episode61
「ほぉ」田上が興味深そうに目を細めた。「だから、あなたのような人間が弁護士であることに憤りを覚えます。――田上さん、そろそろ本題に入らせていただいてもよろしいですか」
「あなたにどう思われようが私にはどうでもいいことです。それに、あなた方に私を責めることができますか？ 先ほどの話は警察官であるあなた方は知っていて当然の話です。知っていたのなら見て見ぬ振りをしていたことになり、もし知らなかったのなら、それもまた罪深いとは思いませんか？」
田上は懺悔を促すかのように俺たちに静かに語りかける。
聖職者を気取っているのか。不愉快に思ったが、ひと言も言い返すことができなかった。彼の言う通り、知っていて気付かない振りをしていたのは事実だった。矛盾していても現行法だから仕方ないと目を背けてきた。
田上はなおも続ける。
「〈正義〉もまた、脆弱で不安定なものなんですよ。人を殺して英雄になる人間もいれば、殺人鬼になる人間もいる。それを決めるのは、その他大勢の人間。彼らの良心が〈正義〉かどうかを決めるのです。では、今度は裁判の話をしましょう。あなた方と係わりの深い刑事裁判の話を。裁判に正義はありません。裁判は、被害者を救済する場でも加害者を特定する場でもありません。ただ、検察側の言い分が事実かどうかを提出された証拠から判断する場。その証拠が認められれば有罪となり、疑わしければ無罪となる。裁判での弁護士の役割は、法律知識に乏しい被告の為に正当な利益を守ることです。――ただ、守ると見せかけることもできるんですよ。その場合、何も知らない被告は独りで法廷に立つことになる。だから、裁判も不完全なものだと言えますね」
「それは……それは赦されないことだ。権利を侵している！」
「何を興奮しているのですか。相手は犯罪者ですよ？」
俺は田上を非難するように睨みつける。
「……刑事裁判の原則である無罪の推定を、弁護士であるあなたが侵すのか！」
「『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ』ですか。けれど、その無罪の推定は形骸化し、今では被告側が無実を立証しなければいけないのが現実です。ご存じですよね？ 刑事裁判の有罪率が九〇％以上だということを。そして刑法犯の起訴率が約四〇％だということも。これがどういう意味を持つか、もちろんお解りになりますよね。確実に有罪にできる事件しか起訴しない。つまり、裁判をする被告は〈犯罪者〉という烙印からは逃れられないんです」
これだけ言葉を交わしているにも係わらず、田上という人間が掴めない。俺の言葉はすべて跳ね|返され、馨の時よりも高く大きな壁が俺たちの前にそびえ立っている。
この目の前に座る男は、始めから今に至るまで心を開いてはいない。彼の言葉に彼の意思があるようには思えない。彼は、俺たち――主に俺――を翻弄して愉しんでいるだけだ。
これまで罪を犯した人間と幾度となく言葉を交わしてきた。彼らから放たれる言葉は、理解しがたい理不尽なものばかりだったが、それでも、ここまで虚しい気持ちになることはなかった。
これ以上、田上と話をすることが俺には耐えられなくなっていた。
「あなたの言うように、この世に完璧なものなどありません」田村が使い物にならなくなった俺の代わりに口を開いた。「ですが、不具合を見つけ次第、修正、もしくは取り除くことによってこの社会は正常に機能しています。あなたの言う不具合のひとつであるMichaelは、私たちによって発見されました。――何が言いたいのか、お解りですね？」
「Michaelは不具合ではないでしょう。――私は囁いているだけです。それは私だけでなく、多くの人が囁いている。悪意の有無に係らず、導いているんですよ。こうしたらいい、こうなればいい、という思いのままに」
「けれど、やり過ぎです」
「その人の唯一の人生の為でもですか？」
「その為に、唯一の命を奪われた人がいます」
二人の応酬は続く。
「それは、亡くなった方がその人の人生を脅かす存在だったのだから仕方のないことだとは思いませんか？ これも一種の正当防衛です。――彼らは満足していると思いますよ」
田上の最後の言葉に、双葉慎吾の慟哭、そして能面のような美和の顔が脳裏を駆け巡った。俺はゆっくりと顔を上げる。
「人はひとりで生きている訳ではありません。自分の思い通りにならないからといって、他人を傷つけていいはずがない。解り合う機会を永遠に失ってしまった彼らは後悔しています。決して満足なんてしていない！」
あんたの暇つぶしを正当化なんてさせない。
俺はまっすぐ田上を見据える。またすぐに繰り出されるであろう彼の詭弁に正面から向き合う覚悟でいると、「人は生涯、孤独なんですよ。それに価値観は人それぞれだと思いますが、いいでしょう。今回は素直に排除されましょう。Michaelは今日で終わりにします」と田上は言った。
予想外の終結宣言に唖然とする俺に、「何故、驚くのです？ その為にあなた方はここに来たのでしょう？」と田上は目を細めた。
「今回は、ですか」
冷めた口調で田村が言った。
「ええ、これから少し忙しくなるので」
「佐伯美和さんの弁護をされるそうですね」
「彼女から依頼がきましたから」
そう。Michaelが田上だと知った美和は、彼を担当弁護士として指名したのだ。
「よく受けられましたね」
俺は田上に軽蔑の眼差しを向ける。
「仕事ですから」
「……あなたは、彼女たちの入れ替わりに気づいていたのではないですか？」
この男は、すべてを知っていたのではないか。
俺たちに気づかせる為に、わざとあんなことを言ったのではないだろうか。現に、田村はあの節穴発言から双子の入れ替わりを疑い始めた。彼の思うままにすべてが進んでいた。そう思えてならなかった。
「気づいていたのなら、警察に報せていますよ」
田上はこれまでと変わらず、落ち着いた口調でそう言った。
「あなたが気づかなかったとは思えません」
信じない俺に田上は穏やかな笑みを浮かべたまま、「随分と私に対する評価が高いようですね。ですが、仮に私が入れ替わりに気づいて警察に報せたとしても、これまでと大差ない捜査が行われていたと思いますよ」と言った。
「そんなことはないでしょう」
二人の入れ替わりが判っていれば、居もしない男に振り回されることはなかった。
「あなた方警察は事件当初から先入観を持っていた。ですから、入れ替わりの事実を知ったとしても同じまわり道をしていたと思いますよ」田上はこれまでに見せたことのない冷ややかな視線を俺たちに向け、「もう、お帰りになったらいかがですか？ あなた方のできることは、これ以上ありません。谷川さんも帰ってきたことですし、私もそろそろ仕事に取り掛かりたいので」
そう言われて入口の方を見ると、四十代くらいの女性が不安げな表情で俺たちの様子を窺っていた。紺色の地味なスーツを着たその女性は、俺と目が合うと慌てて会釈した。
「すみません。あの、声をかけようと思ったんですが……」
恐縮する女性に田上は、「構いませんよ。ちょうど、お帰りになるところですから」そう言ってソファから立ち上がった。
「我々はこれで失礼します。――ですが、あなたの好きにはさせませんから。もしまた不具合が起きたとしても、必ずあなたの許に我々は辿り着いてみせます」
田村が言った。
田上は唇に指を当て、意外そうに田村を見つめる。そして唇に当てていた人指し指を返して田村に向け、「その自信はどこからくるのでしょうか？ あなたのようなタイプが、そんなことを言うとは珍しいですね」と興味深そうに尋ねた。
田村は答えない。ただ静かに田上を見据えている。
「それだけ、あなたの行為が赦しがたいものだということです」
俺が口を挟むと、「そういう意味で言った訳ではないんですがね。まぁ、いいでしょう。それもなかなか面白い。次にまたあなた方と会うのを楽しみにしておきましょう」
「田上さん！」
語気を荒げる俺に、田上は愉快そうに微笑んだ。
「君は私の友人によく似ている。彼よりは随分と繊細のようだけれど。このまま今の仕事を続けるというのなら、君はそれを自覚した方がいい。でないと、いつか壊れてしまうよ」
「――失礼します」
俺は田上の言葉を無視して入口に向かうと、恐縮したままの事務員に軽く会釈をして事務所を出た。
もどかしさから叫びそうになるのを堪え、車へと急ぐ。目的は果たせたはずなのに、この後味の悪さはなんだ。
車に乗り込んでからも何も話す気になれず、俺は車窓を流れる景色を見るとはなしに眺めていた。いつしか車は瑞穂区の住宅街に入り、道路沿いに植えられた桜はどれも今が盛りと咲き誇っている。
その中の一本の桜の木の下に小さな女の子を肩車している男性の姿があった。薄ピンク色の桜の花に触れようと手を伸ばす少女。それを微笑ましく見ている母親らしき女性。幸せそうな家族の姿に、自然と笑みが浮かんだ。
