第十七話 アンジェの覚醒
アンジェとリコエッタは二人で手をつなぎ、商館の階段を上っていた。
室内だというのに、外からの怒号が聞こえてくる。
歩みも自然と遅くなっていた。
「どうしたのリコエッタ?」
リコエッタは一瞬、足を止めた。
外からの怒号に怯えたからではない。姉のアンジェと階段をあがるという、この行動に何か違和感を覚えたからだ。なぜ、一階ではあんな騒動が起きているのに、階段や他の階に誰も人がいないのか。
リコエッタはいやな予感がした。
このまま進んではいけないと第六感の警告が鳴る。
「早くいきましょう?」
そんなリコエッタの様子に、アンジェは振り向いた。
「ごめんなさい、気にしないで。行きましょう。きっとシオンが私たちを守ってくれる」
「……そうね、急ぎましょう」
アンジェは再び歩き始めた。
きっと気のせいだ。今はそれよりも、外の状況のほうが危険だ。早く隠れられる場所に行かなくては、リコエッタはすぐに考え直し、アンジェの後をついて行った。
彼女達の目的地は、最上階の奥の部屋だった。
そこなら他の人間も来るものはいないだろうし、長時間籠城も出来た。
逆の見方をすれば、誰にも見られず、助けも来ないということでもあったが。
◇
アンジェとリコエッタは足は止め、最上階の奥の部屋にたどり着いた。アンジェはそのまま、分厚い扉を開き、部屋の中に入る。
二人は一気に階段を駆け上ったせいか、息が上がっていた。
「なんとか、ここまでついたわね」
「う、うん。そうだね。お姉ちゃん」
部屋に入ってすぐにアンジェはリコエッタに気付かれぬように扉の鍵を閉める。
リコエッタも安心しきった様子で、アンジェの行動に気にする様子もなかった。リコエッタの不注意は部屋中は誰も居ないらしく、安全な場所にたどり着き、ようやく一息ついたせいもあったのだろう。
「……フフ」
その時、何を思ったか、リコエッタは小さく笑った。アンジェは怪訝そうな声でリコエッタにたずねた。何故今彼女が笑うのか、見当もつかなかった。
「…………どうしたの、リコエッタ」
「こんな時にごめんなさい、子供の頃のことを思い出していたの……父の目を盗んで、よく二人で森に遊びに行っていた時のこと。手をつないで、森を駆け回って。あの頃は楽しかった」
「……本当にこんな時に何を言っているの」
懐かしそうにつぶやくリコエッタをアンジェは苦々しく思った
「そうよね、でもこんな風に二人きりで話すのなんて、ほんとうに久しぶりだったから。最近、姉さんが体調を壊してた時は寝室でよく話してたのに、またすぐ話さなくなって…同じ城に住んでいるのに、こんなのって悲しいわ」
「……」
アンジェは答えない。貝のように、口を閉じた。
どうして今そんなことを言うのか。
アンジェは胸が締め付けられる思いだった。
そして先ほどとは打って変わり、これから行う行為が早く終わってしまわないかと考えていた。
そんなアンジェにかまわずリコエッタは、言葉を続ける。
それは会話と言うより、罪の告白に近かった。
「……私ね、姉さんに謝りたかったの、シオンのこと、お姉ちゃんがあの人のことを好きだってmほんの最近気付いて……ごめんなさい」
「なんで…」
「お姉ちゃん?」
「……何で今になって」
「え?」
とっさにアンジェはポケットの中にあったナイフを振りかざした。
それは衝動的な行動だった。
アンジェはその美しい顔を怒りの形相に変え、ただただ無心に振り向いた。リコエッタはあまりのことに驚愕し、偶然しりもちをつく。それが幸いした。アンジェのナイフを紙一重で回避し、今は地面に伏している。
「どうして……どうして今、そんなことをいうの……もう、何もかも、どうしようもないのに!!」
「お姉ちゃん!?」
リコエッタはそのまま、すばやく立ち上がり、ガチャガチャと扉の取ってをまわす。だが一向に開く気配はない。アンジェはすでに、リコエッタの目の前まで迫っていた。
そしてその手に持っていたナイフを振り上げた。ナイフの先端が鈍く光った。
「死ね!!アンジェ!!!!」
突然の叫び声。
その叫び声と共に部屋にあったクローゼットの扉が勢いよく開かれた。
アンジェは声の方を振り返る。それはロイスだった。彼女は最上階のこの部屋のクローゼットに隠れ、これまで身を潜めていたのだ。
これには流石のアンジェも呆気にとられる。
ロイスは、クローゼットから出た勢いのまま、手元の果物ナイフをアンジェに向け、突撃を繰りだす。
(まさかこのタイミングで邪魔を入るなんて。)
アンジェは完全に無防備で、受身を取ることも出来ない。
ロイスのナイフが何かを刺した。ロイスの手元に、肉を切り裂いた感触がする。
だが、アンジェを切り裂くことではなかった。アンジェを刺すことは終ぞ叶わなかったのだ。
今度はロイスが目の前の光景に唖然とする番だった。
「初めてにしては、上々って所ね」
「な、なんで」
リコエッタとロイスは混乱していた。
ロイスが刺したのは見覚えのない貴族の男の腕だったからだ。
彼はアンジェを庇い、代わりにロイスのナイフが腕に刺されていた。
だというのに、痛がるどころか、うめき声ひとつあげない。
瞳孔は赤く、焦点すらあわない。
すぐ後から、ギィというゆっくりと扉の動く音が聞こえた。
扉が気付かぬうちに開いているようだった、よく見ると男の手には扉の鍵を持っていた。
「に、逃げなさいリコエッタ!!」
ロイスはリコエッタだけでも逃がすため、声を張り上げる。もちろん姉の復讐もあったが、友人であるリコエッタを庇うために彼女は飛び出したからだ。だが、それもうまくはいかないかもしれないことを彼女は確信した。
アンジェは化け物だ。
人を操り人形のように変えて、毒すら効かなかった、そして自分の妹さえ…
ロイスは強くナイフを握り締め、アンジェをにらんだ。
「で、でも」
「私はいいから!早く逃げて!」
言いよどむリコエッタは立ち上がり、涙を瞳にためながら部屋を出て行った。
「リコエッタが逃げ出さないように彼を配置していたのに。これじゃあ台無しじゃない」
「この化け物め!!人を意思がないように操って。本当に同じ人間なの」
「酷いじゃない。彼は私の言うことを聞いてくれただけよ、ね」
その言葉に男はただただうなづいた。
だが、首は直角に折れ、骨の折れる音が響いた。きっと首の骨が折れたのだ。
それでも男は顔をこちらに向け、こちらに近寄ってくる。
ロイスの額に汗が伝う。
こんなことなら、リコエッタを助けないで、クローゼットで一人で震えていたほうがよかったかなと、そんなことを考えていたが、不思議と後悔はなかった。
せめて彼女の逃げる時間を稼がなければ。
彼女は手元のナイフをアンジェに突きつけた。
だが、それも上手くいかないのだろう。
そのことをロイスはなんとなく、感じていた。




