2日目
あーあ、昨日のうちに何とかしておけばよかった、と思ったけどもう遅い。
昨日の帰り、千香子とお茶をしてすっかり晴れた気分は、今日の朝、校門から教室に来るまでにいとも簡単に底まで落っこちた。
だって明らかに、昨日よりこちらを見てひそひそする人が増えている。いや、冷やかすような目でこっちを見てひそひそくらいならまだましだ。
そういうのにまじって、あからさまに値踏みするような目を向けてきたり、嫌悪感を向けてきたりする人がいる。
そして、そのくらいならまだ我慢しようとは思うものの、追い抜き様に悪口を言ってくる人までいるんだから、たまったものではない。
これまで16年とちょっとの人生を、ずうっと地味めで通してきたあたしには、反応の仕方も対処の仕方もわからない事態なのだ。
階段ですれ違い様に、ボソッと「ブース」って言われたときは、あまりの衝撃に立ち止まって相手を振り向いてしまったほどだ。
いや、誰かはわからなかったけど、上から来たってことは、同級生か上級生だと思うよ。
「おはよう……」
「おはよー。沙代、大丈夫?」
教室に入ると、もう来ていた千香子に、ものすごく心配そうな顔をされた。いつもあっけらかんとしてる千香子にこんな顔されるとは、あたしは相当ひどい様子のようだ。
「だめかも。なんなの、これ」
「なんか、噂が他の学年まで広がったみたい」
「はあ、もうあたしがなにしたって言うの」
「とりあえず、戸田くんに文句言ってみる?」
苦笑する千香子に、あたしはもう返事を返す元気もなかった。まあでも、文句を言うまではいかなくても、戸田くんと一度ちゃんと話をしてみるっていうのはありなのかも。色々誤解もあるようだし。
一対一で話せるような状況かはわからないけれど、何にもしないよりはましだよね? ひそひそされたり悪口言われたりして黙っていられるほど、あたしはお人好しでもなければ強くもない。
下手な言い訳は、噂を助長するとか言うけど、これは正当な主張だもん。断じて言い訳ではない。だってあたしは何にも悪くないんだから。
「戸田くんて何組だっけ?」
「知らないの?……5組だよ」
「わかった。講習終わったら行ってみる」
「え、本気? 気を付けなよ?」
「うん」
特に何事もなく講習は終わり、帰りのホームルームの時間になった。今日の講習は午前中までだから、これで解散だ。
あたしは戸田くんが帰ってしまう前に、5組に行って彼をつかまえなくちゃならない。
千香子も一緒に行ってくれると言ったけど、先生に捕まってしまったのであたし一人だ。千香子は今日、井澤くんと帰るって言ってたから、もとから一人で行くつもりだったんだけど。
とは言え、そんなに心臓の強くないあたしには、自分の所属する1組から戸田くんがいるはずの5組まで行くのは、とんでもなく大変だった。
別にね、誰かに妨害されたりはしてないんだ。だけど、朝よりもこっちを見ている人が多いのよ。やっぱりなんかひそひそしてるし、こっち睨んでるし、急に誰かに殴られたりとかしないか不安でしょうがない。被害妄想も甚だしいって言われそうだけど、こんなに嫌な感じの注目を浴びることなんて今までないんだもん、しょうがないじゃない。
「やっと着いた」
5組の前にはもうあまり人がいなかった。そう言えば、5組の担任は面倒くさがりで、ホームルームが異常に速いって誰かが言ってた気がする。
「筒見ちゃん、どうしたの」
「井澤くん」
深呼吸をして、5組の入り口から中を覗こうとしたら、中から出てきた人とぶつかりそうになった。そしてそれは千香子の彼氏の井澤くんだった。
「まさかと思うけど、戸田のこと探してる?」
「うん、そう。もう帰っちゃった?」
「いや、今日は来てない。……一人で来た?」
「そっか。あ、千香子なら、先生に捕まってたから少し遅くなるかも」
キョロキョロしながら聞くから、千香子を探してるんだと思ってそう言ったのに、あたしの腕を掴むとそのままあたしがもと来た方へと歩きだした。ちょうど1組と5組の中間辺りで立ち止まり、こっちを振り返る。
「ちょ、ちょっと井澤くん?」
「筒見ちゃん、自分の置かれてる状況知らないの?」
「一応わかってるよ」
眼鏡の奥から心配げな視線を寄越された。井澤くんは友達も多いし、何より戸田くんと同じクラスだから、きっと事情を知っているんだろう。
「結構、大事になってるんだよ?」
「うん。それは何となくわかる。最近、すごくひそひそされたり、知らない人に睨まれたりするし」
そう言ったあたしに、井澤くんはため息をつくと、厳しい表情でこちらを見てきた。
「それがわかってて来ちゃうんだ」
「だって、一番最初に誤解を解かなきゃならないのは戸田くんだし」
「まあ、筒見ちゃんらしいけど、それはちょっと無謀だね」
「……どうして?」
聞き返すと、井澤くんは困ったように笑う。
「うーん、うちのクラスのやつら、戸田に過保護でさ。本人よりも周りが騒いでるっていうか」
「はあ……」
「筒見ちゃんに文句言ってやろう、みたいなのもいるから、気を付けた方がいいよ」
それを聞いて、思わず唸ってしまった。戸田くんと直接話すのは無理そうってことか。でも、あたしは彼の携帯もメールも知らないから、直接話す以外に事実確認のしようがない。おかげで、正しくない話が広まりまくっているのだ。
「……そういえば、井澤くんは噂のこと聞かないんだね」
「ああ、昨日、チカに聞いたから。また戸田がなんか早とちりしたんだろ」
「またって、戸田くんと仲いいの?」
「チカともだけど、同じ中学だったんだよ。まあ、チカのやつ珍しく本気で心配してたから、ホントに気を付けてな?」
「うん、わかった」
千香子も心配していると聞いて、あたしは素直に返事を返して帰ることにした。
だけど、そのとき井澤くんに戸田くんの連絡先を聞いて、ちゃんと話をしておけばよかったのだ。そしたら、翌日大変な思いをしないですんだのに、それをしなかったあたしは本当に頭が悪いと思う。