episode16
事件発生から既に九日が経過していた。
俺たちは連日、市内のホテルやネットカフェなど美和が潜伏していそうな場所を捜索してきたが、未だ彼女の発見には至っていなかった。
画像解析班も回収した監視カメラの画像から美和の姿を血眼になって探しているが、俺たち同様成果は出ていない。部屋には山積みにされたビデオと精根尽きた捜査員たちの屍がいくつも転がり、お手上げ状態のまま今日も一日が終わろうとしていた。
さすがに疲労がピークに達している。
「田村、息抜きしに行かないか?」
「行こう」
OMBRAGE――俺たちの休息の場だ。
店のドアを開けると、ジョン・コルトレーンのマイ・フェイヴァリット・シングスが疲れた俺たちの体を包み込んだ。その瞬間、ほうっと肩の力が抜ける。
「マスター、久し振り」
俺はマスターに声をかけていつものカウンター席に座る。その隣に田村が座った。マスターは穏やかな笑顔で俺たちを迎え、酒の準備を始める。
「トレーンか」
俺の呟きに答えるようにマスターは微笑み、俺たちの前にジントニックと烏龍ハイを置いた。
ジョン・コルトレーンもまた、ビル・エヴァンスと同じく繊細な感覚の持ち主だった。常に自分に厳しく、綿密な演奏をする彼は、繊細過ぎた故に次第に精神的なものに傾倒していく。
後年の彼の作品は感覚的で難解なものになり、聴く側にもそれなりの覚悟がいるものが多かった。
俺は、彼が好んでよくライブで演奏をしていたこの曲に耳を傾けながら、最期の瞬間まで真摯に音楽に向き合い続けた彼のサックスの音にしばし酔いしれた。
「美和は――今どこにいるんだろうな」
目を閉じ、グラスを傾けながら呟いた。
「さぁな」
「既に県外に逃げたんだろうか?」
田村の方に顔を向けると、彼も同じように目を閉じ、切れ目なくコードトーンをちりばめるシーツ・オブ・サウンドに耳を傾けていた。
「協力者がいない限りそれは無理だろ」
田村はあっさりと返す。
「馨、はないよな。彼女にとって美和は〈いてもいなくてもいい存在〉って感じだしな」
真面目で優秀だった美奈。自由奔放に生きていた美和。馨にとって、美奈さえいれば彼女の虚栄心は満たされた。だから馨の中には〈美和〉という存在自体がなかったように思える。その証拠に、美和がいなくなった時も馨は彼女を捜しもしなかったそうだ。
「結局さ、美和は美奈に馨を押しつけたんだよな。なんとも思わなかったのかな。二人きりの姉妹なのに」
「さぁな」
「美和自身、解ってなかったのかな」
思えば学生の頃の俺は物事をあまり深く考えてはいなかった。毎日のように友人と騒いでは好き勝手なことばかりして過ごしていた。それが当たり前であるかのように。美和もそうだったのではないか。
「無為に日々を過ごすことほど愚かなことはないな」
田村がすげなく言う。学生時代の自分のことを言われているようで耳が痛い。
「……いや、でもさ、無為に日々を過ごしていても吸収していることってたくさんあると思うぞ」
美和というより、昔の自分を擁護するように俺は言った。
今振り返れば、馬鹿なことばかりしていた自分に呆れることも多々ある。けれど、その当時感じたことや影響を受けたもののことは今でも鮮明に覚えているし、それが自分の糧にもなっている。学生時代の日々が、かけがえのないものとして俺の中に残っているのも事実だった。
荘子も言っているではないか。
――無為とは何もしないで黙っていることではない。万事を自然のままにまかせ、その本性を満たすことである、と。
「現実を直視していない彼女に何が吸収できる?」田村は突き放すような口調で言った。「無知は罪だ」
「お前は相変わらず厳しいな。俺、その言葉好きじゃないんだよね。上から目線な感じが。誰だって初めから知識があるわけじゃない。知らないのなら教えてやればいいじゃないか。それを『知らなかったではすまされない』なんていう奴は傲慢じゃないか? すべてを知りつくしている人間なんていやしないさ。自分は無知ではない、と言う人間の方がよっぽど無知じゃないか」
田村が頬杖をつきながら俺を眺めている。
「ん、あれ? あ、悪い。お前のことを言ってる訳じゃないぞ」
「言ってるじゃないか」
「あー、そんなつもりはなかったんだ。悪い」
「いいさ、お前らしい」
田村は気分を害した様子もなくグラスを手に取り、口に運んだ。
「馨に虐げられていた美和も苦しんでいたのかもな。だからこそ馨の許から逃げ出したんだろうし。そんな彼女に、美奈の苦しみに何故気づかなかったのか、なんて軽々しく俺たちが言う権利はないよな。――なんかお前と話しながら美和のことを考えていたら彼女の置かれていた状況が少しだけ見えた気がする」俺はネクタイを緩め、「みんな自分のことで一杯一杯だ。今の世の中、特に。それに人の気持ちなんて簡単には解らないよな。……美奈と美和は、あまり言葉を交わしてなかったのかもしれない。小さい頃の双子を知る関係者の話では、二人はどんな時でもいつも一緒にいたそうだけど」
「二人の間に距離ができていたのかもな」
田村はグラスを傾ける。
「馨が原因か?」
「さぁな。それは二人にしか判らないさ」
「言葉なしで他人と解り合うことなんてできないよな。その為に〈言葉〉はあるんだしさ。……俺が一課に来た時のお前は本当にひどかった。『まぁな』『さぁな』あと、『別に』。なんだよ、この田村語録。すべて三文字ですませやがって」
「慣れろ」
「ほら、また。俺も努力したさ。お前の『別に』は『ええ、実は気になることがあるんです』だろ。それに」
「勝手に意訳するな」
「大体、当たってるぞ」
田村は肩を竦める。勝手に言ってろ、と言いたげだ。
「最近は少しましになってきたけどな」
意地悪くそう言うと田村が鼻を鳴らし、「むしろ、その〈言葉〉が人間関係の歪みの原因な気がするけどな」と面倒臭そうに言った。
「確かに言葉は誤解されやすい。けど、他人と解り合うのに言葉以外に何がある? 目と目で通じ合うとか言うなよ。キモイから」
「言うか、アホ。言葉を使うなとは言ってないさ。言葉は諸刃の剣だと言ってるんだ。使い方次第で人を殺すことだってできる」
田村は淡々とした口調で恐ろしいことを口にする。
「怖いこと言うなよ。そりゃあ、言葉で簡単に人は傷つくけど……そんなこと言ったら怖くて人と話せなくなるじゃねぇか。――あ、もしかしてお前が寡黙なのもソレか? いや、俺にはズケズケと言ってるもんな。あとアホ言うな、ドアホ」
「言ってることが矛盾してるぞ」
「お前はいいんだよ」田村を横目で睨み、俺はグラスを手に取る。「結局、言葉を使う人間次第ってことか。自信ねぇなぁ」
「口悪いもんな」
田村がニヤリと笑う。
「お前が言うな」
口を尖らせ、田村を睨みつける。お前なんて性格もひねくれてるじゃないか。
溜め息をつき、手許のグラスの中をぼんやりと見つめる。酔っているせいか、ジントニックがキラキラと光っているように見えた。
「傷つけないように、傷つかないように、言葉を選んでいるうちに何も言えなくなって結局口を噤んじまうんだよな。だから腫れ物に触るような付き合いしかできなくなる。自分がされたら嫌なことは人にするなってよく言うけどさ、人によって受け止め方が違うから自分は良くても人によってはひどく傷つくことだってあるんだよな。臆病にもなるわな。確かにお前の言う通り、言葉は諸刃の剣だと思う。――それなら、傷つき合いながら解り合っていけばいいんじゃないか? 傷ついたのなら言えばいい。傷つけたのなら謝ればいい。言い方悪いかもしれないが、どうせ傷つくのなら逃げずに解り合うまで傷つけ合えばいい。それを乗り越えれば、強い絆が生まれると俺は思うけどな」
田村は目を閉じ、ジョン・コルトレーンのホワッツ・ニュウに耳を傾けている。
ジョン・コルトレーンといえばバラードと言われるほど、このアルバムは世界中で多くのジャズファンに愛聴されている。マスターがこよなく愛しているアルバムのうちのひとつである。
田村を見習い、俺も目を閉じて彼のテナー・サックス・ソロに耳を傾けることにした。
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