百五十九話目
「それじゃ、今のところもう一度」
『はい!』
喉が裂けるのではないかと思うほどに声を張り上げ、楽器を構えてすぐさま吹く。さっきからずっとこの繰り返しだ。延々と、淡々と、出来ていないところだけを重点的に何度も繰り返している。
出来ていないところを吹くというのは案外辛い。自分たちでもそれがわかるだけに精神的に来るのだが、今日にとってはその限りではなく誰もが必死に食らいつこうとしていた。心が折れるということは決してなく、むしろその悔しさをばねにしているかのようだ。
「レイ! 今のところ少し遅い!」
「はい! すみません!」
「謝らなくていいからもう間違えるな!」
「はい!」
指摘を受けた個所にぐちゃぐちゃと鉛筆で注意書きを入れる。最初もらった頃はまっさらだった楽譜もすっかり汚くなって、もう何が書いてあるのか俺以外には読めないほどだった。
「それと、最後! いつもここで気が緩むよ! 楽器を下ろすまでは油断しないこと!」
『はい!』
半ば怒声混じりの応答。しかし先生はそれに強く頷いて尚も指揮棒を振り続ける。
俺たちも辛いが、指揮者はもっと辛い。全員に意識を向け、かつそれらの改善策を考えなければならない。おまけに曲の間はずっと腕を振り続けるのだ。すでに顔は真っ赤になって、じんわりと汗も浮かんできているように見える。
「もう一回! 自分の事だけじゃなくて周りのことも考えるように!」
『はい!』
上ずった声を上げつつも返答。そしてまた吹き続ける。
だが、しばらくして先生が難しそうな顔をして時計の方を見やる。
「マズイな……あと一時間か……いや、まだ一時間もある。みんな」
ふっと視線を向け、
「今からは止まれない。しっかり死ぬ気でついてきて」
『はい!』
「よし!」
掲げられる指揮棒と楽器。数拍置いて聞こえてくる風切音と音色。
「もっとしっかり音出して!」
演奏を止めることなく先生が声を張り上げる。俺たちはそれに応えるかのように、音でそれを示す。怒声と音色の応酬が、今この場で繰り広げられていた。
「もっと軽快に! 跳ねて跳ねて跳ねて!」
イメージは……スーパーボール。軽く、高らかに、リズミカルに。
「音を聞け! 一人で吹いてるんじゃない!」
耳に神経を集中。隣から聞こえてくるトロンボーンのピッチに合わせるように唇を使って微調整。
「だから! 気を抜くなって言っただろ!」
もう限界はとうに超えている。唇は感覚を失いつつあり、指だって動かしすぎて関節が悲鳴を上げてきた。全力で息を吹き込み過ぎたせいで呼吸器もガタガタで、呼吸がまともにできないせいで頭までクラクラしてきた。
だが!
「――ッ!」
決して、止まらない。全員が、死に物狂いで演奏に向き合い、戦っている。それを見て――俺だけ休めるわけがない!
「――ッ!」
時計を見る余裕はない。だが、今思っていることが一つ。
――まだ、終わるな。
もっと練習がしたい。ほんの少しでも、本当に少しだけでもいいから上手くなりたい。強くなりたい。みんなと――吹いていたい。
「~~~~~~~~ッ!」
叫びをあげるように音をかき鳴らして突き進む。まだ、まだやれる。やりたい。もっと、もっともっともっと!
「ッ!」
だが、その願いは聞き入れられなかった。先生の指揮棒がピタリと動きを止め、ゆっくりと指揮台の上に置かれる。そこで初めて――もう時間になっていたことに気づいた。
胸中に渦巻くのは、後悔と自責。時間がないことを少しでも合奏中に理解していたら。最後に出せた全力を、後先考えずに最初から出せていたら。俺が……もっと上手かったら。
そんな思いがまるで渦巻く炎のように俺の心に纏わりついてくる。悔しくて、不快で、辛い。最悪だ……こんな気持ち。
「みんな」
だが、ここで俺の思考は先生の言によって遮られる。
「よくやった。本当に、本当に、よくやった。おそらく、みんなの表情を見る限り納得いかなかった人もいるだろう。不安で押しつぶされそうな人もいるだろう。でも、大丈夫。君たちは十分戦った。後は、明日どれだけそれを発揮できるかだよ」
『……はい!』
「後悔も自責も不安も恐怖も全部ここに置いていきな。明日本番に持っていくのは……自信と誇りだ。いいね?」
『はい!』
「それじゃあ、今日の練習はここでおしまい。お疲れ様でした」
『ありがとうございました! お疲れ様でした!』
ゆっくり息を吐き出し、そっと目を閉じる。脳裏に浮かぶのはこれまでの全て。
上手くいかなかったことや辛かったこと、納得のいかなかったこともあるが……それと同じ、いや、それ以上に浮かび上がってくるのは感動だ。楽器が初めてうまく吹けた時。人から自分の成長を認められた時。そして――みんなと肩を並べて合奏に参加した時。どれもこれも、大切な思い出だ。
ああ、そうだ。やってやろう。やれるだけのことはやった。もう、迷わない。
それに、俺は一人じゃない。応援してくれる家族がいる。頼りになる仲間がいる。そして――ここまで一緒に戦ってくれた楽器たちがいる。だからきっと……大丈夫だ。




