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◎要幸ちゃんに出会ったのはつい3日前。
月曜日、週の始まりの大学が終わって特に予定の無かった私は即刻自宅へ帰ることにした。その帰り道、私は綺麗な華を見つけたのだ。その華は水色か白か薄ピンクかもしくは無色で透明感に目を奪われる。華は泡でできていた。私は華の良さとかよく分からないけどその華はとてもきれいだと思わざるを得なかった。
泡の華はブロック塀から垂直に生えていていかにも私の好奇心をくすぐるかのように絶妙に揺れていた。ゆらゆら、ゆらゆら。ずっと私が動かずにいても、その華は誘うようなアプローチを続けてくる。我慢比べの様に私と泡の華は見つめ合っていた。
30分くらいそうしていた。私の傍を1台の自転車がさっそうと駆け抜けて行くのを片目で見届けてから、私は泡の華に触れてみようという決心を固めることができた。周囲を見渡してみる。誰もいない。どうしてそう言った行動をとったのかは分からないけど、私はどうやら泡の華に触れることに対して背徳的な感情を覚えているみたいだ。ブロック塀に近付く。一歩、二歩。近づけば泡の華はリアルにそこにあるとはっきりと感じられるようになる。手を伸ばして、泡の粒をなぜるように手を触れようと――
「ちょっと待って。」
次の瞬間、限界まで叫び続けた後のようなしゃがれた声とともに横から手首をつかまれていた。そちらを向くと、中学生くらいの女の子。瞳が濁っている。
「触っちゃダメだよ。」
女の子は私の手を下げさせて、泡の華を睨むように見る。いきなり手を掴まれたこととか少し驚いてしまっていたけど、女の子の真剣な雰囲気を感じて私はなすがままにされていた。
女の子は私を放置して、ブロック塀に手をついて華を間近でいろんな角度から見た。目先3センチも無い。そんなに近付いたら逆に見えないだろうに。
女の子は目を薄めて泡の粒をなぜながら華に息を吹きかけた。すると、泡の華が見る見るうちに溶けて行く。5秒もしないうちに消えてしまった。
「あ・・・」
なぜか口惜しい気分にさせられて声が漏れた。女の子が振り返る。女の子の胸には泡の華がさしてある。華は生きているようだった。
「どうしたの?今の華、欲しかったの?」
「え?…んー、どうだったのかな?」
私が首を傾げると、女の子がふわりと笑う。
「ダメだよ、お姉ちゃん。あれは良くないお華だからね。」
「よくないの?」
「うん。あれは人が触っちゃダメなんだから。」
「ふーん。じゃあ、あなたは大丈夫なの?」
「私は人じゃなくて悪魔だから。」
「……ふーん。」
一応曖昧に頷いておくけど、会話はさっぱりだった。
「華には体に有害な成分があるとか?」
「そう。」
「じゃあ、だめだね。」
「そうだね。ねえ、お姉ちゃん。」
女の子が上目づかいで見上げてくる。目大きいな。まるで蛇みたいだ。
「何か困っていることとか無い?」
「困っていること?」
「うん、どうしても叶えたいお願い事みたいなものとか、持ってない?もっていたら話してよ。そしたら…」
『一つ、お願い事をかなえてあげるよ。』
その場で自己紹介も含めてしばらく話をした後で、女の子は当然のように私の家までついて来た。現在うちに一つしかないソファに二人並んで座っている。丸テーブルには私の分と女の子の分のマグカップが置いてある。中身はめったに飲まない紅茶。少しエレガントな方向に背伸びしてみた。
彼女は自称悪魔で名前を要幸というらしい。私の願い事を一つ叶えるために、しばらく私と一緒に生活をすると要幸ちゃんは宣言した。
正直に言うと常識的にあり得ないというのが私の感想なのだけど、どうにも頑なに私に付いてくるのを諦めなかったので放置しておくことにした。これが男だったら即警察だったけど、相手は可愛い女の子である。一人っ子の私は実は昔妹が欲しかったたちだった。それに、友達を家に招くくらいに考えておけば別にどうってことない。
どうして要幸ちゃんは私の願いを聞いてくれるのか?それにはのっぴきならない理由がある、そうだ。
以下、出会った直後の会話の再現である。
『泡の華は普通なら見えないものなんだけど、どうしても叶えたい願望を胸に抱えてる人には時々見えてしまうんだ。』
『願望ねえ。私、そんなもの本当に思いつかないんだけど。』
『それがおかしいんだよね。でも私の言っていることは本当だよ。それでね、華に触るとその人は願い事を一つ叶えてもらえるんだよ。』
『へえ、それって良いことじゃないの?』
『んー、でもね。そういう簡単な話じゃないんだよ。まず、どういうふうに願い事を叶えてもらうのかっていうと、願い事を叶えてくれるのは以前泡の華に触って願いが成就した人なんだ。一度願い事を叶えてもらうとね、ほら、私みたいに泡の華を強制的に持っていなくちゃならなくなるの。次に泡の華に触る人が現れるまでずっとね。そして泡の華に触った人が現れたら、今度は願いを叶える側の立場に回る。泡の華に触るって言うことはね、そういう願いを叶えてもらうことと叶えることの連鎖の中に組み込まれることを言うんだよ。それでここからが重要なんだけど、新たに願い事を叶える立場になった人が無事に願い事を叶えられた場合、その人についていた泡の華はさっきみたいに消えて無くなるの。そして叶えられなかった場合は…』
『場合は?』
『その人が泡の華になっちゃうんだ。』
『………うーん。』
『はは、やっぱりすぐには信じられないよね?』
『ごめんね、私ファンタジーには寛容じゃなくて…』
『いいよ。それが普通だと思うから。』
『でもじゃあさっきのはどういうことなの?さっきはあなたが何かしただけであの華は消えたよね?』
『ああ、あれは私が華を消すことができる分の願い事を既に叶えていたからなの。私みたいに願いを叶えてあげたことについてスペックがある人が華に触るとさっきみたいに泡の華は消えちゃうんだ。まあ、普通の人には泡の華は見えないし触れもしないから、偶然に泡の華が消えてしまうことなんてないんだけどね。泡の華が見える人でも、願い事を抱えている人は泡の華を消すことはできなくて、さっき言った連鎖の中に組み込まれちゃう。だから、華を消すことができるのは願い事を叶える立場に回っている人に限られるわけだね』
『んー、なんかすごい話だね。』
『そうだろうね。まあ、今覚えておいてほしいのは泡の華が危ないってことくらいだから、そこだけ抑えてくれてれば何でもいいんだ。でね、話を進めるけど、今お姉ちゃんは泡の華が見えちゃうっていう危険な状況なの。華が見えるなら触ることもできる。エマージェンシーなんだよ。そしてそれはお姉ちゃんが持っている願い事を叶えることができたら回避できる。だから私はお姉ちゃんの願い事を叶えてあげるって言ってるの。』
『はぁ、ありがとう。なんか大変だね。』
『そうでもないよ。って言うことで、私これから24時間お姉ちゃんにつきっきりだから、よろしくね?』
『……いやいやいや、いきなりそんなこと言われても。だいたい私あなたの名前すら知らないのに…』
『私の名前?要幸だよ。名字は無くて名前だけ。それで、さっきも言ったけど悪魔なの。』
回想を終了する。
なんだかとんでもファンタジーの世界で、免疫力の少ない私にはなかなかにハードな実情だけど、ここまでは個人的にはかなり柔軟な対応ができたのではないかと自負している。今、自分を褒めてあげたい。
「要幸ちゃん。悪魔ってお腹減るの?」
「お腹は減るけど、かなり食べなくても死なないから大丈夫だよ。4ヶ月くらいは平気。」
悪魔もご飯食べなきゃダメなんだ。4か月…。
「晩御飯作ろうか?」
「いや、平気だって。」
「……ううん、作るよ。作るから食べて。」
それからは少し精を出して夕飯作りに励み家庭的な一面を主張して、一緒にご飯食べて一緒にお風呂に入り一緒のベッドでかたまって眠った。その全ての過程で私は可愛い要幸ちゃんに舐めまわすようなスキンシップを施した。当人は全く嫌がる素振りを見せなかったのでまあ、いいよね。要幸ちゃんはすごく柔らかくて最高だった。
そして翌日。大学の講義に向かう前の朝食のテーブルにて。
「大学にも付いてくるの?」
「まあ、そうなるね。鈴子がいつ願い事に遭遇するか分からないし。」
「でも、要幸ちゃん小さいし、大学に来るのは色々と問題ありそうな…」
「大丈夫だよ。心配しないで。」
トーストをもくもく食べながら要幸ちゃんが眠たげに会話する。どうやら朝、寝起きに弱いらしい。
「不自然じゃないようにしておくから。」
「そう?」
釈然としないけど、要幸ちゃんは悪魔なので色々とやり口があるのだろう。私も起きたばかりでまだ眠気が残っているのでここで追求するのは面倒くさい。要幸ちゃんのことは要幸ちゃんで何とかするという方向で納得しておくことにする。
さて、願い事について、私はあまり深くは理解していなかったのだけど、私たちの身の周りには願望というものが結構落ちているのではないだろうか?
例えばこの時期に大学でよく目につく新入部員勧誘のビラ。去年は大学敷地内を歩いているとひっきりなしにビラ配りの人たちが集まってくるのに苦労させられたものだった。これも願い事。
例えば講義内で友達からルーズリーフが欲しいと言われること。小さいながらもこれも願い事。
例えば昼食を友達同士で食べている時に、私の食べているおかずを少し分けてほしいと言われる。これも普通に願い事。
私たちは日常生活の中でかなり頻繁にそれらに遭遇するわけで、それなら要幸ちゃんにした私の願い事についても案外早く解決してしまうのではないかと私は予想した。しかしそれらはどれもこれも私がどうしても叶えたい願い事ではないだろうと簡単に分かるし、さらに要幸ちゃんが言うことには、その程度の願い事を叶えたぐらいではおそらく私が泡の華を見なくて済むようにはならないだろうということだった。うむむ。じゃあ願い事というのは一体何なのだろうか?
願い事探しというのはひどく難関を極めるように思われた。しかし、しかしだ。あまりにタイミングが良すぎてこれは裏で仕組まれた何ごとかがあるのではないかと疑うほどに私はすんなりと願い事に遭遇したのである。
時間は午後6時の少し前。学食で友達とのおしゃべりに花を咲かせた後、各々がサークルに行くなり家に帰るなりそれぞれ動きだし、今日は私の所属する囲碁サークルも活動日だということで、とりあえずサークル棟に足を向ける。そんな時だった。学食を出ようとする際に見知った顔を見かけた。人の顔と名前がなかなか一致してくれない私の頭に強烈にインプットされている人物。彼には右腕が無い。
「や、宗一郎君。」
「え?ああ、鈴子さんか。」
私がいきなり声をかけると、一瞬驚いた反応をとってから私に少々薄い返事をよこす彼は同じ研究室の同期生で、名前は佐藤宗一郎君。先天的に右腕が欠損しているそうだ。それでも彼は特にそのハンディを感じさせることをせずにキャンパスライフを謳歌している。
「今から夕飯?」
「うん。鈴子さんは?」
「サークル。」
「そっか。」
宗一郎君はお盆を持ってビュッフェメニューの前に立ってから器用におかずをとっていった。私はその様子をじっとりじめじめとした視線で眺めている。宗一郎君の右腕の空白の部分と、せわしなく動く左腕。Tシャツの上からでは分かりにくいけどたくましい左腕。宗一郎君の体はやや痩せ形で、彼の左腕は彼の体の大部分を占めているように思わされてしまう。それほどに彼の体はアンバランスに完成されていて、私は感心する。
そうしていると、その場をなかなか動こうとしない私に疑問を持ったのか、宗一郎君が訝しげな顔で再度私を見た。
「どうかした?鈴子さん。」
「ん、ううん。何でもないよ。何でもないんだけどね…。」
その時私はあくまで打算的に、ある願い事について考えていた。それは確実に私の中の願い事ではなかったと思うのだけど、今の状況には実にマッチしているようなフィット感が思考の穴を埋めて行く。
「ねえ、宗一郎君。」
「なに?」
一つ、タメの息。吸う。吐く。
「宗一郎君は、右腕が欲しいって思ったりするのかな?」
・・・・・・・・
何といったっけ。そう、デリカシーだ。今の私の質問には明らかにそれが欠けていたと思う。私はこれでも平均くらいには思慮があるはずだと思っているのだけど、その私がこんなにもデリカシーの欠けた質問をするのには、やはり、もしその願い事を宗一郎君が持っていたのだとしたら、それはきっと要幸ちゃんが叶えてくれるのにふさわしいものではないかという思惑があったからだ。そういう打算だった。
宗一郎君は私の質問に対して特に怒ったようなふうもなく、ただただぼけーっと呆けているみたいだった。それから私の真意を計りかねるとでもいうかのように首を傾げ、戻す。あう…
「ごめん、変なこと聞いたね。」
「あ、ううん。別に良いんだけど、そうだね。右腕か。僕は生まれつきこうだから、あんまりイメージが湧いてこないんだよね。だからそんなに思わないよ。右腕が欲しいとかは、さ。」
宗一郎君が少しだけ笑って答えてくれた。結果は聞き損だったけど。まあ良いか。ダメもとでの質問だったのだから。残念な気持ちとほっとした気持ちがないまぜになって、私はそうとだけ言った。
「だけど。」
そしてそこに今度は宗一郎君の言葉が重なった。彼は笑顔をさらに深めた。
「鈴子さんみたいな綺麗な腕を見ると、少し羨ましくはなるね。」
サークル棟に向かう途中で要幸ちゃんが現れた。今まで一体どこにいたのだろう?
「要幸ちゃん。私さっき、たぶん要幸ちゃんが叶えるのにぴったりなお願い事を見つけたと思うんだけど…」
「知ってるよ。聞いてたから。」
いったいどこで聞いてたのだろう。悪魔には超絶地獄耳的な能力でも備わっているのだろうか?
「で、どうかな?」
「お勧めしないな。」
「なんで?」
「さっきの人、宗一郎という人の願いには『鈴子さんみたいな綺麗な腕』という文言があったから。それにあの人はきっと『自分の右腕』というものについてきっちりとイメージすることができないだろうから。もしかすると鈴子に害が及ぶかもしれないよ。」
「具体的には?」
「鈴子が右腕を失って、宗一郎が鈴子の右腕を得るってことだよ。」
要幸ちゃんは顔をしかめて言った。私は要幸ちゃんの発言の内容を振り返り想像する。
「それはそれで良いかもね。」
「鈴子…!」
「ねえ、要幸ちゃん。やっぱりその願い事でいこう。私はそれが良いな。」
目の前の悪魔がひどく悲しそうな顔をするのを見ながら私は笑った。
サークル活動も終わってマイスウィートアパートに帰る。部屋に入って電気をつけると暗い部屋の中にベッドの上で体育座りをしている要幸ちゃんがいた。
「何いじけてんの?」
「いじけてなんかないよ。」
要幸ちゃんがそっぽを向いたので私はため息をついて要幸ちゃんの顔が向いてる方に移動する。
「どうすれば私の願い事は叶うの?魔法とか使うの?要幸ちゃんはどんな願い事でも叶えられるんだよね?」
小さい悪魔は今度はそっぽを向くことをせずに私を睨むようにして見た。
「私は鈴子が何を考えてるのか分かんないよ。もしかしたら、自分の右腕をなくしちゃうかもしれないのに。」
要幸ちゃんの言葉になんだか自然と笑みがこぼれた。
「ごめんね。でも、要幸ちゃんは私の願い事叶えてくれるんだよね?」
私がそういうふうに考えた理由は、おそらく要幸ちゃんが一番に危惧していること、危惧しているものは泡の華であり私の右腕のことではないということをどことなく雰囲気で察しているからだった。ただ私は、要幸ちゃんが私の右腕に関するリスクについても十分に心配していることも分かっていた。そのうえでお願いをしている。
「私は嫌だよ…」
「そう?」
「嫌なのに…」
「ごめんね。」
「鈴子は良くないね。」
「うん。」
全部をほほ笑んだまま返答し、要幸ちゃんの頭をなぜてあげた。要幸ちゃんはふてくされるようにして首をすくめる。
「じゃぁ、お願いね。」
そしてまた翌日。つまり今日。私は右腕を失った。