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百六十一話目

 昨日から一夜明けた朝。ぐっすり寝たおかげで体調も万全だ。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。もう少ししたら私も行くからね」

「ありがとう」

 姉さんににっこりと笑いかけてから自転車に跨り漕ぎ出していく。向かう先は学校ではなく家から少し下ったところにある港。そこが今日の演奏場所だ。

 現在の時刻は七時。集合時間は七時半だからちょうど良い頃に付くことだろう。ちなみに、観艦式が開始されるのは九時。それまでは音出しや下準備だ。

「今日は熱いな」

 初夏に入るいうこともあってか日差しも強く気温も高い。この状況下の中屋外で楽器を吹いたらさぞかし疲れるだろう。しかも、今日は本番ということもあっていつものジャージではなく制服だ。ネクタイまで閉めているので暑苦しいことこの上ない。

「しっかし……相変わらずすごい飾りつけだな」

 港に近づくにつれ徐々に大仰な飾りつけや立て看板が見えてくる。まだ屋台などは店開きをしていないようだったが、もう少ししたら始まるだろう。こういう行事は稼ぎ時だから、島外からもたまに人が来たりする……稼ぎと旅行費、どちらが高いかは商売人の腕次第だとは思うが。

「おろ? レイ?」

「ん? トラか?」

 後方を振り返るとやはりそこにはトラの姿。どうやら今日は気合いが入りまくっているようで、髪までワックスを使ってばっちりセットしてきていた。学校では禁止だが、こういう時は黙認される。相変わらず緩いルールだ。

「緊張してるかい?」

「まさか。楽しみでならねえよ」

「だよね。早くやりたいよ」

 一直線の坂道を並走する俺たち。本来なら御法度だが人通りが少ない朝の時間帯だからこそできる技だ。

「あ、あれ桶田先輩じゃない?」

「確かに。よく見えたな」

 百メートル先を横切った人影を見てトラがそんなことを呟く。こいつは軽く見えていたようだが、俺は必死に目を凝らしてようやく識別できた。どれだけ目がいいんだ。お前は野生児か。

「二人とも! こっちこっち!」

 手招きしてくれている桶田先輩に応えるべくスピードを上げ、その横まで一気に移動。すると彼女はニッと笑い、

「おはよう。やる気は十分みたいだね」

 心底嬉しそうにそう言った。かと思うと、ハッとトラの方を見つめ、

「こら! ネクタイ曲がってる!」

「す、すいません」

 わざわざネクタイを直してくれた桶田先輩にトラは申し訳なさそうに頭を下げる。恥ずかしさからか、その耳は朱に染まっていた。

「もうすぐ着くからね。行こうか」

『はい』

 先輩は流石というか、本番前だというのに余裕を見せていた。表情にも一切力みは見られず、自然体という感じだ。

「あ、あれあれ」

「……すごいですね」

 港にはまだ一隻も停泊していなかったが、その周辺にステージが組み立てられていた。おそらく、あそこで俺たちが演奏するのだろう。今まで見たことがなかったので、正直新鮮な思いだ。

「お~い!」

「あ! 先生!」

 姿を見るや一目散に駆け出していく先輩。先生はというと、昨日積み込みをしたトラックのそばで少しカッコつけたポーズで立っていた。ちなみに、先生も今日はスーツ。いつものジャージ姿以外を見るのはもしかしたら始業式以来かもしれない。

「他のみんなは?」

「まだだよ……あ、ごめん。今来たね」

 先生が指差した先には一台の軽トラック。しばし間をおいて、二年生の先輩たちがぞろぞろとそこから降りてくる。どうやら保護者の人に回収を頼んでいたようだ。確かに効率的である。

『おはようございます!』

「おはよう。忘れ物はないね?」

 その言葉を受け、一斉にカバンの中を漁り、胸を撫で下ろす先輩たち。一応俺も見てみたが、いるものは全て揃っている。楽譜はもちろん、チューニング用のチューナー。楽器から出る水を拭うためのタオルに、楽譜が風で飛ばないようにするための洗濯バサミ。それから、万が一を考えて筆記用具と医療道具。完璧だ。

「先生。こんな重要な日に忘れ物する人なんかいませんよ」

「それもそうだね」

 照れくさそうに頭を掻きながら微笑を浮かべる先生。先輩たちもカラカラと楽しげに笑っている。

「本当、そんな奴がいるなら見てみたよな、トラ……トラ?」

 様子がおかしい。あれだけニコニコしていたはずなのに、今は顔面を蒼白にして小さく震えている。目の焦点もあっておらず、動機も激しかった。

「もしかしてお前……」

「……楽譜忘れた」

『はあああああああああ!?』

「どこに!?」

 間髪入れず先生が訊ねる。するとトラは、

「たぶん……家です」

「何してんの、この馬鹿!」

 霜国先輩からお叱りの言葉を受け、肩を縮ませるトラ。他の先輩たちは叱りはしないものの、視線で彼を糾弾していた。しかし、先生だけは悩ましげに頷いた後、

「あの車。誰の車?」

「あ、私のです」

「それじゃ、あの車にトラを乗せてもらえるか聞いてきて? 俺はここから離れられないから」

「わかりました!」

 一目散に駆け出していく蛇塚先輩。おそらく父親と思われる人物としばらく交渉していたかと思うと、こちらに向きなおって両腕で大きく丸を作ってみせた。

「よし! 行け!」

「はい!」

 電光石火の勢いで車に向かい、何度も頭を下げてから乗せてもらうトラ。数秒もしないうちに車はそこから走り去り、排出された煙だけがそこに残る。

「ったく……あの野郎」

 ここからあいつの家まではそう遠くない。よほどひどいところに楽譜を置いていなければすぐに戻ってこれる……はずだ。

「おはようございま~す」

 間延びした声がしたかと思うと、そこには千尋の姿。すると先輩たちはすぐさま彼女に詰め寄り、

『忘れ物は!?』

「へ!? ちょっと待ってくださいよ……えっと……ないです」

『はぁ……』

 安堵のため息を漏らす先輩を視界の端に納めながら千尋は俺の方までより、

「あのさ……私何か悪い事でもしたのかな?」

「いや、千尋は何もしてないよ。トラだけだ。馬鹿やったのは」

「もしかして、忘れ物?」

「鋭いな」

「だってここに来る前にすれ違ったもの」

「そ、そうか……」

 結局、トラが帰ってきたのは集合時間ぎりぎり。その頃までには部員は彼を除いて全員集合し……当然のごとく忘れ物のチェックを受けていた。そして、トラはというと……

「トラ。今日の反省会では覚悟しときなよ」

「は……はい」

 先生から死刑宣告を受け、がたがたと震えていた。自業自得だが、少しばかり可哀想なありさまである。きっと、今日は彼にとって忘れられない日になるだろう……いい意味でも、悪い意味でも。


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