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百二十七話目

 昨日から一夜明け、今日が本番前最後の日曜日。だがそんな大事な時期だというのに、俺は初めて朝練を休んだ。いつもよりだいぶ遅く行くと、二人は不安そうに駆け寄ってきてくれたが、あまりいい返しが思い浮かばない。ありきたりな謝罪を述べることしか、俺にはできなかった。

 やがて聞こえてくる喧噪。先輩たちや同級生たちの談笑を聞きながら、演奏の準備に取り掛かっていく。すると、不意にドアが開かれた。

「樫井くん。楽器は出さなくていいよ。先に先生からお話があるらしいから」

「あ、はい」

 あいまいな答えを桶田先輩に返し、楽器をそっと壁に寄せてその場を後にする。後ろ髪を引かれるような感覚を得ながらも、なるべくそれを意識しないようにしてドアを開け外に出た。ウザったい程にまばゆい太陽が空高く上っている。普段なら気分が乗るところだが、今日に限ってはただ煩わしいだけであった。

「おっと、みんな早いね」

「先生。おはようございます」

 桶田先輩の声に続くようにして続けると、先生は神妙な顔つきで頷いた。普段は飄々としているだけに、そのギャップからかどこかうすら寒いものを感じた。一種の畏怖と言ってもいいかもしれない。それだけ静かな迫力に満ちていたのだ。

「じゃあ、みんな中に入って」

 ぞろぞろとまるで死刑囚のような顔つきで音楽室へと入っていく俺たち。その中には例の二人の姿も見て取れた。

「さて、適当に近くの椅子に腰かけて。大丈夫、すぐ終わるから」

「何を話すんですか?」

「今から言うから。ちょっと待ってて」

 不用意に口を開いた千尋が先生から諌められる。彼女なりに心構えをしようとして聞いたはずなのに、これではあんまりだ……それだけ切羽詰っているということではあろうが。

「ふぅ……話っていうのはトランペットの二人の事だよ。もう察していると思うけどね」

 ビクン、と同時に二人の肩が跳ねた。だが、それを一瞥しただけで先生は言葉を継げる。

「まず、事情は分かった。後輩のことを考えて自分は身を引こうとしたっていうのもわかる。でも、本当にそれでいいのかい? というか……この時期にそういうことするの、やめてくれないかな? 本番までもう時間がないんだよ? 最悪そう思ったならだれかに相談する方がいいし、そうしてもらった方が対策もしやすかった」

「……はい」

「それと、何で最初は合っていたのに途中から合わなくなったかわかる? 一人だけ思いが違ったからだよ。今回に懸ける……ね。おそらく、演奏を譲ろうと思った辺りからじゃないかな、音が合わなくなったのは。つまり、もうすでに気持ちが一歩みんなより退いていたから取り残された。技術的にも音楽的にも」

 先生は怒涛のように告げる。

「なぜ退こうと思ったのか、それが俺には不思議でならない。確かに適正でいえばトラの方が上かもしれないけど、本当に譲ってよかったの? 最後なのに、よかったの?」

「……はい。その方が部のためだと思いましたので」

「だからさぁ、部のためじゃなくて自分の気持ちはどうなのかって聞いてるんだよ」

 静かに起こるというのはまさにこれだろう。先生はあくまで穏やかな口調は崩していないが、そこからにじみ出る怒りは隠しきれていない。

「俺は上手いか下手かではなくて、ただ音楽を楽しんでもらいたいんだ。誰に遠慮するでもなく、自由に、自分の思うようにやってもらいたかったんだ。でも、今君がやろうとしていることは違う。自分の気持ちを、そしてみんなの気持ちを踏みにじる行為だ」

「……無理ですよ、そんなの」

「何?」

「だってそうじゃないですか。こんなに人数がいれば考えも違いますし、やりたいことも違います。そんな中自由にやったら……部が壊れるじゃないですか」

 気づけば、先輩の頬を涙が伝っていた。見渡してみれば、他の先輩たちも辛そうに顔を歪めている。

「そうだね。言っていることはもっともだ。でも、今回に限って言えばこれは君の独断専行だ。本来なら話し合い、妥協点を模索しなくちゃいけないのに君は勝手に見切りをつけた。諦めた。目を逸らした……だから俺は怒っているんだ」

 そこで息継ぎをはさみ、

「部内で反発が起こるのなんて当たり前。それが普通だ。そのために俺がいるんだ。部を纏め、引っ張っていくのが顧問なんだ。それだけの覚悟を俺は持っている」

 強いまなざしで全員を見回す。何というか、生きた心地がしなかった。

「もともと吹けていたんだ。今からでも音量を出せるようにしておいて。とにかく、今回は時間がない。もう一週間だ。だから、あまりこういったことに時間を取れないのも事実だけど、これだけは言わせてほしい――音楽に、自分に嘘をつくな。以上、時間を取って悪かったね。それじゃ、解散」

 それだけ言って先生は立ち上がってその場を後にする。だが――それからしばらく生徒たちは誰も立ち上がることができなかった。先生の言った言葉が深く、鋭く、胸に突き刺さり、その衝撃で放心状態に陥っているようだった。


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