第十六話 変局
「……………お待ちなさい。その葡萄酒は私が飲むわ」
スターチスは静かに告げた。
「ま、まって――」
ロイスが言葉を発しようとするも、先にスターチスが遮った。
「私がそのお酒を持ってくるように指示しましたの。彼女は中身を知らないただの使用人。ただ葡萄酒を持ってきただけのよ。だから、彼女から離れて」
「ですが…」
騎士達はクロスベイン夫人の判断を仰ごうと、彼女を見るも、冷徹にも微笑をたたえている。
彼女にとっては息子の復讐相手が死ぬのならそれに越したことはないのだろう。
快く、スターチスの提案に応じた。
「いいわ。彼女が飲みたいというのなら、そうさせてあげなさい」
「ほら、彼女を早く離しなさいよ」
組み伏せられながらなお顔には不適な笑みを浮かべているが、それはスターチスの精一杯の虚勢だった。
衛兵達はロイスのそばから距離を置いて、スターチスの束縛を緩める。
地面にはいつくばってなお、スターチスは優雅に起き上がった。
その姿はまるで本物の貴族のように気品にあふれるものだった。
そしてアンジェは口を開いて、その言葉を否定することはなかった。
というよりも、出来なかったのだ。
スターチスとロイスが二人で毒を盛っていることを、なぜ事前に知っていたかと疑われるのが怖かった、わけではない。
彼女はスターチスの、妹をかばう行動が信じられなかったのだ。
てっきり、彼女は妹を犠牲にしてでも助かろうとすると考えていた。
彼女の悲惨な経歴を商人に聞いていたし、彼女みたいな人間が死ぬとわかっていて妹を庇うなんて思いもよらなかったのだ。もちろんその際のプランだって考えていた。
正確に言えば、それが本来の計画だったのだ。
逆にスターチスの提案は、計画自体はむしろうまく進め、必要手順を一つ繰り上がたほどだ。こちらにとって何もそんはない。
だが…これでは妹を殺そうとする自分のほうが、悪党ではないか、そう思うと、アンジェはその場を動けずにいた。立ちくらみがおき、吐き気すら覚える。
そんななか、スターチスは、ただロイスを見つめていた。
ロイスは今にも涙を流しそうな顔を見て。
(あなたは生きて――)
スターチスは心の中でそんな言葉をつぶやく。
そしてロイスを心配させないよう笑みを浮かべた。
きっとその笑みは、彼女が生まれて初めてした、本心からのものだった。
スターチスは一度深呼吸をする。
彼女はグラスを天井に掲げ、中身を一気に飲み干した。
「……あ、が、があああああ!!!」
スターチスの絶叫が商館にこだました。
眼光は赤く染まり、胸を掻き毟る。
ドレスの端キレが空を舞った。
叫び声を木霊させ、周囲の兵を素手でなぎ払う。
女性とは思えないほどの力に驚いて、騎士たちはスターチスから手を離してしまう。
「殺してやる、アンジェ!!アンジェェ!」
スターチスの手がアンジェの鼻先まで掠めるも、アンジェは眉一つ動かさない。
結局は多勢に無勢だったのだ。
あと少しで、アンジェに触れられそうな距離まで来て、何人もの騎士たちに取り押さえられた。
何人もの人に組み伏せられ、ついに動けなくなってしまった。
その隙をに、ロイスは走りだした。
「お、おい!」
騎士達がスターチスを取り押さえている時を見計らい、懸命に彼女は走る。商館の奥の扉を開けて、そこに逃げ込む。数人の兵士が彼女を追い、その中に入っていった。
あんな小娘一人、取り逃がしてもどうとでもなる。計画には支障はないし、時間ももうない。そう、アンジェは気を取り直した。
彼女を捕らえるのは難しい理由があった。
なぜならこれから兵士達が対応しなければならない出来事が起こるからだ
商館の入り口から、一人の騎士が走って入ってくる。
扉をたたきつける音が聞こえるほど、彼は勢いよく扉を開けた。
彼は騎士団長のそばまで近寄り、耳打ちする。
兵士長は目を見開き、驚愕した表情を浮かべ、その騎士の言葉を聞き返した。
「何、民衆が暴動を起こしただと!?」
(あら、思ったより早かったわね)
そう、アンジェが考えているうちに、商館の中ではそこかしこに悲鳴が響きはじめた。
突如、窓ガラスが叩き割れる音がして床にはガラスの破片が飛び散る。
「うわあ!!、助けてくれぇ。窓の外に、窓の外に。人間が!」
割られた窓の向こうから、突如、人間の手がはえた。
最初はひとつだけだったが、ドンドンと増え、何十人もの人間が手を伸ばす。
暴動を起こした民衆だった。皆目が赤く、正気を失い、それでもなお、この館に向かっていく。
彼らは窓ガラスを割って館の中に入ろうとしていたのだ。
壁際の窓から離れる貴族たちを尻目に、アンジェを心配した騎士が気遣う。
「アンジェ様、お控えください。館の中にお入りください。大事に備えましょう」
「ええ、そうさせてもらうわ」
アンジェはすぐにその場を後にした。
彼女には、この場でまだやることがあった。
◇
兵達は民衆が入らないよう窓や入り口を押さえる
ドンドンと強くたたかれる扉、一部は穴が開き、彼らが焦点の合ってない目をのぞかせる。
「静粛に!!皆様、どうかこの館から決して出ないでください!」、「王城も民衆に囲まれ、連絡が取れません!」、「井戸に何か毒を入れられたようです、身の安全は保障できません。水は決して飲まないように!」、「お前たちは窓と入り口を固めろ!」、兵士たちの言葉が行き交う。
貴族達は悲鳴をあげ、パニックになっていた。我先にと逃げ出そうとし、館内は罵詈雑言があふれていたる。
そこに、騎士団長がシオンの元を訪れた。
「シオン様、申し訳ありません暴動鎮圧にご協力いただけますか?」
「わかりました、ですが…」
シオンは隣にいたリコエッタを見た。彼はいかにもリコエッタを心配し、戦いに向かうことを言いよどんでいる。
「心配しないで私なら一人でも大丈夫。シオン行ってあげて」
だが、リコエッタは毅然と振舞い、恐怖心を押し殺すため、一度シオンの手を強く握った。
二人はようやく覚悟を決め、シオンが手を離し、現場に向かおうとしたときだ。
「リコエッタなら大丈夫ですよ。私が安全な館内にお連れしますから――」
そこに現れたのはアンジェだった。
「ありがとうございます!アンジェ様。騎士団長行きましょう!」
シオンは素直にアンジェに感謝し、騎士団長とともにすぐに商館を出ていった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
リコエッタも安心したようで、アンジェだけに安堵の息をもらす。
「いいの、気にしないで。私たちも行きましょうリコエッタ」
今度はアンジェがリコエッタの手を握り、彼女たちは館の奥のほうに消えていった。
◇
一方、王城では城を取り囲む民衆を抑えるため、兵士達が篭城していた。
いきなりの暴動だった。商館が襲われたのと同時に、城を民衆が取り囲んだのだ。
彼らは城の中に入ろうと、壁に登ろうとする。
だが壁はゆうに、数メートルをこえ、すぐに彼らはずり落ちた。
だが落ちては登る。
諦める様子を見せない。
それを繰り返し、別の行動を取ろうともしない。
彼らは自我を失い、同じ行動を機械のように皆取っていた。
それを見ていた兵士達は恐怖する。
兵士達は肉体的にはまだまだ余裕があったが、その精神は疲弊していった。
いつ彼らは進軍をやめるのかわからない、終わりの見えない行動に兵士達の不安は徐々に募っていく。
そんななか、王は会議室で、直々に兵士たちに指示を与えていた。
「くそ、町はどうなっている!娘たちは!」
そこに一人の兵士が王に近づいた。
「おい、貴様、どこの部隊の所属だ。自分の持ち場にもどれ」
王の言葉を無視し、さらに近づいた一人の兵士は、王に覆いかぶさった。
そして。
彼は持っていた短剣で王のわき腹を刺した。
「何――」
あまりに呆気なかった。
その行動が当然のように、自然に行われたものだから周りの兵士達の行動は一歩遅れた。
慌てて兵士たちが彼を取り押さえるもすでになにもかもが遅かった。
王を刺した者は口から唾液を流し、力なくうなだれている。
目は赤く、誰かに操られているような姿だった。
周りにいた兵士が、声を張り上げた。
「王!!!おい、だれか医者を呼べ、くそ、こんな時に何ということだ!!」




