"正論"が一番か
「正論」が流行っている。正論で相手を論破するというゲームが大流行している。
「正論」を言う人間が最終的には一番強い、一番正しい、そういう観念が広まっているように見える。私が好きな細川バレンタインから、好きではないひろゆきまで、「正論で論破する」というゲームが各所で行われている。
この「正しい事を言っているから自分は相手よりも偉いんだ、正しいんだ」という観念は、私から見てかなり賢い人の中にも刷り込まれているように見える。賢い人間が、私からすれば馬鹿な論争で自分をすり減らしたりしている。だが、当人は馬鹿な論争だとは思っていない。彼は正しい意見で相手を打ち負かし、その勝ち負けには意味があると考えられているからだ。
私自身は「正論」というものが価値があるという考えに以前から疑問を抱いていた。私の中で決定的だったのはドストエフスキーについて調べていた時だ。
ドストエフスキーに「作家の日記」という評論集がある。非常に長いものだが、内容は極めて雑然としていて、ドストエフスキー研究者か、私のようなドストエフスキーオタクぐらいしか読まないものだ。
その解説を、アンリ・トロワイヤという作家が書いている。アンリ・トロワイヤは「作家の日記」に散らばっているドストエフスキーの思想を一つ一つ拾い上げ、まとめ、批判していた。
私はドストエフスキー信者と言ってもいい人間なので、ドストエフスキーを応援したい気持ちが強いのだが、それでもアンリ・トロワイヤの一々の指摘、批判は(確かにな)とうなずかずにはいられないものだった。要するに、正論を言っているかどうか、という争いにおいては、ドストエフスキーよりもアンリ・トロワイヤの優れている。
しかし、作家として、その作品を見れば、アンリ・トロワイヤよりもドストエフスキーの作品のほうが優れていると言わざるを得ないだろう。
ちなみに、ドストエフスキーのウィキペディアを見ると、ドストエフスキーの人種差別的な一面が強調されている。ドストエフスキーに人種差別的な傾向があったのも確かであり、この面においても批判は免れがたいだろう。
それでは、ドストエフスキーよりも清く正しいイデオロギーを持った人は、ドストエフスキーの作品よりも素晴らしい作品を書いたのか?と言えば、そんなわけはない、と言わざるを得ない。そもそもドストエフスキーを超える作品を書いた作家は今の所、世界のどこにも見当たらない。
ここでは価値判断が分裂してしまう。間違った思想を持っていたドストエフスキーが、何故、正しい思想を持っている人よりも優れた作品を作ったのか? これは芸術作品というものを深く覗き込んだ場合にしばしばやってくる大きな謎である。
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批評家のミハイル・バフチンはこの問題を明快に片付けている。曰く「評論家としてのドストエフスキーが、作家としてのドストエフスキーを超える事はなかった」。これは明快な意見だ。
実際、「作家の日記」は、面白い読み物ではない。その中では、ドストエフスキーが直接的に、自らが真理だと思っている部分を語っている箇所もあるが、結局、ドストエフスキーは小説という形でしか真理を語れない人間だった。直接的に彼が真理を語る部分は、それだけでは言葉としての説得力が弱い。ドストエフスキーは心底から小説家であり、小説という形態でしか彼の言いたい事は言えないという人間だった。
そうであれば、何故、「小説」などという迂遠な形でしか語れない真理があるのだろう? というか、「小説」などという迂遠な形でしか語れない真理とはそもそもおかしいのではないか? 真理というのは例えば数学の方程式のような形で、明快に語れないのだろうか? どうしてそんなに面倒な手続きを取る必要があるのだろうか?
「正論」によって相手をやり込め、自らの正しさを証明するという事は、丁度、上記のような明快な方程式のような、簡潔な言葉で自らの真理を語る事ができる、と信じられているからこそ行われるのだろう。確かに、人は、議論のやり取りを見て、どちらが正しいかを決定する事ができる。ただ、その場合、どちらが正しい事を言っているかという事と、その発言にどれくらいの価値があるのか、というのは別の事柄である。議論している側にとっては、気持ちが白熱しているので、それは意味のある行為に感じられるが、一歩引いて見た時、それにどれくらいの価値があるのかはそう簡単に決められない。
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私が「正論」について疑問に感じた例がもう一つある。それは図書館で吉本隆明全集をパラパラめくっていた時の事だ。吉本は論争好きだったので、そのやり取りが載っていたのだが、時間が経ってから読むと、その論争にどれくらいの意味があるのかさっぱりわからなくなっている。
その当時には意味があったり、有名で、誰もが知っている事であったりしても、時間が経つと、なんの事柄かわからなくなる。今で言えば「ひろゆき」とか「青汁王子」とか「DJSODA」と言われても、ネットを見ている人はピンとくるのかもしれないが、時間が経てば、これらの名前は霧のように跡形もなく消えてしまうだろう。
そうなると「DJSODA」についてあれほど熱く議論していた全てが、なんだかわけのわからない意味不明なやり取りになってしまう。もちろん、今には今の価値があるので、そういう事について真剣に議論する事も必要だろう。しかしこの手の議論を無限に繰り返した所で、おそらく、後代の人が読まなければならないような価値というのがほとんど出てこないと思われる。そもそも、後にやってくる人に「青汁王子」とは何か、「DJSODA」とは何か、説明する意味など全然ない。私は、そういう言い方で言えば「ドラゴンボール」や「スラムダンク」を後の人に説明する必要もないと思っている。
ツイッターでは膨大な量の「議論」が行われているが、それらの中から本当に意味のある、価値のあるものをふるいにかけようとすると大変だろう。多くの議論がその場限りの意味しかないものだろう。
しかし残念ながら、そんな意味のない議論の絶えざる循環の中でしか我々は生きられないし、それについてああだこうだ言っているうちに、年を取ってしまう。
これらは、テレビ局が作るテレビ番組と同じようなものだ。今のテレビ番組の質は異様に低いが、それは番組がテレビで流され、人々はざっくりと見て、そのまま記憶の片隅にも残らない、そうした性質のものであるだけに、番組を真面目に作る方が馬鹿を見るからだ。視聴者はすぐに忘れる。だから、すぐに忘れられてもいい程度の番組しか作られない。
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だらだらと書いてきてしまったが、何故、「正論」が価値を生みづらいのか、漠然とした意見を最後に書いておこう。
まず、一つは誰にでもすぐにわかるような「正論」というのは、その当時ーーつまり今の時代、今の社会における規範に則った上での「正しさ」でしかないという事だ。それはその時代の常識に沿っており(例えば人種差別は良くない、というような)、その為にすぐに理解されてしまう。その時代の常識を超える事がないからこそすぐに「正論」として人々に受け入れられる。
例えば、カントの「純粋理性批判」は極めてわかりにくい書物だ。「純粋理性批判」は出版されて、しばらくまともな書評が出なかったそうだ。「純粋理性批判」はその当時の思考水準を大きく超えるものだった為に、それが理解され、消化されるのに時間がかかった。また、それ故にこの書物は大きな価値を持った。
それと比べると「正論」というのは、わかりやすくできている為に、すぐに消化されて消えてしまう。おまけにそれらの正論は、時事ニュース、みんなが食いついて、アクセス数やフォロワー数を得やすい時事ニュースの上に構築されているので、それらの時事ニュースが去ってしまえば、どうでもいいものとなってしまう。「DJSODA」のセクハラ問題は今の我々にとっては重大だが、未来の人間にとっては全く興味のない事柄であるだろう。
また、正論が価値を持ちづらいのは、それが人間の全体性を反映していないという事もあるのではないかと私は考えている。というのは、人間の理性的な思考部分とは所詮は氷山の一角に過ぎず、その下には無意識の複雑なレベルが多層的に折り重ねられている。
優れた芸術表現は、優れているほどに、個人の中の深い層まで反映するが、表面的な理屈の正しさを競い合う「正論」バトルにおいては人間の深い層まで表現し切る事は難しいし、そんな事をすれば理論の明快さが損なわれてしまう。しかしこれほど正論対決が好まれるのはそもそも、人々が自分の深い層まで意識して知りたいと思っていないからであり、表面的な事柄で満足する人々が多いからであろう。
今の時代で議論されているほとんどのものは実にどうでもいい事ばかりだが、そこに参入しないとフォロワー数やアクセス数も増えず、人に見てもらえないとなると、賢い人間でも否応なくそこに参入する羽目になる。そうして有象無象の議論に飲み込まれて、フォロワーが増えたり、金が入ったり、テレビに出たりしているうちに、自分がそれなりの人間になった気がする。
そうやって、何か自分が大きな存在になったような気がするが、実際には砂上の楼閣に過ぎない。あれだけ天下を誇っていた「ジャニーズ帝国」はそれが消えた後も、確固たる何かが残るだろうか? スマップの楽曲ぐらいは古典として残るのだろうか? …私には無理であるように思われる。
正論が大流行の世の中ではあるが、その正論の渦から、まともな哲学書の一つも生まれないだろうと私は見ている。例えば、「科学的根拠を示す」という事は現代の流行だが、それはかつての神学における流行のように端に「その時代の流行り」で終わるのではないかと思う。
一番の客観性とは歴史の中の深い層をくぐり抜ける事にある。「小説」のような個人の主観の押し出しがどうして歴史の深い層をくぐり抜けて生き残ってきたのか、そういう事をもっと考えたほうが良い気がする。
過去の偉大な作家の全集を見て、その全集の全てが相手との正論バトルという事はありえない。作家の作ったもののうち、残るのは作品である。作家は作品という形で勝負すべきである。もちろん、全ての人間は作家でも芸術家でもないから、作品を残さなければならないという規定はまったくない。
ただ、正論のようなわかりやすい形ではなく、自己の全体像を刻印した何ものか、何かの形式というものを考えつつ動かないと、時代を嘲弄しているように見えて、時代に流されて終わる。そんな風になってしまうのではないか。私はそんな風な危惧を抱いている。