第11話 冥王
夜の11時ともなると、さすがに祭りの熱気は冷めてくる。人はぽつぽつといなくなり、あくびの音が街を埋めるようになるのだ。
そんな中、一人の老人は、一人の人物と向かい合っていた。
老人は、銀色のフレームの車椅子に腰掛けた男である。真っ白な白衣は薄い月明りの中でかすかに光を浴び、薄く輝いているようにさえ思えた。
その老人――ミハエルと向かい合うのは、真っ黒い燕尾服に黒いスラックス、黒いソフト帽をかぶり、露出している肌の全てに包帯を巻いた人物であった。性別は、分からない。ただ身長は、女性とも思えるほど低い。160センチほどだろうか。
「……お前は、何をしようとしているんだ?」
ミハエルの声が冷たく空を切る。老眼鏡越しの眼光は鋭さを帯び、答えによってはそのまま眼光だけで斬られてしまいそうな雰囲気さえ漂う中、対峙した人物はキイ、と喉を鳴らした。
「カッハハハハ。何をしようが我輩の勝手であろう?」
その声に、ミハエルの肌は粟立つ。その声はまるで、ろくに手入れのされていない古びた歯車が軋むような酷い音だった。包帯の人物は続いて言葉を紡ぐ
「我輩は、『冥王』。誰も我輩は止められぬ」
「ならばやり合うか? ここで」
一層鋭い空気がミハエルと「冥王」を包む。だが冥王は、それを笑い飛ばすと言葉を紡いだ。
「ハッ、面白い。だが我輩、時間がない。さすがにこの場所でかのミハエル『ブリッツ』ハイメロートと闘いたくはない」
その言葉に、ミハエルは目を見開いて言葉を詰まらせる。目の前の人間は、ミハエルの顔と名前を知っているのだ。
「驚いたか? とはいえ、貴様も我輩を知っておろう?」
くつくつと喉を鳴らし、金属のこすれるような声で冥王は言う。
「戦時中には悪名をとどろかせていたつもりであるが――残念である。とはいえ、このようなザマでは我輩が誰かもわからぬか」
そういうと、冥王は顔に巻いてある真っ白な包帯を解き始める。そしてそれが解き終わると、ミハエルは明らかな嫌悪を浮かべた。
「このような姿では、もはや我輩が誰かもわかるまい?」
包帯の下から現れたのは、醜く焼けただれた赤黒いケロイドであった。その肌の奥に、真っ黒な、炭のような瞳がミハエルを見つめている。おそらくは全身を覆い隠す包帯の下にも同じものが存在しているのだろう。
「我輩、名をティタニア・ウィーケンヘルツと言う」
ミハエルは一層大きく眼を見開き、一筋汗を流した。
「『あの戦争』の時は砦を一人で奪還し、貴様らの中枢へあと一歩のところまで食らいついたのだが、届かなかった。後一歩だったのであるが、それがひどく残念である」
ミハエルはその名を良く知っていた。少なくとも、彼らの年代の軍人ならば知らない人間はいないだろう。その人物はいまや全身に火傷を負い、あまつさえ「冥王」などと名乗っている。それは、ミハエルにとってはただの興味であった。
「……一体、なぜそのような姿に?」
「ああ、部下に焼かれたのである。それよりも――」
ティタニアはそれ以上は話したくない、というように、ばっさりと言葉を切る。
「貴様達『孤児院』の任務には、我輩は障害ではなかろう? であれば我輩はこのまま――」
「だから聞いているのだ。お前は何をするつもりか、と」
ギリッ、と歯の音を立てながら、ミハエルは言う。ぞわり、と、周囲の空間に殺気が満ちた。
「ハッ、そうか。ならば答えよう。古巣の掃除である。我輩の『元』部下が、機密と引き換えに身の安全を確保しようとしているようなのだ。であるゆえに我輩、かのものを始末する」
ミハエルのこめかみに一筋の汗が伝う。この目の前の者の言動は、『彼の正義と相反してはいない』のだ。だからこそ、彼は目の前にいるティタニアに手は出せないのだ。
「貴様ら孤児院はまるで幼稚園よ。起こす前の人物は裁けまい? 我輩が動けば確実に死人は出るぞ?」
ミハエルは考える。ここで自らの正義を曲げてしまうのは、それすなわち今までの人生、いや、今まで彼が殺してきた者たちを踏みにじる行為となってしまう。だからといって、ミハエルは目の前の、今から人を殺そうとしている人物を見逃すわけには行かなかった。
「悩め悩め。そうしている間に我輩は先に行く。貴様はそうして悩んでいれば良い」
まるで粘土を無理やり捻じ曲げたように、ティタニアは目元をゆがませて笑う。はっとしたように、ミハエルは右手を目の前の人物に伸ばした。
「時間切れである」
まるで火が掻き消えるように、ふわりとティタニアは姿を消した。過ぎ去った後には、たった一筋の風が裏路地を吹き抜けるだけだ。
「……らしくないな。私も」
ミハエルは右手をゆっくりと元に戻すと、車椅子を漕ぎ出す。
ラ・ケファウス共和国守備隊第七班。それが――「冥王」ティタニアの所属していた部隊の正式名称である。ミハエル自身も詳しくは知らないのだが、彼が聞いているのは「汚れ仕事専門の特秘戦闘力」だということだけである。かつての魔法戦争で暗躍し、人体実験のための素材、いわゆる「キャンバス」を拾い集めたといわれる部隊である。その部隊の異名である「デッドマンズチェスト」は「動かぬ心臓」という意味から、「震えぬ心」という意味に変わり、いつしか無慈悲な機械人間を指し示す単語となった。
そんな部隊の残り香が、ミハエルの前に現れ、あまつさえ殺害予告さえしてのけたのだ。これは孤児院だけで解決できる問題ではない。ひいてはこの国、サーベルト王国とラ・ケファウス共和国の緊張にさえ発展してもおかしくない話なのだ。
ミハエルはただ、考える。12時を告げる夜の鐘の音さえも、彼の耳には届かないようだった。
―――― ―――― ――――
12時の鐘の音が響く中、音もなくティタニアは地面に降り立つ。彼が現れたのは、河川敷の橋の下であった。その場所では一人の男と一人の女がなにやら会話を交わしているようだったが、ティタニアを見ると女はパクパクと口を動かし、後ずさりを始めた。真っ暗であるため、彼の皮膚はまったく見えないのだが、ただ炭のように黒い瞳だけが二人を見つめていた。
「あの眼……! た……隊長……!?」
「探したぞ、中尉」
女は足元の石ころに躓き、尻餅をつく。ティタニアが女に歩み寄ると、もう一人の男はベルトから魔法杖を引き抜いた。満足げに、ティタニアはその光景を見つめる。
「邪魔をするな。ケファウスの秘密の一端を知るまたとないチャンスなのだ」
男は魔法杖の先端をティタニアに向け、そうつぶやく。真っ暗な中で、ティタニアは笑みを浮かべた。
「我輩たちを売ろうとするのか? 中尉? なあ、クロスポーン中尉? クロスポーン・ヒュトラント中尉?」
「お許しを……! お許しを! 隊長!!」
短い嗚咽とともに、女は必死に言葉をつなぐ。そして、無視されたことが気に食わなかったのか、魔法杖を向ける男はそのまま杖を振りかぶった。
ごう、という音とともに、周囲に炎が満ちる。それは三人を取り囲むように円状に燃え広がるが、周囲の草を焼くことは決してなかった。
そして、その光景にティタニアの顔は、明らかな憎悪を帯びた。炎が怖いからではない、彼の顔を見て、一般人が浮かべる反応が気に食わないからだ。
「は……はは……! バケモノめ……!!」
ぴくり、と、ティタニアの目元が震える。
「よくそんな火傷顔で生きていられるな? 俺なら死んだほうがマシって考え――」
「『五月蝿い』」
ティタニアが一声そうつぶやくと、男が手に持つ杖が地面に落ちた。いや、杖だけではない。杖を持つ右腕が、肩口からまるでねじりきれるように千切れ、地面に落ちたのだ。
「ぎ……ッッ!! アアアアアァァァァァァ!!!」
男はそれでも、残った左腕をティタニアに向け、魔法を展開した。無詠唱で、魔法媒体もなしに展開できるあたり、相当な技量の持ち主なのだろう。虚空から現れた火の玉は、間違いなくティタニアに衝突した。火の玉はティタニアを包むように燃え広がり、やがてティタニアの顔も、体も、すべてを覆いつくした。
「がは! くそッたれの火傷顔の『カタワ』もんが!! この俺の腕をよくもォォォ!!」
男は右腕のあった場所を強く抑え、目の前で燃えるティタニアを眺めていた。だが、男は気づいてはいない。ティタニアは、燃えているというのに微塵も動くことなく、その場に立ち尽くしているということに。
「倒れろ! 倒れろ! それから燃え尽きろ! 消し炭にしてやる!! 真っ黒に焼きつくしてやる!! 骨も真っ黒になるまで焼いてやる!!」
男はさらに、ダメ押しとばかりに炎の玉をめったやたらにティタニアに放つ。そして男は笑みを浮かべた。
「ハッ! 俺の勝ちだバケモノ!」
「否、それはない」
男は、笑顔を浮かべたまま絶命した。ほんの一瞬で胸部から肋骨や心臓、肺がとびだし、脊柱はぐしゃぐしゃにつぶされたのかひどく平らに押しつぶされて、原型をとどめない姿で地面に転がった。頭上からハンマーでたたかれて縮んだような漫画的表現が、そんな光景が実際に目の前に在った。
「喚くな。耳障りである」
そして、炎は完全に消え、再び暗黒の世界が訪れる。いまだにおびえ続けている女は、かすかに自らに近づく靴音に対して、失禁を以って答えた。
「お許しを! どうかお慈悲を!」
ティタニアは、女の眉間に、包帯の巻かれた人差し指を近づける。そして、ほんの触れ合う寸前のところで、指を止めた。
「われわれ、『デッドマンズチェスト』の現在の存在理由はただひとつ、秘密の守護である。それに反目したものは――」
バシュッ、という空気を切り裂く音とともに、ティタニアの差し出していた指に巻かれた包帯が破れ、そこから一本の鉤爪が現れた。否、それはすでに、女の下あごから眉間までを切断していた。スプリングと魔導合金によって、跳ね上がる勢いですら凶器となる、ティタニアの暗器である。
「ひィィィッ!? ぎゃァァァアァッッ!!」
顔面を切断された女は、苦痛にのた打ち回る。ティタニアはその胸倉をつかむと、突き出した刃物を再び眉間へ向けた。
「死ね」
グジュッ、という音とともに、深々と指は脳内へ侵入した。最高級の魔道鉱石を惜しげなく用いれば、このような小さなものですら凶器と成り果てるのだ。
脳を破壊された女は、すっかりと絶命していた。表情は恐怖をありありと浮かべている。
「さて、終了である」
ティタニアが指を軽く折ると、鉤爪はパチンと言う音とともにもともと在ったように収納される。ティタニアはそれにこびりついた血液を忌々しげに見つめると、再び風のように消え去った。