百五十二話目
水曜日――もう残すは数日となってしまった。当然、練習に熱は入り、緊張感と焦りがまるで泥のように足に絡み付いてくる。だが、それに負けている者はいない。むしろ糧とすることによって演奏の効率を倍増させていた。
集合の時からすでに部員たちの顔は引き締まっており、ともすれば人でも殺すのではないかと思ったほどだ。特に三年生は最後の観艦式とあってか気合いの入り方がほかの部員たちと一線を画している。いつも飄々としている桶田先輩ですら軽口を控えているほどなのだから、相当だ。
「ふぅ……」
ベランダに楽器を持って出て、大きく深呼吸。今日はかなり快晴。ギラギラと容赦ない太陽が俺を、MCを、スーを照らす。
「さて……準備はいいか?」
『もちろん!』
『ええ、当然です』
平常運航の二人。今日も大丈夫そうだ。そっと頷き返して椅子に腰を下ろし、楽器を構えて唸るように喉を鳴らす。さらに首の骨をゴキゴキと鳴らしてリラックス。今や短時間で臨戦態勢をとれるようになっていた。
「……っよし、行くか」
基礎練を始める前にまずはマウスピースを使って唇を十分に慣らしておく。それを数分くらい繰り返してから、ようやく基礎練を開始。いつも通り――いや、いつも以上の演奏を心掛けていく。
昨日の俺よりも進化する――これは一つの命題だ。停滞するのは俺にとって退化と同義。そうしている間も他の競争相手は進化していくからだ。だからこそ、試行錯誤を繰り返して足掻き、もがき、足を進ませていく。
自分ではなかなかわからないものだが、MCたち曰く着実に進歩はしているらしい。ただ、それは本当に微量なのですぐにはわからず、芽吹くのも遅いらしい。だが、それでもいいのだ。要は継続することが重要なのだから。
――そうしている間にとうとう合奏の時間が来てしまった。そこで、腰を上げて音楽室の方へと足を向けていく。するともうすでに他の部員たちは集合しつつあった。足を早めつつ――ぶつけないように細心の注意を払いながら入室し、所定の位置に着席。するとそれから数分もしないうちに先生が到着した。
『?』
が、そこで全員が首を傾げた。小林先生以外に誰かいる。それは――寺野先生だった。
「ああ……そういえば副顧問だったっけ」
ぼそりと、本人に聞こえないように千尋が呟いた。一方寺野先生はにこにこと愛想を振りまいている。小林先生はというと、やはり神妙な顔つきで前に立ち、
「それじゃ、始めようか」
『はい!』
告げた。
――そして始まった演奏。だが、今日はいつもと違った。演奏が、ではなく環境が。
「ちょっと今の違うんじゃない?」
寺野先生の声が時折後方から響いてくる。
そう。彼女が時々思ったことを言うのだが、それがなかなかに口やかましいというか……何というか、少し小馬鹿にした感があった。ミスをすれば、当然本人もわかるし、辛い。それを彼女はチクチクといやらしくついてくるのだ。
「あ、今トランペット音外れたよ~!」
演奏のさなか、そんなことを大声で言い出す。これは指摘じゃない。もはや、野次やガヤの類だ。それをどう発展させたらよいかは言わず、ただミスをしたという事実だけを述べる……はっきり言って演奏に悪影響を与えていた。
ガヤを言われるのを恐れて萎縮し、結果的にまとまってはいるものの小ぢんまりとした演奏になっている。その逆もしかり。苛立ちが演奏に現れ始めて壊滅的になりつつある人もいた。
「……今日はこのぐらいにしようか」
「おいおい、みんな~! そんな演奏を聞かせられるの~?」
場違いなことを言い始める寺野先生に思わず腹が立ってしまった。チラリと横を見ると他の人も似たような感じで、怒りをあらわにしていたり、泣きそうな顔になっている人もいた。
「よし。それじゃ、お疲れ様」
『ありがとうございました!』
「はい、どうも~」
最後に間延びした声を残して去っていく寺野先生。そしてその姿が完全に見えなくなったところで――
「みんな……どうだった?」
小林先生が優しく問いかけてきた。当然、その答えはわかっているはずだ。不愉快以外の何物でもなかった。だが、そこで先生はふっと微笑み、
「でもさ、いい経験になったと思いなよ。実際にああいう野次がないわけじゃないし、耐性がついたと思えばさ」
「じゃあ、そのつもりで寺野先生はわざとああやったんですか?」
「いや、いつも通りだよ」
それに先輩たちも頷き返す。てっきり嫌われるのもいとわずやっていたと思ったのに、何だか気が抜けてしまった。
「さ、気持ちを入れ替えてもう一度やろう。いいね?」
『はい!』
その返事はいつもより気合いが入っている――と言うか荒々しく聞こえたのは気のせいだろうか? いいや、きっと違う。おそらくフラストレーションが溜まりに溜まっているのだ。つまり……チューバが真価を発揮するときだ。




