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六十四話目

 ――暗い、暗い、暗い――ここはどこだろう。先ほどまで準備室にいたはずなのに今は全く身に覚えがない場所にいる。とりあえず視線を横にやるとそこにはカーテン。上にやるとそこには白い天井。下――というか今寝ている場所はベッド。やや薬品臭い匂いから判断するに、ここは保健室だろう。ということは……知らないうちにここへと搬送されたということになる。

「お目覚めかい?」

 こちらの気配に気づいたのか、カーテンが勢いよく開かれるとそこには保険医の姿。白衣をまとった彼女は気だるげにため息をつくと同時、後ろを振り返った。

「小林先生。彼、起きたよ」

「ありがとうございます、石田先生。レイ、大丈夫かい?」

 急いで身を起こして挨拶しようとするもそれは小林先生の手で遮られる。というか、そんなことをしなくても普通に力が入らず起き上がれなかった。

「準備室で倒れているのを見つけて運んできたんだよ。俺がたまたま五限目授業だったからよかったものの……」

「ありがとうございます……ってもう五時じゃないですか。部活……」

「やめときな。今日はもう帰った方がいい」

 ドクターストップをかけた彼女を軽く睨みつける……が、逆に睨みつけられ身を固くしてしまった。

「樫井くんだっけ? 最近生活のリズムを急に変えたりしなかった?」

「……」

「図星か。朝と昼も練習してるみたいだけどちゃんと休息と食事は摂ってる?」

「……はい」

 嘘は言っていない。確かに早起きだがその分早く寝ているし、食事の件に関しても少しずつだが食べているし、朝と昼で食べられなかった分は夕飯で補っている。

「じゃあ、最後に一つ聞きたいけど……過剰なストレスや緊張感なんかはない?」

「……はい」

「そう。わかった」

 そう言って彼女は小林先生の方に向きなおり、

「先生。この子しばらく部活させない方がいいね」

 とんでもないことを言い放った。


「待ってください! 何でそうなるんですか!?」

「そう急かすんじゃないよ。今説明してやる」

 彼女が取り出したのはスマホ。しばらくそれを弄っていたかと思うとそこからは誰かの声が聞こえてきた。

「これ……レイのですか?」

「そう。運ばれてからずっとうなされててね。一応音声だけでもと撮っておいたんだ」

 ひどいプライバシーの侵害だが、二人にとってはそうではないらしい。徐々に真剣な面持ちになっていく。

「わかった? ずっと部活のことについて呟いてる。しかも、何かに駆り立てられるようにね。適度な緊張感は絶対に必要だろうけど、これは異常だよ。『上手くなりたい』って思っていたのがいつの間にか『上手くならなきゃいけない』……つまり目的がすり替わってるわけさ」

「でも……俺は早く上手くならないと……」

「ほら、もうそこから違う。誰かのために君は吹奏楽をやっているのかい? 自分のためにやっているんじゃないのかい?」

 ……悔しいが正論だった。言い返すことも出きず、苛立ちが募っていく。

「私は君のことをよく知らないけど、たぶん責任感が強いんだろう。やる気もあって、向上心もある。でも、今回に限ってはそれが裏目に出た。『吹奏楽はみんなで作る物だから俺が下手だと他のみんなに迷惑をかけてしまう』。『自分にできることをやって着実にステップアップしよう』。『早く上手くなって皆に追いつきたい』……おそらくこれに近いことを思っていたはずだ。これは大事なことだから覚えておいてほしいんだけど、責任感も、やる気も、向上心はいい薬になるけど、時として猛毒――しかも体と精神を蝕むものになる」

 ……確かに、正論だ。でも、どうしろというのだ。自分一人が足手まといだというのは明確だし、演奏ももうすぐある。その上それは低音楽器が肝となるのだ。もし間に合わなければ当然失敗に終わるし、そうなってしまえば吹奏楽部自体の評価を下げてしまうことになるのだ。

「ふぅむ……納得いってない感じだね。頑固な男は嫌いじゃないが、このままでは上手くなるより先に君が潰れるだろうさ。高校生というのはまだ精神的に未熟な生き物だ。例えるなら若い苗木だ。その成長率も吸収率も大変素晴らしいが、その分脆い。適切な状況において適切な対応をしなければこの子の将来にかかわる……わかってるかい? 先生」

「……すいません。自分の観察不行き届きでした」

「別に謝ることじゃないさ。ただ、無意識のうちにプレッシャーをかけてなかったか、もう一度考えてみてくれ。……私は他の学校でも保険医をやってきたが、あの吹奏楽部の環境も原因の一つかもしれないね。大抵は三十人以上いるから、代わりがいる……いい意味でも悪い意味でも。だからこんなに思いつめる生徒はいなかったんだが……」

「……どうしたらいいですか?」

「それはあんたが決めることさ、先生。ただ、この立場から言わせてもらえば少しでいいから吹奏楽のことを忘れる時間が必要かもね」

 石田先生は気だるげにポケットをまさぐり煙草を取り出した。さすがにそれに火をつけることはしなかったが、口の端に咥える。

「樫井くん。君がどうしたいかはあえて聞かない。これは命令だよ。今日は帰りな」

「……はい」

「レイ。荷物は持ってきてあるから……」

「……ありがとうございます。失礼しました……」

「待ちな」

「……何でしょうか?」

 教室から出ようとしたところで呼び止められ、その場で足を止める。振り返ることはしない。おそらく今の俺はひどい顔になってるだろうから。

「さっきも言ったけど私はあんたのことをよく知らない。でもね、これだけは言える。朝も昼も聞こえてくる楽器の音は誰もが聞いていた。その努力はいつか必ず報われる。焦らないで頑張りな」

「……はい。失礼しました」

 保健室を出るとより一層鮮明に聞こえてくる楽器の音。徐々に調和が取れてきているそれは――ひどく俺の心を締め付けた。


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