episode30
「ああ、それか」
田村が俺にコーヒーカップを差し出しながら書類に目をやった。
「サンキュ。……遣り切れない事件だったな」
「確か、ネット上で熱心にやり取りしていた奴がいたな」
「そう言えば」
随分親切なヤツがいるな、と思った気がする。
「まぁ、頑張れ」
まったく気持ちのこもっていない声で田村が言った。
「言われなくても頑張るっつーの」
感傷に浸っている場合ではなかった。コーヒーを飲み干し、気を引き締めると書類に集中する。
時間が経つにつれ、ひとり、またひとりと部屋から人がいなくなっていく。心細くなりながらも書類を作成する手を休めることはなかった。ぐっすりと眠ってはいるが、隣に田村がいるからなんとかやれているのだろう。
昔から授業後の役員会や講習が苦手だった。周りの友人たちがひとり、またひとりと帰っていく中、自分だけが取り残されていくようで無性に淋しく思ったのを覚えている。未だに終電に乗るのが苦手なのだから、まだ治っていないのだろう。家に独りでいる時は平気なのに終電が苦手だなんて自分でもおかしなものだと思う。
ちらほらと人がいるだけの車両。車窓の外の世界は明かりが灯るたくさんの家々。それを眺めながら、自分たち以外の人間はもう皆家に帰っているのだろうか、そう思った途端に、じわりじわりと胸の辺りから色々な感情がない交ぜになったような何とも言えない感覚が広がっていく。そして堪らなく心細くなるのだ。早く家に帰りたい、と。ガキだな、と自分に呆れ苦笑した。
ようやくすべての書類を終わらせ、時計を確認すると午前五時を指していた。相変わらず田村は机に突っ伏して寝息を立てている。俺は肩を摩りながらコーヒーを淹れに席を立つ。窓の外を見るといつの間にか雨が降っていた。
「気づかなかった」
淹れたてのコーヒーの入ったカップを片手に窓辺へと向かう。濡れた窓ガラスでネオンが滲んで見え、幻想的な夜の世界に見惚れる。
ああ、綺麗だ。
少し肌寒かったが壁に寄りかかり、夜景を眺める。疲れた頭でぼんやりとしながらコーヒーを口に含むと独特の苦みが口の中に広がり、鈍った頭の中が少しずつ動き出す。
――明日の捜査方針はもう決まっただろうか。
俺は思わず苦笑する。どうもロマンチストにはなりきれないようだ。まぁ、いいけれど。
他に美奈に係わり合いを持っていた人間――となると今の俺が知らされている中では馨くらいしか浮かばない。事件当夜は家にいたと証言しており、アリバイはない。だが彼女の虚栄心を満たしていた美奈を殺す理由も見当たらず、捜査本部は始めの段階で彼女を容疑者候補から外していた。
極端に人と係わることを避けていた美奈。初めはただの人嫌いかと思っていたが、弥生や水島の話を聞いているとどうもそうではない感じを受ける。もしかしたら恩師の水谷千代子のように、馨によって誰かが傷つけられることを恐れていたのではないか。
「美奈は幸せだったんだろうか」
水島に言ったという『殺され続けてきた』という彼女の言葉が脳裏に蘇る。生きながらにして生きる権利を奪われることは、死よりも辛いことではないだろうか。
「世間の基準に当て嵌めたら彼女は不幸だったかもしれないな。でもそれを決めるのは彼女自身だ」
振り返ると、田村が気怠るそうに肩を回しているところだった。
「起きたのか」
「ああ」田村は寝ぐせのついた前髪を掻き上げながら、「もう子供じゃないんだ。馨の操り人形として生きるのが嫌なら糸を断ち切ればよかった。そうしなかった彼女にも責任はあるんじゃないか?」
相変わらず突き放す男だ。確かに正論ではあるが、それを実行に移すことの難しさをコイツは解っているのか。――それとも、田村はそうやって切り捨てながらこれまで生きてきたのだろうか。
「そう簡単にはいかないさ。家族なんだから。それに、下手に馨と揉めてみろ。ピアニストとしての人生を失う可能性だってあるかもしれない。ずっと指導をしてくれた水谷千代子への恩義もあるだろうし、彼女のファンだっている。それを考えれば軽率な行動はできないさ」
そうだ。美奈には彼女の音楽を愛するファンがいる。それに彼女は前に進もうとしていたじゃないか。
俺はOMBRAGEで聴いた彼女のピアノを思い出す。あの不協和音の中に、確かに彼女の生きようとする強い意思を感じた。
「馬鹿な。馨が裏で何をしようと彼女のファンや水谷千代子は必ず美奈についたはずだ。馨を恐れる必要はなかった」
「確かに俺もそう思う。だけど美奈は馨に支配されていた。長い間、ずっと。彼女にとって、その一歩を踏み出すには相当な勇気が必要だったはずだ。彼女の周りに、水谷千代子のように馨に進言してくれる味方がいれば踏み出せたかもしれない。でも、実際はいなかった。馨から彼女を守り、彼女の背中を押してくれる人間はいなかったんだ。……水島にはそれができなかった。彼自身、馨の呪縛から抜け出せてはいなかったからな。――けど美奈の気持ちを理解して一緒にいてくれる水島は、彼女にとって大きな存在だったんじゃないかな。それは水島も一緒だったはずだ。二人はお互いの存在に救われていた。もしこんなことになっていなければ、時間はかかったかもしれないが彼女はその一歩を踏み出していたと俺は思う」
その瞬間、藤堂の顔が脳裏に浮かんだ。あの能面のような顔だ。急に黙り込んだ俺に、「どうした?」と田村が声をかけてきた。
「いや」俺は一瞬躊躇し、「あのさ。話変わるんだけど、ちょっといいか? ――藤堂さんのことなんだけど」
田村が怪訝な顔をする。
「何度か偶然見たことがあるんだけどさ、事件が起こると藤堂さん辛そうな表情するんだ。以前に何かあったのか気になってさ。お前、知ってるか?」
「いや」
「……そっか。警部はそれを知ってる気がする。多分、間宮警部も。俺さ、藤堂さんがどうしてあんなハチャメチャな二人とずっと一緒にいるのかよく解らなかったんだよな」
「ひどい言い草だな」
田村が苦笑する。
「だってあの二人だぞ? 一人でも大変だと思うのに。――最初は面倒見のいい人だから、きっと二人を放っておけなかったんだろうって思ってたんだ。でもさ、藤堂さんって未だに巡査部長だろ? 本人は楽だからって言ってたけど、優秀で人望もあるあの人が昇任試験を受けないのを周りが何も言わなかった訳ないよな。それでも試験を受けないのは、他に何か理由があるんじゃないかと思ってさ」
藤堂が二人を支えるように二人も藤堂を支えているのかもしれない。美奈と水島のように。
「だとすると警察に入る前かその直後に何かあったのかもしれないな。けどそれは警部たちに任せた方がいいことなんじゃないか?」
「う、ん。そうなんだよな。何も知らない俺が余計な口出ししない方がいいのは解ってる。でも気になってさ。すごく世話になってるし。それにあの警部たちに任せて大丈夫かな、ってちょっと心配だったからさ」
田村が、ふっと笑う。
「なんだよ」
「別に」
「……そりゃあ、まがりなりにも三十年以上三人は一緒にいるんだから、俺なんかがどうこう言える立場じゃないけどさ」
「解ってるじゃないか」
田村が涼しげな顔で言う。
憎たらしい。今なら猪又と同盟が組めそうだ。俺は息をつき、壁に頭を預ける。藤堂のことを一番理解しているのはあの二人だ。篠原たちなりのやり方があるのだろう。……多分。それに一課に配属されたばかりのペーペーの俺が偉そうに何を言ってるんだか。
俺は既に冷めてしまっていたコーヒーを飲み干した。
「悪かったな、話逸らしちまって。それで、お前は何を考え込んでたんだ?」
「何のことだ?」
「緑署に戻る車の中で考え込んでただろ? 店でも考え込んでて終電逃したって言ってたじゃないか」
「逃した訳じゃないさ。もともと本部に寄るつもりだったんだ」
「あっそ。で、何を考えてたんだ?」
田村はしつこい俺を一瞥し、「別に」と素っ気なく答えた。
「お前の『別に』は『ええ、実は気になることがあります』だろーが。何回言わすんだよ」
田村が呆れた顔をする。
「当たってるだろ?」
「ふん」田村は鼻を鳴らす。「馨について考えてただけさ。美和でも水島でもないとすれば、馨しかいなくなる。あの性格だから敵も多かっただろう。今の状況なら彼女に恨みを持った人間の犯行だと考えるのが妥当だろう。なにしろ、馨にとって美奈はステータスシンボルだったんだから」
「ああ。若さんもそう考えてる口ぶりだった。明日っていうか、もう今日か。馨の周辺を徹底的に調べることになるだろうな」
「そうだな」
「……馨も犯人も、美奈をなんだと思ってるんだ」
堪りかねた感情が込み上げ、思わず涙が溢れる。慌てて目許を手で隠し、田村に背を向ける。泣いてどうする。手の甲で涙を拭っていると田村が背中越しに言った。
「悔しいのはお前だけじゃないさ」
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