episode4
辺りは静寂に包まれ、空にはヴェールを纏ったようにぼんやりとした月が浮かんでいた。
名古屋市緑区の東側に位置する新興住宅街、桜花台。
名前の通り、春には住宅街の中央にある公園の桜が満開になり、辺りは桜色に染まる。地元でも有名な花見の名所になっており、春になると多くの人で賑わいをみせる。
その住宅街を少し東に進むと、隣接する東郷町との境界にもなっている巨大な竹林が姿を現す。その竹林の脇にある細い県道に等間隔に置かれた古びた街灯は、その役割を半分も果たしてはいなかった。
薄暗い明かりは道を仄かに照らすのみで今にも夜の闇に取り込まれそうになっている。ぼんやりとした明かりが浮かんでいるその先は、まるで冥府にでも繋がっているのではないかと思わせるような不気味さがあった。
「最高」
うっとりしながら呟くと、道路脇にある一軒の家をライトが照らし出したのが目に入った。竹林に囲まれ、ぽつんと一軒だけ建っている家。
山口は「こんな場所に?」と一瞬訝しんだがすぐに意識は車に戻った。
やっと手に入れた車、BMW3シリーズのカブリオレ。
狂おしいほど完璧で繊細なボディ。初めて見た時から絶対に手に入れてやると心に決めていた。その願いが今日叶ったのだ。征服感に酔いしれながら、手に入れたばかりの愛車の乗り心地を堪能していると、急に目の前に人が飛び出してきた。
「おいっ!」
慌ててブレーキを踏み、素早くステアリングを左に切る。衝撃と共に、ガリガリッという今この世で最も聞きたくない鈍い音が耳に届いた。
「嘘だろっ?!」
山口は慌てて車から飛び出し、辺りを見回すが人影はなかった。祈る気持ちで車体を覗き込むと、頭を抱えてその場にへたり込んだ。
車体側面は見る影もない状態で、擦れた痕にガードレールの白い塗料がこびりついている。バンパーは無残にひしゃげ、ヘッドライトやフォグライトのプラスチック片が粉々になって辺りに散らばっていた。
「くそったれっ!」
数時間前に納車されたばかりの愛車。酔いしれた至福の時は、一瞬にして悪夢へと変わった。
「逃げやがったのか?! ふざけんな、出てこいよ! ばかやろう! ていうか、こんなところにガードレールなんか付けてんじゃねぇよ!」山口は悔しさのあまり大声で叫び、ガードレールを思い切り蹴飛ばした。「畜生! なんなんだよ!」
乱暴にジャケットのポケットから山口は携帯を取り出すと、さっき登録したばかりのBMWのエマージェンシー・サービスに電話を入れる。
こんなことってないよ、神様。嘘だと言ってくれ。
山口は白い息を吐きながら天を仰ぐ。すぐにオペレーターと電話が繋がった。
「えーとですね、事故りました。今日、納車だったんですけど保険って適用されますよね?」
オペレーターの質問に答えながら、山口はライトに一瞬浮かび上がった女の顔を思い出す。
あれは――本当に人間だったのだろうか。
一瞬ライトに浮かび上がったのは、血の気のない、まるで人形のように整った顔立ちをした女だった。
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