百十一話目
時刻は昼の四時。昼練は今回もパスして、改めて譜読みを入念にやった。トラたちから合奏の時のコツ――具体的には視線の向きや周りの音の聞き方など。なかなかに興味深いものばかりで、思わず今まで聞かなかったことを恥じてしまったほどだ。
「さて……そろそろか」
トラがぼそりと呟く。確かに遠くから先生のものと思わしき足音も聞こえてきた。つい昨日の記憶がよみがえり、手に汗がにじむ。気のせいか、動機も早くなってきた。
『レイ……落ち着いて』
「スー? ダメだろ、話しかけてきたら」
幸いに俺にしか聞こえないほどの声量だったが、万が一ということもある。あまりにもこれは彼女にしては愚行だ。
『大丈夫。一人じゃないから、周りをよく見て、自分を、私たちを信じて。それじゃ、頑張ってね』
それだけ言って彼女はだんまりを決め込んでしまう。言いたいことばかり言っていったな、あいつ……でも、楽になった。ほんの少しだが、落ち着いた。
「ありがとな、スー……」
彼女に報いるため、自分の頬を両手ではたいて気合を入れる。つい良い音が響いてしまい、部員全員の視線を受けて顔を赤くしてしまった。不覚だ。
「ん、全員揃ってるね」
「気をつけ! 礼!」
『お願いします!』
先生が入ってくるなり一斉に起立して頭を下げる。彼はそれに軽く会釈して、壇上に登って指揮棒を構えた。またも言いようのない不安感が辺りを包む……が、自分でもよくわからないが、なぜか俺はここで笑みを浮かべた。
気持ちが高ぶっているというか、制御を失った機関車の動力部のように荒ぶっている。この感覚がどうしてか、異常に懐かしく同時に誇らしかった。
「それじゃ……行こうか」
拍をしばらく刻んだ後で振り下ろされる指揮棒。何とかそれにくらいついていくことに成功し、とりあえず出だしはばっちりだった。
目線はずっと指揮者の方……ブレスは短くしっかりと吸い込む。
脳内でみんなから教わったことを反芻。昨日とは違ってすぐにパニックに陥るということはなかった。演奏の感覚を掴めたからだろうか? そこまで苦痛には感じなかった。
ちなみに軍艦行進曲におけるチューバの楽譜はとても単調だ。ほぼ一定のリズムで刻むだけ……だからこそミスが目立つし、他を狂わせてしまう。特にこの曲は行進曲だ。低音やリズムは他の基盤となる。
「……レイ、もっと音を跳ねさせて」
先生から指摘が入るも合奏は止まらない。トラたち曰く、これはまだセーフラインだそうだ。多少気になるが、合奏は続けられるレベル――まぁ、それでも胸を張れることではないのだが。
というか……跳ねる? ど、どうすれば……。
悩んでいるうちに曲は進んでいき、とうとうそのイメージを掴めないまま終了を迎えた。最後まで止まらずに行けた達成感と、先生の指摘を上手く理解できなかった後悔が襲ってくる。
「うん。何とか最後まで行けたね。ただ、やっぱりチューバ。ちょっと重い。もっと軽く跳ねるようにしてくれないと、行進曲らしさが出ない」
「はい!」
「うん、頑張って。次に、金管。もっとパワーが欲しいな。ただでさえうちは少人数なんだから、フォルテの部分はフォルテッシモぐらいの勢いで吹かないと。けど、音は割らないようにね」
『はい!』
「よし。後は……パーカス。今だけでいいからちょっとはっきり目に叩いてくれる? 本番は今ぐらいでいいんだけど、まだチューバがリズムに乗りきれていないからその手助けをしてあげて。よろしく」
『はい!』
……むぅ、それなりに上手くいったかと思ったが、先生からしたらまだまだだったようだ。また先輩たちに迷惑をかけてしまい、申し訳ない。
「それじゃ、今の反省を踏まえてもう一回。行くよ」
『はい!』
再び繰り返される演奏。だが、今度は開始から数小節したあたりで先生が首を振って中断。その原因は……おそらくトランペットパートだ。
「トランペット。音をもっと出して。トロンボーンはおろか、木管にまで音量で負けてるよ」
『はい!』
「じゃあ、もう一回」
だが、また演奏が止められる。力み過ぎたペットが割れた汚い音を出し、不協和音を作ってしまった。
「はいはい。集中して……いや、そうだな。一人ずつ吹いてみよう。まずはトラ」
『はい!』
「さん……はい」
奏でられるトラの音は勇ましく、とても力強い。まさに軍隊の行進曲といった感じで自信と気迫に満ち溢れている。二小節吹いた辺りで先生は満足そうに頷き、今度は口咲先輩の方に向きなおった。
「さん……はい」
聞こえてきた音はとても優しく流麗だ……が、はっきり言って曲調に合っていない。それは他の部員たちも同様のようで、皆渋い顔をしている。
「う~ん……もうちょっと勢いが欲しいかな? 今日はこのまま止めるわけにはいかないから流すけど、改善するように」
「……はい」
そう言った口咲先輩はとても悲しそうだった。やはり後輩の方がいい評価を得たからだろうか? まだ始めたての俺にはわからないけど、それはきっと……何よりも辛いはずだ。




