻。窓の外の景色は、昼から降り始めた土砂降りの雨が既に止んでいた。
「明日会えたら謝らなくちゃな……」
安心して気が緩んだのだろうか。クシャッと握りつぶした手紙に涙が零れた。