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コートの裾を

作者: きんぴら

 電車の扉が気の抜けるような音を立てて閉まった。


 同時に彼は上半身を90度捻ってコートの裾が挟まっていやしないかと確認する。案の定挟まっていたコートを扉から引っ張り抜いて、にやにやしながら裾をいじっていた。


 彼が羽織るネイビーのコートはそうして裾を頻繁にいじられるものだから、その部分だけ若干の色落ちが見て取れる。買い替えてほしいところだけれど、「まだ使える」の一点張りでお茶を濁されてきた。正確には濁させてあげた。


 今は私たちにとって大事な時期だ。些細なことで喧嘩をしている場合ではない。我慢ならないことでも起こらない限り、彼に何かを強要するつもりはない。とにかく“今は”だけれど。


 車窓から差し込む日差しが暖かく、彼がいまだにコートを羽織っていることに少しばかりの疑問を感じる。私などもうブラウスにカーディガンだけだというのに。


 暑くないのかと尋ねると答えは決まって「全然」だ。付き合いが長いから冷え性なのは知っている。しかしこんな春の陽気に重苦しい色のコートだなんて季節感もありゃしない。


 コートを買い替えろ。コートを脱げ。コートの色を変えろ。


 全て一度は伝えた言葉だけれど彼が首を縦に振ることはなかった。パートナーのお願いを少しは聞いてほしいものだ――とは思わない。なぜなら彼は私のお願いを比較的聞いてくれるからだ。


 誕生日プレゼントは何気なく欲しいと言ったものを知らないうちに買ってくれているし、旅行先の希望が違っても私の希望を優先してくれる。もっと些末なことであればケーキは私に先に選ばせてくれるし、デートの日程だって私の都合に合わせてくれる。


 これまで私には何度か彼氏がいた。その中で最も魅力的な男だと思う。身長は私より少し大きいし、それでいて顔は小さい。性格も私に多くを譲ってくれるだけあって穏やかだ。喧嘩をして不貞腐れることはあっても大声で喚き散らしたりしない。


 私はこの男を好いているのだ。


 若干ファッションセンスに難ありではあるが特段おかしいわけではない。こんなに世界が陽気なのに暗い服を着ていることと、そのコートの裾が色褪せているだけだ。


 私が気にしすぎなのだろうか。コートくらい好きなものを着させてやっても良いのかもしれない。


 ため息をついて車窓から外を見ると景色は大きなビル群に変わっていた。日光は巨大なコンクリートに遮られてあまり入ってこない。徐々に車内の色も褪せていく。コートのように。少しだけ身震いがした。





 高いキーなのに穏やか。育ちの良さそうな声色をしたパンツスーツのお姉さんに案内されて席に着いた。


 今日は結婚式に向けて式場専属のプランナーと打ち合わせだ。初めての打ち合わせなので何をすればよいか、何を話せばよいかもわかっていない。初回は「ただ来てくれれば良い」とだけ言われていた。


 案内してくれた女性がプランナーだったようで、席に着くなり名刺を差し出してきた。その姿が凛としていてこちらの背筋が伸びてしまった。


 白とピンクが基調の部屋に少しばかりの観葉植物。彼女の指先には部屋とマッチした薄いピンクのネイルが塗られており、薬指には控えめなシルバーの指輪が光っていた。


 どうもこう“できる女”と対峙すると緊張してしまう。私が“できていない”から。


 隣を見ると、彼は背もたれと座部の間に引っかかったと思われるコートを引っ張っている。そのあとはいつも通り、コートの裾をいじっている。こんな時にまで。


「さて、それでは始めさせていただきますね――」


 目に見えて不機嫌になった私をいなすかのように笑顔で話すプランナーを見て惨めな気持ちが噴出してくる。だから、私は“できない”のだろうか。


「この度は、ご結婚おめでとうございます」





 初めての打ち合わせはまるで子供だましのようであった。魅力的なお菓子をちらつかせてご機嫌をとるように、華やかなプランを見せびらかせて私の気を引く。それがわかっていながらも、私はそれをしたいのだ。釣り針がついている餌だと知っていて食いついてしまう。私はもう腹ペコなのだ。


 ケーキやドレスに出し物の話で一通り盛り上がった後には急に現実的な話が降って湧く。結婚式に呼ぶ親族や友人、同僚の人数。そしてその交通手段などなど。この現実的な話を乗り越えた末にあるのが華やかな結婚式だとしても、どうもこれらの話はディズニーランドで寝て起きたら家だったくらいに気分が下がる。


 驚いたのは彼が随分この手の話に乗り気だったことだ。普段からそれなりにやる気がある方だとは思うけれど今日はすこぶる熱を帯びている。


「最寄り駅までは電車で来てもらって、そこからバスを出せませんか? 脚が悪い人もいるでしょうし。逆に車で来る人達用に駐車場もある程度欲しいです。駐車場が厳しいようであれば近場の駐車場の場所を案内に書いておくとか」


 普段から気の回る男だ。ただ今日は私の知る以上に、気の利く彼になっていた。


 私がつまらない顔をしていたのだろうか。表情は楽しそうにしていたつもりだったけれど。もし私に気を利かせて前のめりに喋っているのであれば感謝せずにはいられない。


 コートの件は許してやることに決めた。





 打ち合わせが終わったのは昼の3時ごろだった。太陽が少しだけ西に傾いている。雑踏に紛れることなく日差しは差すように降り注いでいた。まだ春だというのに夏のような太陽である。


 結婚式場やドレス試着については私が率先して回答し、それ以降のつまらない話は全て彼が取り仕切った。プランナーは私たちが役割分担をしているのだと思っただろう。でも実際にはその場でそうなっただけだ。私たちは息が合っているのだと思う。


 初回は私たちがどんな結婚式にしたいかを確認するヒアリングの場だった。今日は何一つ決定したことはなく、次回以降徐々に決めていくらしい。


「結婚式楽しみだね」


 私は主に“ドレスの試着が”との意味を含んで伝えた。


「そうだね」


 彼は額の汗を拭いつつ自分の膝元を見ながら答えた。私の顔を見ずに答えたことが鼻に付いた。コートの件は許したが婚約者の顔を見ずに答える不躾を許す気はない。


「ちょっと。そういうのはこっちを見ていうべきでしょ。私と話をしているんだから!」

「そうだね! ごめんごめん!」

「それに。そんなに熱いならコートを脱いじゃえばいいじゃない。さすがに今日は暑すぎるわ。熱中症になったら困るでしょ」


 彼は少し考えていたが何かを閃いたのか、両の手で小槌を打った。


 コートの裾の高さを変えないように屈伸をしながら器用にコートを脱いだ。ふぅっと息を入れて再び額を拭った。


 随分満足そうな顔をしている。最初からそうすれば良いのだ。


“暑いならコートを脱ぐ”。当たり前のことだ。倒れられたら私も困ってしまう。何を意固地になっていたのだろうか。だがこれにて熱中症の心配はなくなった。


 彼はコートを左手のわきに抱えていた。私は彼の右腕を組んだ。


 腰に手を当てて仁王立ちをしているような彼の影が不格好で面白かった。





 彼の実家に足を運ぶのは3度目になる。


 東京の片田舎――街中というには辺鄙へんぴで、田舎というには軒が並び、住宅街というには人がいない。表現に困る故郷だと思ったのが最初に抱いた感想だ。


 車が一台も止まっていない有料駐車場の横に2階建ての小さな木造住宅がある。これが彼の実家だ。入口はスライドドア――と言えば聞こえが良いが錆びた引き戸がついている。セキュリティは随分心もとない。


 駐車場の反対側には車が3台ほど止められる庭があるが、手入れが行き届いておらず隣家を隔てるコンクリートの塀のそばで雑草がのびのびと育っている。コンクリート塀の真横にレンタカーを停めた。


 ゴロゴロと重苦しい音を立てて開いた扉の前には前掛けをした彼の義母さんが正座で待ち構えていた。車の音を聞いてスタンバイしていたのだろう。


 背中が丸まっているし、体系もふくよかだ。それでいて目じりがとろんと垂れているから優しい印象を受ける。


「おかえり。それからいらっしゃい。ほら、外は暑かったでしょ。居間にクーラーを利かせているから上がって。上がって」


 「せーの」と自分に合図を出して勢いで立ち上がる。最初から立っていた方が楽だったろう。


 実家にお邪魔した時は大体この居間に通される。あとは彼の部屋に入ったくらいだ。婚約者とはいえまだ数回しか顔を合わせていないただの他人だ。ご両親が警戒を解いていないことが対応からひしひしとと伝わってくる。


 かといってどうすれば信用してもらえるのかなんてわからない。


 こちらから心を開いてフレンドリーに接すれば良いのだろうか。ただそれを馴れ馴れしいと思う人もいるだろうし、ハマらなかったときに取り返しがつかない。何より私のキャラではない。


 であれば時間をかけてじっくりと信頼してもらうのが良いのだろう。しかし顔を合わせるたびにこの気まずい状況を味わうのかと思うと億劫になる。


 世の嫁はどうやってこの状況を乗り越えているのだろうか。


 居間の中心には大きな木製のローテーブルがあり、向かい合いように3名がけのソファーと1名掛けのソファーが2つ並んでいる。まるで会社の応接室のようだ。


 壁には彼の幼いころの写真やご両親の写真が飾ってあり、それに囲まれるように50インチはありそうな大きなテレビが設置されている。


 3人掛けソファーの背面には窓があって日差しを取り込める。その日差しが良く当たるように黒い仏壇が置かれていた。


 私と彼は3人掛けソファーに腰かけた。


 今日は本格的に結婚式の準備を始めたことの報告をする。それに結婚式に向けた準備で注意することなんかをアドバイスして貰えたらと思っている。まずは掻い摘んで式場について報告した。


 遅れて来た義父さんがソファーに腰かけながら言った。


「そうか。東京で式を挙げてくれるなら私たちも便利が良い。と言っても二人とも東京出身なのだからそうなるか」


 膝を痛めており、言い終えるころにやっと尻をソファーにつけた。なんとなく彼が式場への交通手段について前のめりになっていた理由を理解できた。あれはお父さんに気を遣ってのことだったのだ。


 一通りご両親の要望を聞きつつ、こちらの考えを伝えて穏やかな時間が過ぎていった。


「式を挙げるにあたって、何かアドバイスを頂けませんか?」

「そうねぇ。でも私たちの結婚式なんてもう35年前のことよ。今とは時代が違うから、そのプランナーさん? に聞いてみた方が良いんじゃないかしら」


 ごもっともな回答である。


 質問の本当の目的はご両親の話を聞いて仲良くなるための布石だった。いきなりどんな結婚式だったかなど聞くと踏み込み過ぎな気がしたから、アドバイスを貰ってそこから徐々に話を聞きたかったのだ。


 残念だったが顔に出してはいけない。


「そうですか。プランナーに聞いてみますね」


 そういって彼に助け舟を求める目線を送って気づいた。


 彼がコートを着ているではないか。





 もう実家について1時間ほどだ。まだ彼はコートを着ている。一方私はそもそもコートなんて来ていないし控えめなベージュのジャケットを脱いで膝の上に畳んである。


 熱くないのだろうか。聞くまでもない。確実に暑い。その証拠に額に汗をかいている。


 この状況で涼しい顔して会話をしているのだから寒がりにもほどがあるだろうと思う。


 彼の額の汗を拭くためにハンカチを取り出そうと鞄に手を伸ばしたところで、大きな違和感に気づいた。


 ――どうしてご両親は彼のコートに何も言わないのだろう。


 私は鞄に伸ばした手を引っ込めて様子を伺った。


 私をこの場から除外して考えると、ただ談笑している親子に過ぎない。私の助け舟に応じた彼が両親から結婚式の話を聞き出してくれている。しかし彼のコートが気になって一切頭に入ってこない。


 私の感覚がおかしいわけではないはずだ。家に入ったら大抵の人間はコートを脱いでハンガーにかけるなりする。万が一、屋内でコートを着るのが一般的だと考える家庭があったとしても、顔に汗をかいているのなら脱ぐはずだ。コートは寒さを和らげるためのものだ。それを暑さに耐えてまで着る理由がない。


 ――なんで?


 考えてもわかりそうになかった。少なくともこの状況で何も指摘しない両親は「彼がコートを着ているのが当然」と思っているはずなのだ。私だけが知らない。


 それが悔しくて、腹立たしくて、我慢できずに聞いた。


「ねぇ。どうしてコートを脱がないの? 前も言ったでしょ。熱中症になったら困るって。汗かいてまで家のなかでコートを着る必要ないじゃない」


 ご両親を前にして少し毒づいたことを言ってしまったが、憤っていたから“穏やかに”とはいかなかった。


「え? あなたまだその理由を伝えてないの?」


 お母さんがいぶかしげな表情を浮かべて言った。それ見たことか。私に隠し事をしているのだ。


「結婚してから言おうかなって。大事な話だから」

「大事な話ならなおさら結婚前に教えてもらわないと困るよ」


 まさかご両親の前でこんな修羅場を迎えるとは思わなかった。


 義父さんが決まりの悪い顔をしている。一方彼は汗だくで微笑んでいるように見える。悪気はないということか。ならば両親の前で洗いざらい吐いてもらう。


 5秒ほどの沈黙を挟んだから追い打ちをかけようとしたら、彼が口角の上がった口を開いた。


「僕には仲の良い弟がいるんだけどさ。コートの裾を掴んでいつでもついてくるんだよ」

「そうそう。あなたたち本当に仲が良いのよね」


 お母さんが顔を明るくして便乗した。


「兄弟がいるのは知っていたけれど、詳しく聞いたことはなかったかも。仲いいんだね」


 兄弟のことなら隠す必要もない。仲が良いなら猶更なおさらだ。これを機に仲を深めたく、お母さんに聞いてみた。


「弟さんはこの家に住んでいるんですか?」

「そうよ。でもいつもお兄ちゃんに付いていくからほとんど家にいないのよ。今日は久しぶりに会えて嬉しいわ」


 お母さんの目線の先は彼のコートの裾に向けられていた。


 彼が苦笑いしながら言った


「いっつもコートの裾を掴んでついてくるんだよ。いつまで経っても甘えんぼなんだ」


 そうしていつものようにコートの裾をいじっている。


 これ以上何かを聞く気になれなかった。――――恐る恐る仏壇に目を向けた。日の反射で写真が良く見えなかった。体をずらして反射を避けた。


 写真に写っていたのは彼を幼くしたような少年だった。


「結婚式楽しみねぇ」

「そうそう。こいつ、結婚式の当日は君のベールボーイをするらしいよ。とうとう僕のコートの裾は卒業かな」


 けらけらと笑う彼と義母さんを横目に、義父さんと私は頭を抱えた。




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