episode17
「猪又さん、おはようさん」
玄関を箒で掃く手を止め、菩薩のような穏やかな表情で挨拶をしてきた女性に猪又も、「おはようございます、宮川さん」と挨拶を返した。
「今日も冷えるから、風邪ひかんようにね」
笑うと目許や口許に深い皺がいくつもできる。それなのに笑顔はまるで童女のようにあどけなくて愛らしい。
彼女は、ある殺人事件の容疑者である加賀幸人の祖母、宮川キミ。ここは彼女の住む東区徳川町の住宅街。
三日前の二月二十日午後十時頃、中区栄にある証券会社の警備室から「男が倒れている」との通報が入ったのが事の始まりだった。
直ちに機動捜査隊と所轄署である中警察署の捜査員が駆けつけると、男は既に死亡していた。死因は、腹部を刺されたことによる失血死。身分証から男の名前は寺田正行。四十四歳。芙蓉証券株式会社名古屋支店の営業部長であることが判明した。
現場には争った形跡があり、遺体の傍に血の付着した包丁が落ちていた。足許に転がっていた寺田のカバンから、〈加賀幸人〉とワープロ打ちされた署名の入った遺書と包丁を購入した際のレシートが見つかった。
その遺書には、芙蓉証券の営業課長である加賀が複数の個人投資家から多額の資金を集めていた詳細が書かれていた。そして主犯の建設コンサルタント会社の社長である大池敏和が資金を持ち逃げした為、このまま捕まるくらいなら死を選ぶことにすると締めくくられていた。
中警察署から連絡を受けた県警本部は、捜査一課強行犯捜査係の金森班と捜査二課を出動させ、中警察署に捜査本部が設置された。
自宅から押収した寺田のパソコンから遺書を打ち込んだ文書が見つかり、ホームセンターの監視カメラの画像に包丁を購入する寺田の姿が映っていた。購入した包丁と凶器が同一の物であることと加賀本人が事件翌日から会社に出社しておらず行方を晦ませていたことから、捜査本部は寺田が加賀を自殺に見せかけて殺そうとして逆に殺害されてしまったと判断した。
寺田の遺書に主犯格として名指しされていた大池という人物は、中区錦に建設コンサルタント会社を構えており、今月の三日頃から行方不明になっていた。東区白壁の自宅マンションから大きなスーツケースを持って出てきた大池の姿をマンションの住人が見ており、調べた結果、大池が出国していることが判明した。
捜査本部は現在、国際刑事警察機構を通じた国際手配を検討している。
これまでの捜査状況から、一課の金森警部と猪又の上司である二課の二階堂警部らデスク陣は、多額詐欺事件の主犯格は大池と寺田で、加賀は二人の手駒に過ぎなかったのではないかと見ていた。
「ありがとうございます。宮川さんも風邪引かないように気をつけて」
「今の時期は、ほとんど家から出んもんで大丈夫だわ」キミは顔を綻ばせ、「ほんと、猪又さんは孫によう似とるわ」
いきなり加賀が話題にのぼり猪又はハッとしたが、正面切って加賀のことを訊くことができて好都合だと思い、「お孫さんにですか?」と訊き返した。
キミは破顔一笑して頷く。
「学校に行っとった時は一緒に住んどったけど、今は仕事が忙しいから少し離れたところに住んどるんだわ」
「そうなんですか。でも近くにいるのならすぐに会えますね。よく家には遊びに来るんですか?」
「最近は忙しいのかほとんど来やせんの。体壊さんか心配なんだわ」
キミは大きな溜め息を漏らしたちょうどその時、「おばあちゃん、おはようございます」と学校に向かう小学生たちがキミに向かって元気よく挨拶をして横切っていった。近くに小学校があり、この道は通学路になっているのだ。
「おはようさん、車に気ぃつけやぁよ」
キミは優しく微笑みながら子供たちに声をかけた。子供たちは元気に返事をしてキャッキャッ言い合いながら歩いていく。朝の日課なのだそうだ。
無邪気に笑う子供たちに和みながら、その子供たちを見送るキミの慈愛に満ちた眼差しに、猪又は焦がれるような思いが胸に込み上げてきた。
眩しそうに目を細め、キミを見つめる。脳裏には一人の女性の顔が浮かんでいた。――その人はキミによく似た柔らかな眼差しを持っていた。
「じゃあ、自分も行きます」
猪又はキミに軽く頭を下げると歩き出した。
「気ぃつけて、いってらっしゃい」
キミの優しい声を背中で受け止めながら、猪又はなんともいえない複雑な気持ちになる。
まだキミは自分の孫が殺人の嫌疑がかけられ、しかも行方不明になっていることを知らない。加賀の母親でキミの娘である加賀恵美子から、心臓病を患うキミを刺激しないで欲しいと頼まれていたからだ。
加賀の両親は長崎に住んでいる。名古屋で独り暮らしをしているキミが心配だった加賀は、一も二もなく名古屋の大学への進学を決めたらしい。
捜査本部は加賀が長崎に向かったことも考慮し、数人の捜査員を長崎に派遣した。そしてキミの家の張り込みにつくことになった猪又たちは、これまで以上に細心の注意を払うよう言われていた。それなのに――
「張り込み中に対象者に声をかけられるなんて最悪だな。刑事に向いてないんじゃないか?」
コンビを組んでいる夏目にさんざん嫌味を言われた。それについては自分でも情けないと思っている。
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