四十話目
教室に戻ってすぐ俺たちのもとにある一枚の用紙が配られた。それは入部届。あらかじめそれぞれの教室で書いたものを部の責任者のもとへ持っていくのだ。ちなみに吹奏楽部は音楽室にいる小林先生に提出することになっている。
「先に行ってるよ!」
ぐちゃぐちゃと汚い字で書き殴り、さっさと教室を後にする。早めに持っていった方が絶対いいはずだ。俺たちの教室は三階で、別の棟の四階にある音楽室には渡り廊下があり、そこを行くのが一番の近道だ。
閉められていたドアを開けようとしたところで――ガシッと誰かに肩を掴まれる感触。窓に映ったその姿を見た直後、俺は理解した。後ろにいるのが上級生で更に……かつて執拗ないびりをしてきた人物だと。
「そこは上級生専用だ」
当然そんな決まりはない……ただ彼が独占しているだけなのだ。
「あ? お前……樫井か!」
「お久しぶりです……九頭先輩」
しぶしぶ振り向くとそこには筋骨隆々の大男。彼はこの恵まれた体格のおかげでいじめられることが無かったせいか、他人の痛みにとても鈍感であった。
「お前何持ってるんだ? 見せろ」
「……」
「嫌とか言わねえよな? 俺は先輩だぞ?」
これだ。何かあればいつでも先輩風を吹かす。たかだか数年先に生まれただけで下級生にはまるで自分が神か王のようにふるまってくるのだ。不愉快極まりない。
「いいから見せろ!」
有無を言わさず取り上げられる入部届――彼はそれを見て耳障りな笑い声を上げた。
「お前吹奏楽部に入るのか!? サッカーはどうしたよ!」
俺の足を壊したのは……夢を壊したのはお前だろうが! 何で……そんなことが言えるんだ!
「やめとけやめとけ。お前なんか一生上手くなれねえよ」
「……何でそんなことがわかるんですか?」
「決まってるだろうが。俺の方が先に生まれていろんなものを見てきたからだよ」
こんな小さな島で、しかもほんの少し年上だからといってもう世界を知った気でいる。井の中の蛙という言葉を知らないのか、こいつは……!
「断言してやるよ。お前なんか絶対うまくならねえし、他の奴の足手まといだ。やめろやめろ!」
……もう……いいか。
拳をぎゅっと握りしめてキッと目の前の男を睨みつける。子供と大人のような体格差だ。おそらく完膚なきまでにボロボロにされるだろうが構わない。こいつに一発入れられるなら!
「まったくいつまで夢見てやがる。ちっぽけな夢だなぁ、おい」
「――ッ!」
体中の血が沸騰し、頭が茹で上がるような感覚――反射的に殴り掛かり、その拳が奴の顔面にヒットしようかというところで――誰かに止められた。それは目の前の大男でも、彼の仲間でもなくて……
「桶田……先輩」
吹奏楽部の部長である彼女がいた。だが、明らかに様子が違う。普段はにこにこと笑っている彼女だが、今はひどく険しい表情をしている。ともすれば九頭を殺しそうな勢いだ。
その迫力に押されたのか、九頭が一歩後ずさる。それを視界の端に収めた後彼女はこちらに視線を向け、
「もう大丈夫……辛かったね」
再び奴の前に立ちふさがった。堂々と、まるで本当の王のような風格での仁王立ち。その顔は気迫に満ち溢れていた。
「何だよ、てめぇ……関係ねえだろ」
「悪いけどあるんだよ。この子はもううちの部員なんでね」
いつの間にかすりとったのか俺の入部届をひらひらと掲げてみせる桶田先輩。挑発的な態度を受け、苦闘の顔が真っ赤になる。
「この野郎……舐めた真似を!」
殴りかかろうとした九頭の体が不自然によろめいた。彼の近くには……能代先輩と口咲先輩。
「おい……てめぇうちの部長に何する気だ? あ?」
完全に能代先輩はスイッチが入っている。よく見ればイヤホンをしていたので、きっとハードな音楽を聞いているのだろう。一方口咲先輩はちょいと足を出した格好のまま静止している。彼女が足を引っかけたのだ。
「私たちは事を荒立てようとする気はないよ。ただ、これだけは言わせて」
キッと日本刀のように鋭い視線を九頭に向け、
「人の夢を馬鹿にするな……っ!」
殺気に満ちた声で告げた。しかし九頭は確かに一瞬怯んだものの、すぐに平静を取り繕い、
「は……っ! お前らそいつがどんな奴か知ってんのかよ! 中学の時ずっとバカみたいな夢吐いてたやつだぜ!?」
「それは知らない。でも、関係ないことだから。私たちにとって大事なのは今と……未来だから」
「アホくさ……本当にそいつを信じるのかよ?」
「じゃあさ……賭けしようよ」
「賭け?」
コクンという頷きを返し、
「この子が……樫井くんが卒業するまでに立派な奏者になれるかどうか。そうだな……九州……いや、日本で指折りの奏者だね。もしダメだったら、その時は煮るなり焼くなり好きにするといいよ。彼も、私たちも」
「へぇ……面白そうじゃねえか」
ニヤリと下卑た笑みを浮かべる九頭。本当に下種な奴だ。
「じゃあ達成できなかったときは……覚えてろよ」
捨て台詞を吐いてのしのしと帰っていく九頭。
「……てめえがな。筋肉だるま」
その後ろ姿を見て能代先輩が悪態をついた。とても女子がやってはいけないようなジェスチャー付きで。
「……すいません。俺のせいで……」
「いいのいいの。気にしないで」
先ほどまでの迫力はどこへやら、にっこりと笑って口咲先輩がこちらの肩を叩く。よく見れば、ドーピングを行っている能代先輩以外の二人は小さく震えていた。当然だ。自分より体格がまるで違う大男を相手に平然でいられる方がおかしい。
「あのさ、樫井くん」
「はい」
「信じてるから」
――ッ!
桶田先輩は最後にこちらの頭をぐしゃぐしゃと撫でてから渡り廊下を通っていき、口咲先輩は俺の背を叩いて、能代先輩はこちらの胸をグーでトン、と押してから彼女の後を追っていった。そしてその後ろ姿を見ていくうちに……徐々に視界がぼやけてきた。
嗚呼……必ずうまくなろう。それで一刻も早く……彼女たちの役に立ちたい。
そう心の底から、強く思えた。




