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◎鈴子さんの話が終わり、僕はため息をつかずにはいられなかった。話のとんでもなさについて呆れてしまうという思いもあったが、その現実離れした内容については実際にこの右腕が照明してくれる。だからこのため息の成分は別のものが大部分だった。
「まったく、何やってるんだというか…」
真正面にいる鈴子さんの顔を見て、それから要幸さんというらしい女子に目を向ける。要幸さんは外見から僕たちと同じくらいの年齢だと予想する。緊張しているのか変におどおどとしていて、瞳が濁っていることを除けばいかにも人間らしかった。悪魔には思えない。
「いらないことをしてくれたね。」
「そうなの?」
「だって、そんなことをされたら責任を感じてしまうじゃないか。」
実質僕もこの右腕譲渡に関する過程で一枚噛んでいるわけだから、過失くらいの罪はあるわけだ。
「そんなのいいのに。」
「鈴子さんが良くても俺が良くないっていうか、そもそも鈴子さんがそういうことを気にしないっていうのが著しく良くないよね。」
「ハハッ。宗一郎君は真面目だなあ。」
「親からもらった大事な体でしょ?罰があたるよ。」
「んー、そうかもね。」
鈴子さんは何を言っても笑顔のままだった。この人にはきちんと話が通じないらしいと悟り、今度は要幸さんの方に話を振る。
「え―と、要幸さん、でしたよね?」
「…ぅん」
完全に声が沈み切っていた。
「この右腕、鈴子さんに戻すことってできますか?」
「えーやだー。」
「鈴子さんは少し黙ってて。」
平坦な声で鈴子さんをいさめてから要幸さんの解答を待つ。
「……できるよ。」
おずおずといったふうにして要幸さんが言った。回答はイエス。イエス。
「じゃあ、戻してくれますか?」
「あ、でも今はできない。」
どっちだ。
「どうして?」
的を得ない話の流れに少し苛立ちを覚えるものの顔には出さないようにして要幸さんに理由を尋ねる。すると要幸さんは胸の所に手をやって何かを持つような仕草をしてから、今度はそれを僕の目の前に持ってくる
「……宗一郎、にはこれが見える?」
そう言って要幸さんが僕の目の前で見えない何かをゆらゆらと揺らした。
「何かあるんですか?」
「ここには泡でできた華があるんだけど、私はこれが見える人の願い事しか叶えられないの。だから宗一郎に頼まれても鈴子の右腕を元に戻すのは私には無理。」
それから要幸さんは見えない何かを胸に戻した。僕は唖然とした。
「だってさ、宗一郎君。諦めなよ。」
声のした方向にぎこちなく首を動かして鈴子さんを見ると満面の笑みだった。もう一度要幸さんの方を向く。
「それほんとなんですか?」
「それって言うのが華のことを言ってるんだったら本当。」
「要幸さんは鈴子さんとグルってわけじゃないんですよね?」
「私だって鈴子の願い事を叶えるのには反対だったよ。できることなら元に戻したいって思ってる。」
僕の質問に答えた要幸さんは鈴子さんに抗議するかのようにジト目で睨む。鈴子さんはそれを全く気にしていないふうに明後日の方向を向いていた。要幸さんの言っていることは二人が放つ雰囲気から事実であるように感じられる。
スー、ハー
少し冷静になれと自分に言い聞かせて浅い深呼吸をする。そこでまた質問。
「じゃあ、僕にもその華が見えるようになればいいんですよね?」
今度は右腕を元に戻すことをゴールに見据えて段階的に考える。とりあえず、僕が泡の華というものを見えるようにならなくてはいけないそうなので、実に不本意だけどそこから始めるしかない
尋ねられた要幸さんはまた困ったような顔をして僕を見てから首を振った。
「今の宗一郎にはたぶん無理だと思うよ。」
「…なんでですか?」
「泡の華が見える条件についてはさっき鈴子の話にあった通りで、宗一郎は今それを満たしてない。それでこれは私の予想だけど、たぶん宗一郎はこれからもその条件をクリアすることはなかなかできないと思う。」
泡の華が見える条件。それはどうしても叶えたい願望を抱えていること、だったと思う。そして僕はそれを満たしていないらしい。ならば、結論。つまり、そういうことは…あれ?
「あ…」
「宗一郎君は本当は私に右腕を返したいなんて思ってないんじゃないのかな?」
最後に鈴子さんに止めを刺され、僕の願い事は破綻した。溜息とともに思う。そんなバカな。
片腕が無いことに関して、不便だと思ったことはほとんどない。両親がかなり気にかけてくれていた事もあったけど、そもそも僕には生まれた時から片腕しかないのが普通だったのだから。普通のことを不便だと意識することはなかなか難しい。でも、やはり普通の子供と比べるとどうしても自分のスペックが低いことをまざまざと実感させられた。僕は特別支援学校の世話にはならず小学から大学まで普通の学校で生活をしてきた。すると、いつもやることなすこと周りの皆からワンテンポ遅れてしまう。学力的な面ではさほど問題はないが、体育関係はもちろんのこと、技術や音楽の授業に関してもそう、給食等の日常生活でも周囲に遅れを取る。こういう言い方は好まないが、『障害者』である僕はそういう遅れに関しても寛容に受け入れられたが、グループ行動などになるとあまり進んで僕を組み入れてくれるグループは無かったし、僕自身、できればどのグループにも入りたくなかった。仕方のないことかもしれないけど、僕は変な目で注目を集めていた。それは必ずしも悪意あるものではなかったものの、僕としては悪意があろうが無かろうが違いはさほどない。その視線にさらされるのがとにかく苦しかった。得意な色を持つその視線を浴びると僕はふっと消えてしまいたくなる。
片腕が無いことに関して不憫に感じたことは無い。でも、やはり両腕があることに憧れてはいた。ずっと、ずっと憧れていた。だけどそんなことは不可能だと分かっていたから、思いの火をくすぶらせながらここまで来た。時たま、煙が鼻についてしょうがない時もあったけど、それでもなんとかかんとかここまで来た。このまま実直に努力を続けて、大学を卒業したら仕事に就き両親に今までの恩を返したい。その過程で良いパートナーと出会えたりなどしたら万々歳だが、片腕しかない僕にはあまりたくさんのものに手を出すことは叶わない。だから一つ一つ実直に誠実に。それをモットーにしてやってきて大学2年生になり、研究室に入ってさらにその決心を固めたところだった。
だから、今更こんなふうに右腕を得たとしても、僕は困惑するだけだ。鈴子さんから奪うような形で右腕を得たのだとしても、僕は素直に喜ぶことなんかできないし僕が望んでいたもの、憧れていたものはこれじゃない。一刻も早く元に戻してほしい。
もう、僕は僕の左腕だけで十分だった。そのはずなのに、僕は鈴子さんの右腕を返したくないと思っているらしい。そんなバカな、だ。驚きが悔しさに変換されて、最終的には情けなさに転化した。それはこれまで僕にずっと付きまとっていたものと明らかに同種だった。
まったく、結局こんな気持ちにさせられててしまうなんて…。
正面の鈴子さんは能天気に笑っていてひどく憎たらしい。この人は狙ってこんな表情を僕に向けてくるのだろうか?だとしたら相当ひねくれた性格をしている。
もう一度要幸さんの胸元を見てみるけど、やはり僕には何も見えない。
「じゃあ、仕方ないですね。」
諦めるか。
僕の言葉に鈴子さんは喜んで、要幸さんは頼みの綱を断たれたような顔をする。
「そーだよね。やっぱりそれっきゃないよね―。ま、気落とさないで、宗一郎君。」
鈴子さんがテーブル越しに僕の肩を陽気に叩いた。まだ体のアンバランスさに慣れてないのか、それはもたれかかるような叩き方だった。笑いながらバシバシと叩く鈴子さんの顔を僕は睨み気味に見据える。
「僕は鈴子さんの右腕になるよ。」
「は?」
鈴子さんの動きが固まった。
「もし無意識に右腕を返すことを拒否しているのだとしても、僕は鈴子さんから右腕を奪って平気でいられるほど、神経図太くないから。右腕を返せなくてもその分色々と鈴子さんのためになることをするよ。それが僕の最低限の義務だと思う。」
僕のセリフに鈴子さんが一瞬だけ目を細めた気がした。だけど、次の瞬間には普通の表情に戻っていた。
「もう、だからそういうのいいって言ってるじゃん。」
「そういうふうに言っちゃうところが良くないんだって、僕もさっきから言ってるよね。」
それから今度は要幸さんの顔を見る。こちらは意表を突かれたかのようにぼうっとしていた。
「要幸さん。」
「な、なに?」
「いずれ僕は鈴子さんに右腕を返したいと思ってます。もし、僕がその泡の華っていうのが見えるようになった時は、協力してくれませんか?」
「あ、うん!する、協力する!」
「あー、ちょっと要幸ちゃん!勝手なことしないでよー。」
要幸さんの顔がほころび、僕と目を合わせるとにこりと笑った。鈴子さんは不平を口にするが、その時にはすでに僕と要幸さんの間には確かな団結力が生まれていた。もうこの場での優勢はこちら側にある。僕と要幸さんが鈴子さんを同じ種類の視線で突き刺すと、鈴子さんはその両方の視線の先を見止めてから、ふぅと大きく息を吐いて自分の席に座り直した。
「あー、はいはい。もう二人とも真面目なんだからなぁ。ま、別に私はいいよ。それでも。」
片方の腕で降参のジェスチャー。これで一応、僕の勝ちではないものの引き分けくらいには持ち込めただろう。
そう思ったのは、何も分かっていない僕の間違いだったわけで。
「じゃあ、そういうことで。」
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鈴子さんの右腕になるとは言ったものの、それは一体どうすることを言うのだろうか?とにかく僕のできる範囲で鈴子さんに奉仕活動をすることだろう。ただ、鈴子さんとは研究室が同じというだけで、それほど講義がかぶっているわけではなく、正直言って僕が鈴子さんの力になれることなんてのは本当に微々たるものである。はずだった。
「やー、宗一郎君。おはよう!」
「おはよう、宗一郎。」
「……いや、いやいやいやいや。鈴子さん、確かこのコマの時間は別の講義とってたよね?」
「まあね。でもいいじゃん。向こうは期末のテストさえしっかりしてれば大丈夫だし、それに私がどの講義をとってたって私の自由だし。宗一郎君は別に私のこと気にしなくったっていいんだからね。」
よく言う。絶対にそんなこと思っていないだろうに。
「これ1限の講義で朝早いんだから家で眠ってればいいのに。鈴子さんのせいで要幸も早起きするはめになるんだろ。」
「要幸は私についてこなくても良いって言ってるから、これは本人の責任だもんね。」
「どの口がそれを言う。私がいないとまだ着替えるのにさえ手間取るくせに。」
はあ、とため息は僕と要幸の二人分。その間で鈴子さんは二コリというよりはにやにやと笑う。2対1で数の上では若干有利だったとしても、どうやら鈴子さんはそれをものともしないようで、僕と、僕以上に振り回されている要幸の姿がそこにあった。ちなみに要幸に関して呼び捨てになっているのは、本人が互いに呼び捨てで呼び合うことを希望したからである。鈴子さんは要幸のことをちゃんづけで呼ぶが要幸はそれを少し嫌がっているらしい。
「これってなんの講義だっけ?」
「行動科学だよ。」
「ひえー、つまーんなそー。」
「そんなこと言うんだったら出なきゃいいのに。時間の無駄だよ。」
実際、鈴子さんは時間を無駄に費やすために僕と同じ講義を受けているようなもので、講義が行われている時間帯はほとんど何もしていない。ボーっとしてたり寝てたりケータイゲームをしてたり要幸をいじったり僕をいじったりしている。非常に迷惑だったが、僕には鈴子さんに本気で不満を口にする権利など無いのである。
『僕は鈴子さんの右腕になるよ』
今思えばなんて重い約束をしてしまったのか。いや、もちろん決意の重さは確かなのだけど、僕がした約束の結果は思っていたものとはまるで違った方向に向かっていたのだった。
鞄からノートとシャーペンを取り出す。
「宗一郎君。」
「なに?」
「むー、いや、特に何でもないけどさ。…ああ!あれやってよ。両手使って鳩みたいにするやつ。」
「え、何言ってんの、鈴子さん。」
「いいからやってよ―。ねえねえ、ちょっとで良いからさ―。」
「そんな子供みたいに言わないでよ。恥ずかしい人だな。」
鈴子さんがせがんで、せがんで、いつも僕が押し切られる。仕方ないなと言って、右手と左手の親指をからませて残りの指を鳩の羽のように動かした。左右の翼は歪だ。鈴子さんがそれを見て満足そうにうなずく。
「やった、飛び立て宗一郎―。」
鈴子さんは無邪気にはやし立てる。彼女は毎回このようにして僕に無意味な要求を押しつける。そうして幾度も意味のないことをさせられた結果、僕は鈴子さんがそうする意図に察しが付いていた。というよりも、鈴子さんが僕の意図に気が付いたという方が正しい。鈴子さんは僕の意図をくじこうとして、様々な要求をしてくるのである。
ベルが鳴り、講師の先生が入ってくる。鈴子さんは興味なさそうにぼんやりし始め、要幸は静かに先生の話を聞いている。僕もシャーペンを手にとって先生の話のメモをとる。
鈴子さんがおそらく気が付いているであろうこと。それは、僕が全ての物事において極力右腕を使わないようにしているということだ。さっきの様に鈴子さんの指示があった時以外はこの綺麗な右腕は使わないようにと僕は意識している。深層心理では右腕のことを手放したくないと考えているようだが、それでも僕は右腕を使うことを拒絶する。鈴子さんに右腕を返す時が来るまで、拒絶し続けるつもりなのである。