六十一話目
昨日から一夜明け、朝一で来たわけだが少し体がだるい。一応早めに睡眠をとったはずなのだが……まぁ、動けないほどではないから大丈夫だろう。
欠伸をこらえ、準備室のドアを開けようとしたところで人の気配。見ると先生がこちらに向かって笑みを浮かべていた。
「おはよう。早いね、待ったかい?」
「いえ、自分も今来たところです」
ってカップルか俺たちは。
「予習はしてきたかい?」
「一応……ですがいくつかわからないところがありました」
「なるほどね……あ、楽器は出さなくていいよ。今日は座学だ」
「わかりました」
その言葉に頷きを返し、楽譜を持ってゆっくりと音楽室へと向かっていく。窓から洩れる光がピアノに当たって何とも幻想的な風景だった。
「はい、ここに座って。じゃあ、始めるよ」
そう言って黒板に音符や記号を書いていく先生。おそらく昔から幾度となく練習してきたのだろう。まるで教科書に載っているかのように綺麗だった。
「まず楽譜を読む時に必要なのは音符だね。種類はどれくらい言える?」
「はい。全音符、二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符です」
「そうそう。他にも三連符とか、三十二分音符。それに付点四分音符なんかもあるけど最初はそれくらいを覚えておけばいいよ」
ちなみにこれらの音符はそれぞれ音の長さが決まっているので、演奏の時に必須だ。ただ音階を示すだけの記号ではないと先輩たちからも教えられていた。
「音符の種類に関してわかるっていうことは……読み方がわかんないってことだよね?」
「はい……自分でも見たんですけどイマイチ……」
「わかるわかる。チューバはヘ音記号だから授業で習うリコーダーの読み方では対応できないしね」
そして先生はひらがなのへを縦に書いたような記号を書いた。これこそがヘ音記号――一般的には低音楽器の楽譜において使われるようだ。
ちなみに高音楽器は渦巻きをスタイリッシュに描いたような物――ト音記号だ。これは学校の教科書に載っているぐらいなのでなじみ深い人も多いだろう。というか、大半の人はこれしか知らないんじゃないか?
「とにかく五線譜のどこが何の音に対応するかを覚えなくちゃね。五線譜の下から二番目見てごらん」
「はい」
「そこがド。これを基準にしていけばいいから……音階はわかってるよね」
「音階は大丈夫なんですけど……一ついいですか?」
「何だい?」
「これなんですけど……」
俺が指差したのは五線譜。そこには音符以外に英語の小文字のbみたいなものが書かれていた。
「ああ、それはフラットだよ。半音さげる奴さ。ちなみにこれも曲によって数が変わるから注意が必要だよ。それとセットでシャープ――半音あげる方も覚えてね」
つらつらと#のような記号が黒板に書かれた。この段階ですでに頭がパンクしそうである。
「とにかく音階はわかるんだよね? 後は自分でそれを見ながら楽譜を確認して書き込んでいけばいいよ。大丈夫。徐々に慣れるから」
「……頑張ります」
「よし! 他にわからないことはない?」
「……とりあえずは大丈夫です。ありがとうございました」
「了解! お疲れ様!」
こちらに手を振って去っていく先生。あの急ぎようからして、もしかしたら今日は大事な用事があったのかもしれない。それでも時間を割いてくれたのだから……当然上手くならなければならない。
「……おっと」
椅子から立ち上がろうとしたところで軽い眩暈を感じ、思わずたたらを踏んだ。やはり寝不足だろうか? 体が重い。
「……はぁ……」
小さくため息をつき、頭を振って霞んだ視界を元に戻した。とりあえずは大丈夫そうだし、今日の練習に支障はないだろう。
とにかく今は練習を重ねなければ。睡眠時間を削っても、昼飯を抜いてでも練習して少しでも、ほんの少しでもみんなに近づかなくては。……もう本番まで時間がないのだから。




