episode56
俺は口許を押さえたまま、じっと目を閉じている美和に「どうして自首しなかったのですか?」と尋ねた。
美和は静かに目を開けると、「私、警察に行く準備をする為に寝室に向かったんです。おかしくなっていたんでしょうね。通報もしないで着替えを鞄につめていたんですから。荷物を持ってリビングに戻ろうとした時、下から透くんの声が聞こえたんです」と遠くを見ながら答えた。
「ですが、彼は家に入る時にインターホンを鳴らしていますよ」
「そ、うなんですか? 気づきませんでした。……やはり、おかしくなっていたんでしょう。私は、透くんが警察を呼びに行ったのだろうと美奈の隣に座ってぼんやりと待っていました。どれくらいそうしていたのか、どんなに待っても警察はきませんでした」
俺は言いかけた言葉を呑み込む。パトカーの赤色灯も事故処理の山口と警官の声も、当時の美和には届いてはいなかったのだろう。
虚ろな目をした美和は、「どうして、私たちだけがこんな目に遭わなくてはいけないんでしょう」そう言って天を仰いだ。
「――私は家を出る前にカーテンに火を点けました。私たちが入れ替わっていたことを知られる訳にはいかなかった。賞賛されるべきは……美奈ですから。そして、あなたが先ほど言ったように美奈の持っていた携帯でお祖母様に連絡を入れました。美奈を殺した、と。田上さんに知られたくなければ迎えにきて欲しい、と。お祖母様はすぐに私を迎えにきました」
「美和っ!」
「私が電話をした時、『生きていたの』とお祖母様は冷たく言い放ちました。お祖母様の中でも美和は殺されていたんです。――この十年、お祖母様を見てきて私気づいたんです。お祖母様は家族を愛してはいませんでした。私たちはもちろんのこと、私の父のことも、お祖父様のことも。愛していたのは……」
「やめなさいっ!」
馨が声を荒げて叫んだ。
そうだったのか。若林に視線を送ると彼は軽く頷いた。気づいていたようだ。
若林は鬼の形相で美和を睨みつける馨に、「失礼、事件の話に戻らせていただきます」と断りを入れ、「あなたは、自身が医者にかかっていなかったことも計算に入れていたのですか?」と美和に尋ねた。
美和は首を傾げる。
「どういう、意味でしょう?」
「遺体は事故の手術痕から美奈さんだと断定されました。もしあなたが医者、もしくは歯医者にかかっていれば、カルテから二人の入れ替わりが発覚したことでしょう。しかし、どうやらあなたはご存じなかったようですね」
「あの家には私しか、〈佐伯美奈〉しか住んではいなかったのだから、遺体は美奈だと断定されるのではないのですか?」
「そうとも限りません。今回は、頭に裂傷があったので司法解剖を行いました。そこで遺体が本人かどうかの確認もします。それに異常死の場合、名古屋市では監察医制度によって行政解剖を行うことになっています。もちろん、その場合も本人確認を行います」若林はそう説明すると、「あなたはPTSDという言葉をご存じですか?」
「……いえ、なんですか?」
「正式には、心的外傷後ストレス障害と言います。突然の衝撃的出来事を経験することによって生じる精神障害です。あなたがこの十年、病院を避けていた理由と関係あるかもしれません」
「そのPTSDかどうか私には判りませんが、病院に行くと色々思い出してしまうんです。両親との最後のお別れをしましたし、美奈も、体中包帯だらけで。私のせいで……」
辛そうに顔を歪め、美和は口許を手で押さえた。
「辛い記憶を思い出させてしまいました」
「いえ」美和はゆっくりと首を振り、馨に視線を向ける。「お祖母様は、私をこの家にずっと閉じ込めておくつもりでした。私もそのつもりでここに来ました。それに、私がいる限り、お祖母様は田上と一緒にはなれない。私もお祖母様もこの牢獄で孤独のまま死を迎える。それが美奈への償いになると思ったんです……けれど、私は、もう終わらせたかった。美奈のところへ、行きたかった。もう疲れたんです。何もかも。そんな時、ある人から背中を押してもらったんです。前に助言をいただいた時はひどく傷つきましたが、今回のあの方の助言で私は救われました。――私は私のために、すべてを終わらせることを決心しました。お祖母様を殺して自分も死のうと。……透くんに邪魔されてしまったけれど」
涙で頬を濡らした水島に、美和は静かに笑いかけた。
「救われた?」
俺は思わず声を上げた。そんな俺に美和は、「ええ。私の一番欲しかった言葉をあの方は下さいました」と答えた。
「一番、欲しかった言葉……」
俺は言葉を失う。
「迷う必要はないでしょう。あなたが望む世界をその手で築けばいいではないですか」
若林がMichaelのコメントを口にする。




