百二話目
「樫井くん、ちょっといい?」
しばらく基礎練を繰り返していたところで桶田先輩からお呼びがかかる。何事かと振り返ってみれば何やら自前のチューナーを持って立っていた。
「今から音楽室に行こうか。少し気になるところがあったから」
「はい!」
「うんうん、いい返事。あ、楽器は中に入れようか。外に出したままだと色々悪いしね」
彼女に頷きを返し、二人をそっと抱きかかえて中に入れる。
というか……自然と二人と言えてしまっただけもう慣れてしまった感がある。人間というのは恐ろしいものだ。
「マウスピースだけは持っておいで。それ、使うから」
「はい! 今行きます!」
そっとマウスピースを外し、先輩の後を追っていく。すでに曲練に入っているパートもあるようで、綺麗な音色が廊下まで響いていた。そうこうしているうちにピアノの前にたどり着き、そこで彼女はバッと振り返る。
「よし、それじゃあピアノを使って音感を養おう大作戦~ぱちぱちぱち~」
「は、はぁ……」
「もう、ノリが悪いなぁ。もっと楽しくいこうよ」
不満げに口を尖らせ、ぶつくさと言って椅子に座り、姿勢を整える先輩。本当につかめないお人だ。
「それじゃ、この音。なんだかわかる?」
「えっと……ド? ですか?」
「そうそう。それをマウスピースで吹いてごらん」
頷きを返し、ゆっくりと息を吹き込む。だが、それを聞いて先輩は悩ましげに首を捻った。
「う~ん……そうだ! これで目を覆ってみて!」
そう言ってこちらに渡されるタオル。恐る恐るそれを受け取り、目元に装着する。どこか甘い、女の子らしい匂いがした……きっと無意識にこうしたのだろうから、危機感が足りないと思う。男はみんな狼だ。
「人ってね? 五感を一つ封じると他が冴えるんだ。だから、音感を鍛えるときにはまずそうした方がいいかもね」
「は……はい」
「それじゃ、もう一回」
響くピアノの音に続くようにしてドの音を吹いた……が、その数秒後、急に肩を叩かれ思わず飛び上がってしまった。先輩に悪気はないのだろうが、この状況でそれは勘弁してほしかった。
「そんな怯えながら吹いたらダメだよ。間違えてもいいからって気持ちでやるのが一番! 当たって砕けろ! だよ?」
「もし砕けたら?」
「そしたらそこまでの男だったってことだよ」
ケロッとした調子で告げる先輩。案外ウチの女子――楽器たちも含めるが、全員男より男らしい気がする。俺はその答えに唯苦笑いを返すことしかできなかった。




