第13話 魔力糸
中央市街西ブロック行きのバスを降りた三人は裏路地へと足を踏み入れる。真昼の日光は建物によってさえぎられているため、常にこの場所はじめじめとした陰気な空間となっている。
そんな場所に、一つの動く影があった。真っ黒な燕尾服に、黒のスラックスを着込んだ影、両手には白いグローブをつけ、頭には黒いソフト帽を被り、左手には金の装飾が入った黒い杖を携えている。背後からでは、わずかなりとも地肌は見えない。コツコツという音が杖と靴から鳴り響き、三人と距離を離している。アルクとグライツの顔が険しさを帯びた。
三人の目の前を歩く人物は、気づいたように背後を振り返る。その瞬間、エテルは短く悲鳴を上げて後ずさりをし、グライツとアルクは息を呑んで眼を見開く。黒いソフト帽を左手で抑えながら向き直ったその顔は、赤黒いケロイドで覆われている。その赤黒い皮膚の奥では、炭のような黒い瞳が三人をみつめていた。
「……何奴であるか?」
「一体何人殺した?」
ケロイドの者とグライツは同時に言葉を交わす。ケロイドの者――ティタニアはわずかに驚いたように息を吐くと、口角を吊り上げた。
「さて、何人だったか……。少なくとも片手では収まるはずはないが――」
その瞬間、ティタニアの足元から胴体に向けて土の柱が立ち上り、衝撃と破壊の音が裏路地に響く。アルクとエテルは驚いたような表情を浮かべるが、言葉は紡がない。
「行け」
まるで獣がうなるような低い声でグライツがつぶやくと、アルクとエテルは背後に――表通りへとかけだした。裏路地にはただグライツとティタニアだけが残されている。
「貴様も殺した数は変わらないのではないか?」
キイキイと言う金属がこすれるような耳障りな音とともに、ティタニアは言葉を紡ぐ。胴体に確実に向かった土の柱は、鋭い刃物で切り落とされたように地面に落ちた。そこでグライツは違和感を覚える。明らかに、土の柱は「何か」に衝突したのだ。先ほどの衝突音がそれを物語っている割に、ティタニアは何事もなかったかのようにそこに立っている。グライツは、相手が何をしたのか分かっていない。
「おそらく貴様も『表』の人間ではあるまい? 裏の世界の、ゴミ溜めの人間であろう?」
その言葉に、グライツは激昂して両手を広げた。彼の体中から魔力で紡いだ不可視の「魔力糸」が放出され、それは目視不可能な兵器となってティタニアを絡めとる――はずであった。
「珍しい。これほど細い魔力糸を使う人間は久しぶりに見た。貴様の名はなんという?」
魔力糸は、ティタニアに届くことはなかった。まるで途中で糸がすっかり消えうせたように、グライツの手には何も伝わってはこなかったのだ。グライツ自身でさえ、糸がどのようにして防がれたのかを知る術はない。
「人の名前を尋ねる前に、自分の名前を言ったらどうなんだ?」
冷や汗を浮かべながらも、グライツは軽口をたたく。だが内心は、疑問で満ちているのだ。なぜ攻撃が通じないのか? なぜ魔力糸が効かないのか? 彼は今まで、こんな状況に陥ったことはない。
必死に考えをめぐらせているなか、ティタニアは金属がこすれるような笑い声とともに言葉をつむぐ。
「カッハハハハ、申し訳ない。我輩、『冥王』、ティタニア・ウィーケンヘルツという」
「大層な名前だな。グライツだ」
わずかに――ほんのわずかに、逃走するアルクとエテルが感じ取れる程度のほんの一瞬、空気が弛緩した。そしてその直後、一気に空気は収縮する。それこそ、はち切れんばかりに。
グライツは両足に力を込め、一足でティタニアの懐へと入り込んで確実に殺すために腰を落とす、だがそれは、ティタニアの向けた杖先によってさえぎられた。
「我輩、貴様と戯れるほど暇ではない。少々急ぐからな」
その言葉に、グライツは笑う。まるでそれは、冬空の乾いた風のような冷たさを帯びた笑いであった。
「く、く、く。戯れ? 俺の……この俺の闘争を、『戯れ』だと?」
「然様。たがだか数年訓練した程度で我輩と『戦おう』などとは、片腹痛い」
ティタニアがそのようにつぶやくと、グライツは激昂したように吼える。
「ナメるなよ冥王! この俺の14年を無駄だと言うか!!」
「たった14年? 青い青い。我輩の半分にも満たぬ」
激昂したグライツが両足に力を込めてティタニアに飛び掛った瞬間、グライツの体が垂直に落下し、地面に張り付く。明らかに、物理の運動ではない。山なりを描いて跳んだ物体がそのまま垂直に落下するなど、物理ではあってはならないのだ。地面に張り付いたグライツは、まるで大きな力で抑えられているかのように、動けないでいる。時折苦悶の声とともに手足や首が動くが、それだけでも汗を流している。
悪あがきに土柱を地面や壁面、文字通り四方八方から立ち昇らせるが、どれもこれも鋭利に切断されて地面に崩れ落ちた。
「我輩、興味が沸いた。いずれまた会い見えよう」
ティタニアは白いグローブ越しに、右手の指をはじく。パチンと小気味良い音とともに、グライツは白目をむいて昏倒した。
「ふむ、面白い。大変面白い。いつかまた、会えると良いな」
ティタニアは左手に携えた杖で地面を軽く打つと、ティタニアの周囲に風が巻き起こる。その風は一陣の砂を巻き上げると、ティタニアの姿を跡形もなく消し去る。ほんの一筋の風だけを残して、ティタニアは虚空へと消え去った。
―――― ―――― ――――
「大丈夫でしょうか、『彼』は」
「心配ですわ。いくら『死神』でも、あんな人間と戦うなんて……」
裏路地から逃げ出したアルクとエテルは、人通りの少ない工業地帯を歩く。中央市街西ブロックは、昼間の人の行き来は極端に少なくなる。8時から17時の間は、工場の営業時間だからだ。
「姉さま」
アルクがふわふわとした銀髪を撫で付けながら、声変わりの始まる前の男子特有の、美しい高音で言葉を投げかける。エテルはアルクのほうを見つめながら、言葉を待った。アルクは歩みを止め、焦点の合わない眼で正面を見つめている。
「ぼくの正義は、『孤児院に害をなす敵を排除すること』です。今ここでこの正義に従えば、ぼくは死神を助けたいのです」
アルクは震える拳を押さえつけながら、震える声で言葉をつむぐ。
「ここで逃げてしまえば、ぼくはただ、血と肉の詰まった生きるだけの袋になってしまう。そんなものになんて、なりたくないんです」
アルクはエテルのほうを振り向くと、小刻みに震える声で言葉を搾り出した。
「『征』きます……! ぼくは、征きます!」
アルクはすばやく背後を振り返ると、エテルの脇を通り過ぎて彼らが逃げてきた場所へと走る。一瞬虚を突かれたエテルであったが、あわてて彼の元へと走る。
「では、私も正義を述べましょう」
ぱたぱたと靴音を響かせ、エテルが言う。
「私の正義は、『私が守りたいと思ったものを守り通すこと』ですわ。今から死ぬまで、私の行動理念はこれに決めましたの」
エテルの声に、アルクは笑みを浮かべる。それはどこか悲しさを帯びた笑みでもあった。
アルクとエテルが裏路地に戻った頃には、グライツは裏路地の地面にうつぶせに倒れていた。二人の背中に冷たいものが伝うが、死んでいないことを確信したのか、アルクはグライツの半肩を担ぎ上げると、ゆっくりだが、確実に前に歩を進める。エテルももう半分の肩を担ぎ、意識を失うグライツをはさんでアルクに笑みを投げた。
二人、いや、三人は確実に、孤児院へと歩く。日の光は彼らを照らすことはなく、裏路地を避け続けていた。