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◎大学2年生の春、私は悪魔と出会った。
その子の瞳はまるでブイヨンソースのように濁っていた。つまりそれは、濁っているけれども、その濁りというのは別段悪いものではないように私には思えたということだ。悪魔は女の子だった。胸に泡の華を刺していた。その華はどうやら生きているようだ。
「一つ、お願い事をかなえてあげるよ。」
彼女の声は声帯が腫れあがってしまっているかのようにしゃがれていて、一度聞くと心臓がぐしゃりと潰された。面白い子だ。
「私は特にお願い事は無いんだよ。」
申し訳なさそうに聞こえるように表情を作った。眼前の悪魔が泣きそうな顔をする。
「どんな事でも、叶えてあげるから。」
縋りつくようにお願い事を懇願する。私は本当に悪魔にお願いしたいことなんてなかったし、それにお願いをしたら代償に魂を持っていかれたりするんじゃないかと疑ったからとても困った。心臓はぐしゃぐしゃで、噴き出す動脈血が私の体を内側から汚染する。両方の目が彼女の顔と胸の泡の華を捉えて離さない。可愛い。かわいい。可哀そう。
どうやら私は彼女に同情してしまっているようだった。それが分かると、一つぐらい何かお願いをしてみるのも良いかもしれないと心が揺れ動いた。だけど、私には特にお願い事は無かった。頭をひねる。さあ、どうしようか。
「じゃあ…」
私の声に、悪魔が悪魔らしい可愛い笑顔で私を見るのを私は見据える。
『今から私が出会うお願い事を一つ叶えてちょうだい。』
朝起きると、なるほど右腕がきれいさっぱりなくなっている。別に要幸ちゃんのことを疑っていたわけではなかったけど、彼女は本当の本当に悪魔だったみたいだ。人間にはこんなことはできない。
ライムグリーンの小奇麗なアパートの一室では一つのベッドに一人の人間と一人の悪魔が寝そべっていて、私が体を起こしたことによって悪魔が少し身じろぐ。
片腕だと立ち上がるのにも不便さを感じた。カーテン越しに漏れてくる朝の陽ざしを直に浴びてみたくて、要幸ちゃんを跨いでから窓辺へ。両側にばっと一気に広げたかったけど、片腕しかないのでそれは無理だった。
シャッ、シャッ
南向きの窓から差し込む日差しは、ベッドの寝ぼすけ悪魔に直接突き刺さり、んわーという寝起きの叫び声で要幸ちゃんが上半身を起こしてから目をこすった。1,2度緩慢な瞬きをすると私を見る。だらんと垂れているスウェットの右側を静かに凝視すると、苦しそうな顔をした。
「今更だけどごめんね、鈴子。」
「ううん、全然平気だし。それよりまず、おはよう。」
「ん…おはよう。」
気まずそうに目線を下げてしまう要幸ちゃんが痛々しくて、私はベッドに近付くと、ひざをかがめて要幸ちゃんと目線を合わせる。
「いーゆちゃん!元気出してよ。」
私は笑って、要幸ちゃんを傷つける。
◎朝起きると、右腕があった。細くてしなやかで適度に筋肉と脂肪が付いている。日に焼けるということを知らないかのように白く透き通った右腕。細胞の一つ一つが命の粒のようにきらめいている。
「嘘だ…。」
嘘みたいにきれいな右腕だった。というか嘘であるべきだ。この右腕は僕のものではない。
右腕を動かしてみる。最初は慎重にゆっくりと小さく振って、だんだんと大きく、速く、複雑な動きを加えてみる。信じられないことに右腕は僕の思いのままに動くみたいだった。右腕が僕で、僕が右腕みたいだ。不思議な同調が生まれている。なんてことだろう。
だけどこれは僕の右腕ではないのだ。
どうしてか?
なぜなら、昨日まで僕には右腕なんてものはなかったからだ。
起きた後はまず顔を洗った。洗面台までゆらりゆらりと歩いていって鏡を見る。昨日までは無かった右腕のふくらみが異様だ。洗顔はとりあえず左手だけで済ませた。毎日の習慣がそのまま出たというのもあるけど、それ以前に右手を使うことにためらいがあった。今朝できたばかりの右腕は、どうにもきれいすぎて犯しがたい印象を受ける。
寝間着姿で食卓へと向かう。いつもなら服の右袖はだらしなく揺れているだけなのに、今日はこれまでになかった麻生地の摩擦感が感じてとれる。僕はまだ夢を見ているのかと思わずにはいられないという気持ちで全身が鳥肌状態なのに対して、父さんと母さんの反応は実に淡白で、というか、僕に右腕が生えていることがさも当然の様に振る舞っていた。昨日までは無かったはずの右腕。そのはずが、どういうわけか父さんと母さんはその事に関して何も疑問を持っていないようなのだ。食卓に並ぶ和風の朝ご飯が見慣れている茶碗や皿に盛り付けられていて、父さんと母さんは行儀よく「いただきます」と手を合わせてから同時にみそ汁をすすった。朝食で最初にみそ汁に手をつけるというのは僕の家族内での決まり事だ。いつもと変わらない様子の両親の内心を探るように見る。
どうして二人とも気が付いてくれないのだろう?こんなに無反応だと、もしかして僕にはもともと右腕があったのだろうかと疑いたくなってしまう。だけどそれは確実に違う。そうではない証拠に、その右腕というのは僕の腕、つまり左腕のことだけど、それとはまるきり違うのだ。僕の左腕は少し控えめな筋肉質で、所どころに傷跡がある。右腕欠損の障害児として生まれて来てからこの方、本来右腕や両腕で行う作業のほとんどを懸命に実直にこなしてきた僕の左腕。とても綺麗とは言い難いものの、これは僕の体の中で一番大事なパーツといえる。それに対して右腕は、リーチはそれほど変わらないものの、細い。華奢と言っても良いかもしれない。手入れの行き届いている、まるで女子のものの様な・・・・・・綺麗な腕だった。
僕の分の朝食に目を向ける。いつものようにみそ汁をすすることから始めようと思ったけど、それを右手、左手のどちらの手ですべきかどうか迷ってしまう。いつものように左手でお椀を持つか、それとも左手で箸を持って、右手でお椀を持つか。
父さんと母さんに目を向ける。二人は時折テレビに視線を向けたり一言二言互いに会話をしたりするだけでこちらに注意を割いている感じはあまりない。その事が余計に僕を迷わせる。もしかしたら父さんと母さんは僕が右腕を使うかどうか、一挙手一投足を密かに見守っているのではないだろうか?だとすると決定権は完全に僕にある。
右腕はまるきり現実感のないものとして僕の目には映っている。そう思うと、どうしても右腕を使うことはためらわれた。
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僕は左腕でみそ汁のお椀を持った。
ズズッ
両手が使えると、服を着るのにとても便利だ。今まで片手で済ませていたことが、まさに片手間で済ませられて、片手ではできなかったことが容易にできる。それは石器時代から一気に蒸気機関が発明されたくらいの発展に思われた。ただ、歴史上のその発展が地球環境を破壊していったように、できたての右手を使うことはどうにも僕の中の何事かを壊してしまうような恐怖を伴っている。意識的に右手を意識の外から外す。それでも、ボタンのつけはずしや靴下を履く時などについ右手が動いてしまう。まるでいつもそうしていたかのように動くのだ。僕は一体どうなってしまったのだろう。本気で鳥肌が治らない。
肩掛けの鞄を手にとって玄関に向かい、大学へ向かうために外に出る。この腕のまま、外に出ても果たして大丈夫なのかと思わずにはいられない。唐突すぎる変化に、嬉しさよりもマイナスのイメージが沸々とわいてきて止まらない。それでも・・・
一つ細く息を吐いて僕は玄関から外に出た。
それでも僕は大学に行く。それは、一つだけこの右腕に関することで思い当たる節があったからだ。それを確かめなければならない。
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2年生になると文学部の生徒たちはそれぞれ希望の研究室に入ることができる。僕が入ったのは英語学専修の研究室で、新しく入った人たちとはもうだいぶ親しくなってきていた。木曜の1限は英語学専修の生徒のみの授業で、僕は講義室に入るなり、辺りをぐるりと見渡して目的の人を探す。が、いない。でもあの人はいつも講義開始ぎりぎりに来るから、今日もそうするつもりなのだろう。
それにしても、やはり誰も僕の右腕について言及してくる人はいなかった。疑問を持つことも驚くこともしない。いつもどおり接してくる。それなのに、僕にはどうしてもそれらがよそよそしく感じられてしまう。綺麗な右腕。全てはこれのせいだった。苦しいはずのない苦痛の時間をカチ、カチと時計が刻む。友達の話に適当に相槌をいれながら、その時計の音だけを聞いていたいと僕は思った。
キーンコーンカーンコーン―――――――――
とうとう講義開始のベルが鳴り、講義室のドアが開いて講師の先生がやってきた。そして僕の探し人はまだ来ていなかった。ベルが鳴るのと同時に尋常ではない程の焦りが体中から嫌な汗として滲みだす。左手は手汗でびっしょりで、対照的に右手は全く汗をかかない。やはりこれは僕の腕ではないと今日何度目になるか分からない確認を済ます。どうしてあの人は来ないんだろう?やはりこの腕が原因なのだろうか?というより、やはりこの腕はあの人の腕で、そしてこの腕はあの人自身なのかもしれない。僕は絶望的な気分になる。先生が授業のハンドアウトを配りだし、最後尾に座っていた僕がそれを受け取る。
ガラリ
と、そこで再びドアが開いた。授業に遅れてきたのにもかかわらず、その人は堂々と講義室の前のドアから入ってきた。春らしいライトベージュのブラウスに浅黄色の花柄刺繍入りロングスカートという大人らしい服装に野球帽をかぶっている。そんな少し惜しい服装をするのはその人のポリシーらしい。やっと待ち人が訪れたことに、僕は一瞬高揚してすぐにその気分を落ち込ませることになる。
先生が彼女にもハンドアウトを渡して早く座るように指示をする。彼女はそれほど広くない教室を見渡して空席のうち丁度良い席を探しているようだった。そしてその途中で僕を見つけて、幸せそうににこりと笑った。
「朝賀ー、何してんだ早く座れ。」
先生から二度目の注意を受けて、朝賀 鈴子さんは慌てて窓際の席へと向かった。
いそいそと歩く彼女には右腕が無い。
1限の授業を終えてから鈴子さんの座っている席へと向かう。彼女は友達と話をしていて、いかにもそれが普通であるかのように振舞っているものの、講義中の彼女の所作で僕は彼女に右腕が無いという状況が異常であるということを察していた。彼女が鞄からノートとシャーペンを取り出すとき、講義内容をメモするとき、途中でケータイをポケットから取り出すとき。他にも色々、彼女の動作は明らかにぎこちない。まるで片腕での生活に慣れていない人のようだった。
近づく僕に気が付いたのか、鈴子さんが友達との会話を切り上げて僕の方を見る。彼女はやはり僕に笑いかけた。
「宗一郎君、どうかした?」
「うん、ちょっとね。時間もらっても大丈夫かな?」
鈴子さんがサッパリとした表情で席を立つ。
「学食で良い?」
コクリと頷く。それに重ねるように鈴子さんも頷いた。
「じゃあ、先に行っててくれる?私少しやることあってさ。」
「じゃあ待ってるよ。」
そこで鈴子さんとはいったん別れた。講義室を出る際に鈴子さんが友達の女子にヒューヒューとはやし立てられているのが聞こえた。自分にしては少し大胆すぎたかもしれない。
学食は、程良く空いていて、席をとるのには何も問題が無かった。朝食の時間には遅く、昼食の時間には少し早い。入口からできるだけ遠く離れた丸テーブルを一つ占領して鈴子さんを待つ。すると彼女はあまり時間をかけることなくやってきた。だけど、彼女のそばにはもう一人、見慣れない女子が立っていた。
「や、宗一郎君。ちょっとの間、待たせたね。」
「いいよ。でも、その人は?」
指さすと、女子はびくりと肩を動かせて助けを求めるように鈴子さんを見る。
「あーあー、怖がってるじゃん。いけないんだー。」
「そんな・・・」
僕が何か怖がらせるようなことをしたのだろうか?
鈴子さんと女子は丸テーブルの椅子をつかみ、二人固まるようにして陣取った。というより女子が僕から離れて座りたかったようだ。本気で萎縮されている。
「それで?なんの用だったのかなーなんて、聞いたら怒る?」
「別に、怒りはしないけど、用件が分かってるなら早めに説明してほしいとは思う。」
「そう。」
うーんと目を瞑り、片方しかない手で顎をつかんで何か考えるようなポーズを鈴子さんは取った。女子はおろおろとうつむきがちな鈴子さんを見守り、俺をちらちらと横目で見る。綺麗な右腕を盗み見ている。
それから、よしと言って鈴子さんが顔を上げた。
「まず結論から言うとね、宗一郎君。この子、要幸ちゃんが、宗一郎君の願い事を叶えてくれたんだよ。」