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囁く者  作者: haruka
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episode9

 若林は篠原たちに視線を移すと二人は水島の手許をじっと見ていた。もうこの時点になると彼らも水島の奇妙な手の動きに気づいていた。

「その後、あなたはどうされましたか?」

 篠原は水島の手の動きには触れずに質問を続ける。

「気がついたら……家の布団の中で震えていました。どうしていいのか判らなくて、ただ信じたくなくて、夢であって欲しい、これは夢なんだ、と必死に思い込もうとして……」

 水島は苦しげに顔を歪め、組んだ手を額に押し当てた。

「普通は誰だって驚くものです。誰もあなたを責めはしません」

 篠原の言葉に水島は髪を振り乱しながら首を振る。

「……怖かったんです」水島は震える声で呟いた。「倒れている姉が母と重なって。……母は、くも膜下出血で倒れてそのまま亡くなりました。学校から帰ってきた僕が発見しました。その光景が、また……。今度は姉が。怖かった。また独りに、なるのが……。あの時、僕は現実から逃げようとしたんです」

 彼の悲痛な声が室内に響き渡る。篠原たちは水島に自由に語らせる為か、無言のまま彼の話に耳を傾けていた。水島は声をつまらせながら、亡くなった美奈に対して何度も謝罪の言葉を繰り返した。

「……本当は何度も警察に連絡をしようと。でも、受話器を手に取るたびに」

 口ごもる水島に、「どうしました?」と篠原が尋ねた。

「……あの人の、顔が浮かんで」

「あの人?」

「……佐伯、馨さんです」

 目を伏せたまま水島が答えた。

 篠原は少し考えるように顎を摩りながら、「あなたから見て佐伯馨さんはどんな人ですか?」と尋ねた。

 水島は少し戸惑いの色を見せた。そしてしばらく迷った後、決心したように口を開いた。

「――怖い、人です。僕は小さい頃からあの人が怖かった。声を聞いただけで震え上がるほどでした。母にいつも酷いことを言って……そのたびに母は泣いていました。僕にもあの人は容赦(ようしゃ)なかった。あの人にとっては、僕たちの存在自体が許せなかったようです。だから僕たちは、あの人と係わらないように隠れるように生きてきました」

「なるほど。佐伯馨さんと係わることをあなたは恐れたんですね」

「……最低です。僕は自分のことしか考えていない」悔しげに唇を歪めた水島は、すぐに真顔に戻ると真剣な眼差しで篠原を見据えた。「刑事さん。――姉を見殺しにした僕は、どんな罪になりますか?」

 次の瞬間、水島の指が左手の皮膚を傷つけ、そこから小さな血の玉が浮き出た。それでも彼は左手を擦り続ける。

 若林は血で赤く染まった水島の左手を見つめる。

 水島にとって昨夜は途方もなく長く辛い夜だっただろう。彼の証言が事実ならば――。

 篠原を見ると、水島の真意を測りかねているようだった。しばらく黙って考えていた彼はおもむろに口を開いた。

「佐伯美奈さんは即死でした。あなたが見たのは――彼女の遺体です」

 手の動きが止まった。水島は目を見張り、顔を強張らせる。そして、本当なのか、と笹島の方に顔を向け、彼が肯定するように頷くと「そ、んな」と声を漏らした。

 水島の大きな瞳から零れ出た涙が、陶器のような肌を滑り落ちた。

「失礼します」先ほどの女性警官が再び部屋に入ってきた。「あの、佐伯さんのご家族の方がお見えになりました」

 彼女のうしろから、すっと背筋の伸びた和服の女性と英国紳士風の男性が部屋に入ってきた。

 これが、佐伯馨か――。

 顔に出してはいないが、若林は馨の容姿に内心驚いていた。

 報告では、馨は今年六十五歳のはずだ。それなのに、目の前に現れたのはどう見ても四十代前半の女性にしか見えない。けれど、ただ若く見えるだけではない。艶やかな黒髪を結い上げ、眼力のある鋭い瞳に鼻筋の通った威厳のある顔立ち。そして貫録あるその佇まいは、迷いのない意志の強さを表しているようにみえた。

「美奈の祖母の佐伯馨と申します。彼は顧問弁護士の田上です」

 馨の凛とした声が部屋に響き渡った。隣の田上は無言で一礼する。

 弁護士か。なるほど、聡明そうな顔立ちをしている。馨と同年くらいだろうか。仕立てのいいスーツを着ているが、それを上手く着こなすセンスも備えている。正真正銘の紳士か。

 若林は、ざっと馨と田上の観察を終えると水島に視線を移した。そして眉間に皺を寄せ、目を細める。その先には、怯えるように小さくなって顔を伏せている水島がいた。血まみれになった右手の親指が左手親指のつけ根を執拗(しつよう)なまでに痛めつけている。

 部屋を軽く見渡した馨の視線が長椅子に座っている水島を(とら)え、彼女は眉を(ひそ)めた。

「何故、お前がここにいるのですか?」

 馨の厳しい声が水島に向けられた。その声に水島の体がびくりと反応し、右手の親指の爪がつけ根部分に食い込んだ。

「あの……」

「彼が第一発見者なんです」

 萎縮(いしゅく)している水島の代わりに篠原が答えた。すると馨は眉を吊り上げ、水島に歩み寄ると彼の頬を強く打った。いきなりのことに若林も篠原も止めることができなかった。

「お前が美奈を殺したのね」

「ちがっ」

 水島は慌てて長椅子から立ち上がる。

「刑事さん、彼を逮捕して下さい。彼が美奈を殺したんです。母親に似て意地汚い人間ね。お前に遺産なんてびた一文払うつもりはありませんからね」

 馨は汚いものにでも触れたかのように、彼の頬を打った手をハンカチで(ぬぐ)った。

「僕は殺してなんて……」

 親指つけ根に爪を食い込ませたまま胸の前できつく手を組み、水島は声を絞り出した。そんな水島に馨は冷ややかな視線を送る。さすがにまずいと思い、若林が止めに入ろうとすると篠原が二人の間に割って入った。

「佐伯さん、お話はあちらで伺います」

 篠原は馨と田上を別室へと案内した。

「僕は……」

 取り残された水島は放心したように立ち尽くしていた。若林が水島に近づいていくと彼はゆっくりと顔を上げて若林を見つめた。

「大丈夫?」

 彼はこくりと頷いた。

「佐伯美奈さんとのこと、話してもらえますか?」

 水島は涙を手の甲で(ぬぐ)うと小さく(うなず)いた。

「――姉との交流が始まったのは四年前です。母の葬儀が終わった次の日に姉が家に訪ねてきました。さっきも話した通り、僕たちは佐伯家とは係わらないように生きてきました。だから……最初は迷ったんです」

 長椅子に浅く腰かけた水島は膝の上で硬く握られた拳を見つめていた。左手の傷には絆創膏が貼られている。若林が渡したものだ。

「でも君は美奈さんと交流を始めた。何故ですか?」

「姉の顔を見て……」

「顔?」

「表情のない姉の顔が母に似ていたんです。……あの人に酷いことを言われたあとの母の顔に」水島は(うつ)ろな目で答える。「姉も僕たちと同じ目に遭っているんじゃないかと思ったんです。それに姉は泣いてくれました。母の為に。独りになった僕の為に。……母は身寄りがなく、僕たちは目立たないように暮らしてきたので母の為に泣いてくれる人はいませんでした。だから、嬉しかった」

 水島も美奈もお互い、近くに住んでいることは知っていたらしい。二人はこの日初めて顔を合わせ、言葉を交わした。そして水島は美奈から話を聞くにつれ、彼女の置かれた状況に愕然(がくぜん)としたそうだ。

「姉に自由なんてなかった」

 仕事だけでなく美奈の生活すべてを管理していた馨。蜘蛛の糸に(から)めとられた蝶のように、自由を奪われた美奈は馨の思うままに生かされてきた。

 美奈は水島に言ったそうだ。

 ――私はあの人に殺され続けてきました。

「殺され続けた、か」

 若林は唇を指でなぞりながら呟いた。馨と美奈の関係は普通の祖母と孫というものではなかったということか。

 馨にとって美奈は家族というより装飾品だったのかもしれない。そうだとすると先ほど彼女に感じた違和感も頷ける。家族が殺されたというのに随分と落ち着いていて、悲しんでいる様子もみられない馨を奇妙に感じていたのだ。もしかしたら妹の美和の失踪は馨が原因なのではないか。

「あの時、逃げ出さなければ……犯人を捕まえられたかもしれない」

 ふいに水島が呟いた。その言葉に若林は顔を曇らせる。

「僕が逃げたあとに放火したのなら、犯人はまだそこにいたってことですよね?」

「犯人が現場に潜んでいたとは限らない。犯人が逃走後、窓際に置いてあった石油ストーブから偶然カーテンに引火して火災が起こった可能性もあるし、火災を起こさせる為にわざとカーテンの近くに石油ストーブを移動させて逃走した可能性もある。それに、もし犯人が(ひそ)んでいたとしたら逃げて正解だった。君まで一緒に殺されていたかもしれない。――殺人犯を、(あなど)ってはいけない」

「でもっ」

「犯人を捕まえるのは我々警察に任せなさい」

 若林が強い口調で言うと、水島は不満げに(うつむ)いた。

「いいね?」

「……はい」


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