第八話 アンジェの失恋、恋の諦め
グリフォンが城を襲ってから、3週間が経過した。
グリフォンに殺された兵士たちは約20人にのぼる。
現場となった森の近くは凄惨なもので、人々の死体が山のようにつまれ、グリフォンの死体とともにその場で焼却された。
シオンはその後、竜の死体を完全に葬るべく兵士を連れラングランド王国近郊の火山に向かった。
◇
アンジェの自室は、部屋のカーテンは全て閉め切られ薄暗い。
カーテンの隙間からの木漏れ日が溢れるも、夕暮れのせいか、オレンジ色の陽光が部屋に一筋の光を怪しく作り、より陰気なものにしていた。
現在、アンジェは自室で怪我の療養に当たっている。
怪我をしてから腕の傷は徐々に治りつつあったが、その傷は痛ましく、見るものに嫌なものを残すような傷跡になってしまった。間違っても貴族の令嬢にとってあってはならないものだった。
また、体力は衰え、せきもひどく出るようになった。
足腰に力が入らず、歩くこともままならない。
細菌は自室に篭もりがちになっていた。
ダンもあれから目を覚まさず、事件の後、ほかの貴族たちが自分の領地に戻るなか、彼は迎賓館に留まり、お付きの兵とともに療養していた。城内では竜の呪いではないかと囁かれ、城内での立場はあまりよくないものだった。アンジェもそんな彼を心配していた。
しかしそれ以降目立った事件も起きず、以前の静かな城内の暮らしに戻りつつあった。
「こんなところかしらね…」
アンジェは現在、自室で、竜の死体の焼却にいったシオンに宛て手紙を書いていた。
中身は、彼の安否を心配するものだった。書いている本人は自覚していないが、まるで恋人にあてるような文言がいくつかちりばめられ、まるで恋文のようだった。
「ごほ、ごほ」
言葉を出すと、咳が出てきてしまった。
最近はそんなことがよく続いている。
日に日に、アンジェは弱っていった。
それは病気によるものだけではないと、アンジェは感じていた。
怪我を負って数日はアンジェの部屋にも大勢の見舞いの人々が訪れたが、めっきり来客は来なくなり広い部屋は閑散としている。今では訪問客は食事を運ぶロイスか、父とリコエッタくらいだった。
鮮やかな家具が置かれた私室も、今やさびしいものでしかなかった。
見舞いの貴族たちが来なくなったのには理由があった。怪我や体調が一向によくならないことも関係しているが、勇者シオンが妹のリコエッタを選んだことで、貴族達の大部分がアンジェからリコエッタに鞍替えをしている最中だったからだ。
アンジェはそのことを酷く気にしていた。
貴族なんてこんなものだ。以前のアンジェならそう思って一蹴したが、体調の悪化からか気弱になっていた。普段なら気に留めないことも気にしてしまう。
「失礼致します。アンジェ様」
ロイスの声だ。
扉をコンコンとノックされる音がした。
アンジェは手紙を書いていたことを見られまいと、手紙を隠そうとするも、慌てていたせいか手紙が床に落ちてしまった。
「ちょっと待って、…ゴホ、ゴホ」
アンジェはそれを拾おうとして椅子から立とうとするも、足に力が入らず、すぐに床に倒れた。
ドンと大きな音が響く。
その音に気付いたロイスが慌ててアンジェの部屋に入った。ロイスはすぐにアンジェを支え、ベットまで連れて行く。ベッドに寝かせたアンジェに毛布をかけ、床に落ちた手紙を拾って宛先人を、おもむろに確認した。
「これは…シオン様宛ですか?」
「ええ……その手紙は捨てておいてくれないかしら」
「よろしいのですか?」
ロイスはアンジェを見て、聞き返す。
ロイスが暗い部屋のなかで目を凝らすと、机の上には似たような手紙が何通も置かれていた。そのほとんどがペーパナイフで刻まれ、内容が見れないようになっていた。
「見せるつもりはなかったから…シオン様にはリコエッタがいるもの」
誰に言うでもなく、アンジェはつぶやいた。
「かしこまりました」
ロイスはアンジェの手紙をポケットに入れた。
その後、ドアの外に置いたワゴンからスープの乗ったお盆を出す。
「アンジェ様お食事をお持ちいたしました。コーンスープです。お体が温まりますよ」
「机に置いておいて、後で食べるから」
アンジェは咳き込みながら答えた。
ロイスは机の上に食事を置いて、水差しからグラスに水を入れる。
そして、ロイスは自分のポケットから小瓶を取り出した。
透明な液体の入った瓶で、姉から預かっていた毒薬だった。
アンジェが見えないよう、自分の体を背にして、水の入ったグラスに液体を入れた。
無色の液体は透明のまますぐに、溶けていく。
「ご体調はやはり優れませんか」
「…そうね、日に日に悪くなるわ」
「早く良くなるといいですね」
ロイスは振り向かずに答えた。小瓶をポケットに入れなおすのもあったが、自分がどんな表情で答えているのか自信がなかった。
その時、扉をコンコンと叩くノック音がした。
慌てて、ロイスは薬を隠す。
「入ってもいいかしら?」
答えが出る前に、かわいらしくリコエッタが顔をのぞかせる。
「おはよう姉さん。ロイスも」
「リコエッタ様?…おはようございます」
さっさと挨拶をすませ、リコエッタはアンジェのベッドに近寄った。
手にはつつんだ花束を持っている。
オレンジに、赤に、紫に、色とりどりの花が敷き詰められた姶良良いものだ。
リコエッタの最近の日課は、城の庭園から花を調達し、アンジェの私室の花瓶の花を取り替える、そんなアンジェを気遣う毎日だった。
皮肉な話だが、アンジェが怪我をした後は打って変わり、リコエッタはアンジェと毎日話すようになっていた。二人の仲は子どもの頃の仲良しな二人に戻りつつあった。しかもリコエッタは、アンジェの替わりに貴族達から誘われるお茶会も毎日断り、甲斐甲斐しく通っている。
「もう部屋を閉め切って。夕方だけど、これじゃあ良くなるものも、良くならないわ」
「そうね、カーテン開けてもらっても良いかしら」
リコエッタは、手に持っていた花束をロイスに渡し、カーテンをすばやく開く。リコエッタの言うように、夕焼けの陽光で薄暗かった部屋は、照明のおかげでいくらか活気が戻ってきたようにアンジェは感じた。
「ありがとうリコエッタ…あら手紙でも書いていたの?」
リコエッタがカーテンを開いた際に、彼女の右手が見えた。
ところどころまだらにインクがつき、白黒のパータン模様になっている。
彼女は慌てて、それを隠した。
「……えっと、シオンから手紙をもらって、返事を書いていたの」
「…そうなの、良かったわね」
アンジェは、それを聞いて作り笑いをする。心は酷く、苦々しいものだった。
場に少しの沈黙が訪れた。間があって、アンジェが口を開く。
「……私応援しているわ。シオン様とうまくいくと良いわね」
「姉さん…」
それはアンジェの本心だった。
あの日、グリフォンが襲い掛かってきてから、アンジェは自分の気持ちを自覚し、リコエッタとシオンの恋を応援するように決めた。考えれば、あの子が誰かに恋をしたという話をこれまで聞いたことがなかった。もしかしたら、自分のせいかもしれない。そうアンジェは考えていた。
アンジェの周りには貴族がいつも集まり、一方のリコエッタはいつも一人だった。
それは彼女がリコエッタを守るためではあったが、彼女が恋をする機会を奪ってきたのも事実だ。
なら、妹にはこれから幸せになってほしい。
自分さえ我慢すればいいのだから。
自室で落ち着いて考えられるようになってから、アンジェは良くそんなことを思っていた、だから妹の恋を応援するべきだとも。
それでも読ませるつもりのない手紙をシオン宛に書いたり、心の中でささくれ立ったものを感じる時もあるが。
「そういえば!彼もう仕事は終わったそうなの。近いうちに戻ってくるんだって」
「ふふ、それなのに手紙を書いていたの?」
「まぁ、返事くらい書かないとかわいそうだし…」
「……そう、ごめんね。今日はもう疲れちゃったわ。お喋り出来て楽しかった」
今の発言は本当の気持ちだった。確かに、リコエッタとシオンの恋話を聞くのがつらいのもあるが、アンジェは一日を自室ですごすようになってから、体力の衰えですぐに疲れてしまっていた。
怪我をしてすぐでさえ、もう少し会話ができたのだが、今は数分話すだけでそうなる。
「う、うん。また明日ね」
「いきましょう、リコエッタ様。アンジェ様失礼致します」
リコエッタはロイスと共に部屋から出て行った。
ロイスは小さくお辞儀をして――
去り際に、『ざまあみろアンジェ』と心の中で呪詛をつぶやいた。
ロイスはあの夜、スターチスから毒薬を渡されてから、普段世話をしているリコエッタではなく、アンジェに毒を盛るのはどうかと提案した。
当初、リコエッタに毒を盛るために、彼女の使用人としてこの城にもぐりこんだロイスだったが。
リコエッタがロイスに友情を感じているように、ロイスもリコエッタに友情を感じるようになってしまった。
多分それは二人が似ているせいだったかもしれない。リコエッタとロイスは似ていると、リコエッタはそう思うことはなかったかもしれないが、ロイスは彼女といる時、いつもそんなことを感じていた。王族の娘なのに、姉とは違い、不遇な境遇に同情していたこともあるかもしれない。
そしてロイスは、計画がうまくいった暁に、リコエッタだけはどうにか生きられるように姉に提案するつもりだった。彼女は姉のフローチスほど王位に興味はなかったし、リコエッタなら自分の立場を利用すれば、いくらでも取り繕えると説得するつもりだった。
実はロイスは、アンジェと最初に出会った時から、彼女のことが気に入らなかった。
自分を品定めするような目に贅沢の日々。
子供の頃、自分が出来なかったことを何一つ惜しげもなくする彼女に対し、嫌悪を感じていた。
だが彼女がどれほど自分達のような存在への嗅覚の鋭さをロイスは理解していた。スターチスのいうように、ロイスは計画の日まで、目立たないようにし、極力アンジェに近づかなかった。
そして絶好のチャンスが訪れた。
グリフォンに怪我をさせられ、体をくずして毒を盛っても、不審に思われない。
千載一遇のチャンスだ。
この機会は神様が自分に与えた最高のチャンスなのだ。
ロイスは心の底から神に感謝した。
そして、ちょうどその頃、ダンは迎賓館で目を覚ました。