土蛙
原稿用紙三枚のショートショート
春風が畦道の土を巻き上げるので、佳世は慌ててハンカチを取り出した。
鼻を啜る音に気づいたのだろうか、車を牽く曲がった背中が振り返る。
「今日は冷えますからね。暖かい部屋ならいいんですが」と車夫の勘次は気遣うが、それすらも疎ましい。
あしらうように「最初に口頭試験だから、それさえ済めば寒くても構わないわ」と答えると人力車は走り出し、目の前は再び勘次の背中だけとなった。
畦道を通る度、まだ土手で眠っているはずの蛙を思い出す。
昔、子どもだった佳世を驚かせようと勘次が掘り起こした土からは、冬眠の覚めきらない多くの蛙が転げ落ち、手足を震わせながら水の無い田んぼへと逃げて行った。
佳世は、試験に通らなかったら、とは考えていない。一週間後には通知が来て、来月から水戸の女学校に通うつもりなのだ。
早々に答案用紙を書き終えると、どんな着物で行こうかと未来への思いに耽っている。
そんな中、ふと、窓の外に黒い煙があるのに気がついた。
「火事かしら」と迷惑そうに呟いたが、いくら経っても収まる気配はない。
遠くの方で聞こえたざわめきが段々と大きくなってくると、丸眼鏡の教師が「すぐに校庭に出たまえ」と教室に駆け込んで来た。
生徒達が押し寄せる中、大切な物を運び出そうとする教師の大荷物は狭い出口をさらに塞いでいた。
潰されそうになりながら、やっとの思いで外に出ると、目の前には運び出されたピアノまである。
押し合いになっていたのは、このせいだったのかと思った。
「無事でしたか、良かった」
振り返れば煤まみれの勘次が立っている。どこかで火に飛び込んだのかと思いながらも、「家の方は無事?」と聞いた。
「お屋敷とは方角が違いますので」と答える勘次は、燃え始めた校舎へと駆けて行く。
途中、一度だけ振り返り、「少し待っていてください」と頭を下げてから。
出口を塞ぐ大荷物が投げ捨てられると罵倒する声も聞こえたが、中に居た生徒達が押し出されるように溢れ出した。
顔を真っ黒にした女学生は震えながら涙を流している。
その姿を見ていると、佳世はまた昔のことを思い出した。眠りを妨げられて慌てふためく土まみれの蛙。
命は助かったものの、水の無い所では優雅に泳ぐこともできずに逃げ惑うしかない。
春風が火の粉を巻き上げて黒煙を立てる中、焼け落ちて行く女学校を前に佳代はハンカチを取り出すのも忘れて、生徒の手を引く勘次をいつまでも眺めていた。
大正7年3月25日「水戸の大火」