第1話 雨音におはよう
炎が空気を熱して少年を焼いてゆく。ゆらめく熱気によって、少年の服はチリチリと煙を上げていた。黒く変色した彼の血液はすっかりと乾き、少年が身動きをするごとにパリパリとはがれおちて熱風に溶けている。
「がは……あ……う……」
口から呻き声を漏らしながら、少年は芋虫のように地面を這いずり回る。彼の手足はあらぬ方向へと捻じ曲がり、彼の服は元の色が分からないほどに、すべてが赤黒く染まっていた。
「か……あ……が……」
少年は涙と涎と血と鼻水を流しながら、炎から遠ざかろうと懸命に体を動かす。
「死に……たくない……だれか……誰か……!」
弱弱しく呟き、少年は地面を這いまわる。どこへ行こうとしているのか、彼自身も知らぬままに。
―――― ―――― ――――
「――ん」
事務用のスチールデスクで眠りこけていた青年が、気だるそうに眼をあけて体を起こす。不自然な体制で眠ったため、筋肉が凝り固まっているのだろうか。青年はぐるぐると首を回し、ゆっくりと立ちあがった。
「……嫌な夢だったな」
青年の身長は180センチほどであろうか、真っ黒な装束を身に纏い、装束とおなじように真っ黒な短髪をツンツンと逆立たせている。まるで刃物のように鋭い眼光を放つ両の黒い瞳は、壁にはめ込まれた窓を見つめていた。
青年はコツコツと黒い革靴の音を響かせながら窓へと歩み寄ると、白い手で窓に触れた。黒雲から零れおちた雨粒がぽつぽつと窓を叩き、これから大雨が降るであろうことを知らせている。既に春は終わり夏の日差しが差し込む日もあるというのに、いまだに雨は止むことを知らない。
どこか呆けたように青年は窓の外の景色を見つめる。窓から見える景色は、殺風景な裏路地の光景しか映してはいない。その場所では雨のせいか今は動くものが何もない。
青年が窓に映る自らの顔を見ながら髪の毛を整えていると、壁に埋め込まれた無数の木の扉のうちの一つが開かれる。その場所から現れたのは、銀色のフレームが軋む車椅子に腰掛けた一人の老人であった。
金と白の混ざった色の髪をオールバックにし、口元には短く切りそろえた白い髭を生やした男。顔には深い皺が無数に刻まれているが、フレームの細い老眼鏡の奥、目元に一際深く刻まれた笑い皺がその老人の人の良さを表現していた。身につけられているのは襟元から足までをすっかりと覆う長い白衣で、その下に身につけているものまでは分からない。
老人は黄金とも言えるような黄色の瞳を青年に向け、朗々としながら、それでいて穏やかさを含む調子で言葉を発する。
「おお、起きていたか。起こそうか迷ったのだが、特段急ぐ用事もなかったからね」
にっこりと微笑みながら、老人は青年に向けて言葉をかける。青年は老人に向き直ると、ほんの少しだけ、穏やかな笑みを浮かべる。
「ハイメロート公。申し訳ありません。すっかり眠ってしまったようで……」
「いや、グライツ君が気にするようなことではない。最近顔色が悪かったからね、疲れていたのだろう?」
老人の名は、ミハエル・ハイメロート。青年は、グライツ・アヴァロードという。彼ら二人は、ある程度長い間親交を持つ男たちである。血縁がどうこうというわけではないまったくの他人であるが、グライツはミハエルのことを実の祖父のように信頼していた。
「そういえば、あの方は?」
「ああ、彼女なら――」
軽く空気を震わせる音とともに、先ほどとは別の扉が開けられた。その場所から現れたのは、一人の女性であった。
長い金髪に、澄んだ空のように青い瞳。白磁を思わせる肌をすっぽりと覆うのは、首元から足元までを覆う漆黒のローブである。まるで人形のように整った顔立ちの女性は、軽く息を吸い込むと言葉を紡ぐ。
「起きたか」
特段の感情の変化を含ませず、女性は言う。
「申し訳ありません。少々気が抜けていたようです」
「いや、良い。お前は少し気を張りすぎだ。たまには馬鹿になることも必要だぞ」
女性はグライツの向かいのデスクに就くと、あきれたように言う。彼女の名はエヴァンジェリン・ベルニッツという。
「で、仕事の依頼は?」
「ああ、今のところはないようだ。平和なのは何とも嬉しいことだが、これでは少しばかり暇を持て余す」
「私たちに仕事がないことが、私たちにとっては良いことなんですから。そうおっしゃらないでください」
三人はそのように言うと、息を吐いて天井を見上げた。天井につるされた裸電球は、まばゆい光を三人に突き刺していた。
「――雨の日はどうも嫌いだ。足が痛む」
ミハエルは両足の付け根をさすりながら、小さく呟く。その言葉に対して、エヴァは小さく笑みを浮かべ、反対意見を紡いだ。
「私は晴れた日よりも雨や曇りのほうが好きだな。晴れた日というのはどうも気持ち悪い」
エヴァがそのように言うと、ミハエルはくつくつと笑う。
「天候や気温は日々変わるものです。それほど忌むこともないでしょう」
こともなげにグライツは呟き、立ち上がるとお茶の準備のために電気ポットを用いて湯を沸かし始める。彼はどちらかといえば魔術寄りの思想の持ち主なのだが、このような日常生活では極力技術を使用した製品を好むのだ。その理由は簡単で、ただ単に「興味深いから」である。
「『シャンツェ』。お前雨の日は嫌いだ、とか言ってなかったか?」
「雨の日は大嫌いですよ。でも、私がいくら嫌っても天候は変わりませんから」
グライツは「シャンツェ」という言葉に特段の反応を示さずに、さらりと言葉を流す。その単語は、彼のある秘密を示しているのだが――。
「ああ、それはまったくもって同意だ。私たちがいくら頑張ったとしても、天候の操作などは出来ぬからな」
徐々に痛みに慣れてきたのか、ミハエルは足をさする手を止め、自嘲気味に微笑む。
「さて、では一服をしようか。願わくばこうも平和な日が続いてほしいものだ」
笑いながら、ミハエルはそう言った。