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5章

 日曜日も部活があった。午前中に終え、図書館で時間を潰してから校長室に向かった。初めて入る場所であったからどんなものかと思ったが、立派なものだった。それに気圧されて柄にもなく緊張した。

「……朝野千里くんかな?」

 はい、と返事をして私は一歩前に出た。夕紅と吟哲はまだ来ていない様子だった。この部屋にいるのは校長と教頭、二年四組の担任、そして私だけだ。校長はさすがにどっしりとしていたが、教頭や担任はどこか落ち着きがない。やはり、モンスターペアレントは怖いのだろう。私が教師だったとしたら、やはり怖い。

 促されて席に座った。

「お父さまはいつ来られるのかな?」

 今は十四時四十分だった。恐らく後十分ほどしたら、私はそう言って教師たちに覚悟をつけさせた。

 父さんや夕紅達が来る前に私と教師たちとで事実確認をした。私が糞をかけられた事といじめにあった事。それについて、ウソは言わなかった。ただし、朱美の名は出さなかった。あんな奴でもバスケ部の部員だ。こんな事で足を引っ張って欲しくなかった。

 そして、私は一つ卑怯な真似をした。私が夕紅にした事を――一切喋らなかったのだ。

 夕紅には、ひどい事をしたと思っている。言い訳もしない。できない。けれども、私が喋らなかったのは話をややこしくしたくなかったからだ。ただでさえ、話が複雑なのだからこれ以上話を広げたら訳がわからなくなるだろう。

 そして、教師たちに語りながら思ったのは夕紅や吟哲には話せて、父さんに話せないのは何故かということだった。やはり、恥だと思っているからなのだろう。恥と、思えるようになったのだ。

 夕紅と吟哲は一緒に入ってきた。時計は十四時四十五分を指していた。吟哲はスーツ姿であったが似合っていない。前に見た時も思ったのだが筋肉質過ぎて、スーツがぴっちりとし過ぎている。それがどこか笑いを誘う。夕紅はいつもの制服姿で可愛らしかった。そして、問題のインちゃんも夕紅の肩にとまっていた。

 夕紅の表情はおどおどとしてはいたけれども、それでもどこか嬉しそうだった。これから起こる事を考えればその表情はすぐ消えるのだろうが、やはり吟哲と一緒にいる事が嬉しかったのだろう。

 対して吟哲は伏し目がちで、でかい図体をしながら下ばかり向いていたので暗い印象をはっきり与えていた。見方によっては教師たちよりも緊張しているように受け取れた。

 夕紅達は私の対面に座り、例によって私と同じように事実確認をしていた。その段取りの悪さに呆れを覚えた。

 校長と教頭が驚いたのはインちゃんだった。夕紅の口の代わりに事実確認に対して答えていた。担任は既に知っていたのだろうから、校長たちに比べ驚くということはなかった。けれども、苦いものが顔に走っていた。恐らく、私たちと同じようにインちゃんに痛い目を見せられたのだろう。

 そして、五十分。校長室の扉に重く叩くノックが響いた。

「失礼する」

 そう言って、父さんは校長室に入ってきた。パカパカとスリッパを鳴らしながら私の隣に座った。

「……父さん、正装で来てって言ったじゃない」

 父さんの格好は土方の人が着る作業着を着てきた。しかも、汚れていた。

 けれども、父さんは気にした様子も見せずに、

「俺に取っちゃこれが正装なんだ。ガキは、そんな細かい事を気にするな」

 と、私がせっかく耳打ちしたのにでかい声で聞こえるように喋った。

 私は、父さんが好きだけれども、こういうところは苦手であった。

(夕紅、いいなぁって顔をしない!)

 対面の夕紅に視線を向けると、羨ましそうな顔をしていた。こんなの羨ましいかなぁ。

「まず、単刀直入に言う。校長先生、教頭先生、担任の先生、あと嬢ちゃんに、嬢ちゃんのお父さん。娘はいじめを受けています」

「ちょ、ちょっと父さん――」

 確かにこういう自分の子供がいじめを受けている事を学校側にいうケースの場合、主導権は親が取らなければならないとものの本には書いてあった。けれども、父さんの口ぶりは断定的で、いいのだけれども、それは果断に過ぎると言えた。

「いいからお前は黙ってろ」

 父さんは私を言葉と視線で制し口上を続けた。

「こいつがいじめられていると知ったのは昨日だ。それでこんなに早く学校に来て娘がいじめられている、と騒ぐのは親バカと言っちゃ、親バカだ。だが、それのどこが悪い? 娘は楽しいはずの学校生活が一変しちまったんだ! しかもなんだと! 鳥の糞だぁ? 聞けばそこのお嬢ちゃんが飼っているインコを持ってきてこいつにぶっかけたって言うじゃねぇか! ふざけるなよ? 女が命より大事にして、誇りに思い、自慢としている宝物に糞を引っ掛けただぁ? 嬢ちゃんよぉ、お前さんは一体何さまだ? そして、嬢ちゃんのお父さん。あんたはどういう教育してんだぁ? 担任の先生さんはそんな事にも頭が回らねぇンだ! アホか!? お前らは全員阿呆だ! そして、だ。俺はケータイの事なんてよく解らねぇ。けど、それがどんなに危険かは解る。娘はクソをひっかけられた事を、他人様に面白おかしく広められちまうんだ! もちろん、これは先生やら嬢ちゃんたちには問わねぇ。問えるもんでもないし、もうやっちまったことはだれにも止められねぇ。じゃあ、俺は誰にそれを問い詰めればいいんだ? おい? もう一度聞くぞ? だれに責任を取ってもらえりゃいいんだ! あぁ!?」

 父さんはこめかみに青筋を立てて激昂し、倒れるんじゃないかと思わせた。私はこんなに父さんに思われているという事が嬉しかった半面、これは手をつけられないなと冷めた意識は思った。

 担任や教頭は慌てた様子で必死に父さんをなだめようとした。

「お、お父さん、落ち着いて――」

「落ち着けだぁ? このすっとこどっこい! てめぇが俺を落ち着かせてくれなかったんじゃねぇか!」

 これでは取りつく島もない。モンスターペアレントが酷いとは聞いていたけれども、これほどとは。

 だが、校長はさすがに冷静だった。

「お父さま、お怒りのほどはごもっともです。ですが、私たちの言い分も聞いて下さいませんか?」

 やんわりと言った校長に父さんも毒気が抜かれたのか、いいだろうとこぼしふんぞり返って話を聞く態度を見せた。

 教頭が担任の名前を呼んで事実を話すよういってきた。

「は、はい。朝野、あ、いや、千里さんは確かに夕紅さんが連れてきたインコの糞をかけられたそうです。これは、ほかのクラスメイト達や千里さんご自身からも聞きました」

 父さんは当たり前だ、と言ったが話の腰を折るようなことは言わなかった。少しは冷静になったのだろうか。

 担任はつづけた。

「ただ、いじめを受けた事についてはお父さまの来訪が急だったため調査はまだしておりません」

 聞いて、それは失言であると感じた。そして、思った通り父さんは怒りの矛先を担任に向けた。

「俺が来るのが早かったってどういうことだぁ? 遅けりゃいいのか? あぁ?」

「い、いえ、けしてそんなことは――」

 ここでも担任と教頭はうろたえていたが、校長が助け船を出した。

「私どもも気付けなかったのです。ただ、これには訳があります」

「……どういうことだい?」

 そこで校長は私の方に視線を一度向けた。

「千里さん、貴方はいじめられていたと仰っていましたが……それはいつごろからですか?」

 私は金曜と応えた。その答えに父さんはえっ、と言う表情した。それもそうだろう。いじめが起きてまだ二日しか経っていないのだから。

「ということです。千里さんへのいじめが始まったのはつい最近の事だったのです。私たちも生徒の心の機微、微細な変化にも気を配っていますが、人間です。失敗もあります」

 校長にそう言われ父さんは赤面したようだった。親バカで何が悪いとは言っていたが、これでは過剰反応だった。それが父さんのいいところであり、悪いところでもある。

 しかし、だ。ここまで威勢よく啖呵を切った父さんだったからこれで引き下がるという事が出来なかった。今度は怒りの矛先を吟哲に向けた。

「だ、だがよぉ。いじめは確かに起きたんだ。それが何が原因かは解らねぇ。ただ、髪にクソをかけられたってのは無縁じゃねぇだろう。ガキどもは残酷だ。悪い事してないのに、悪いように言われるようなこともある。このメールだってそうだ!」

 吟哲に自分のケータイのディスプレイを向けた。画面は見なかったけれども、恐らく昨日兄さん、父さんは知らないし……私も言えなかった、から渡されたメールを見せているのだろう。

「チェーンメールって言うんだってな。形を変えた不幸の手紙だ。娘はこんなのを流されたんだ! おい、嬢ちゃんのお父さんよ! どうしてくれんだよ、えぇ?」

「お父さん、私大丈夫だから」

「お前は黙ってろ!」

 肩で息をしながら、父さんは怒っていた。父さんがこんなに怒ったのはやっぱり兄さんに絡んでの時以来だ。

「……土下座」

 え? 私は言葉に出して父さんがなんと言ったのかを聞き返した。

「お父さんよぉ、土下座してくれよ。娘にクソをかけてすいませんって、娘の楽しい学校生活を台無しにしてすいませんって、娘に恥をかかせてすいませんって、謝ってくれよ? なっ?   そうでないと娘も俺もふんぎりつかねぇンだよ!」

「ちょ、ちょっと父さん!」

 さすがにやり過ぎだ。確かに普通の場合だったらそれも通るだろう。しかし、吟哲は夕紅がいじめを受けていたことは解っている。しかも、その主犯が私である事もだ。それを暴露される可能性だってある。いや、確実だ。むしろ、なぜ今まで黙っていられたかのほうが謎である。

 教師たちは止めに入ることはしなかった。父さんの激昂がすごいという事もあったのだろうが、自分たちに怒りを向けられ火に油を注ぐような真似をしたくないというのが本音だろう。この似非教師どもめ。

 気になったのはインちゃんが一言も喋っていないことだ。いつも、と言うには関わって日数は少ないが、ならここいらで茶々を入れて引っかき回すはずなのに一言も喋ろうとしない。

 まるで、何かを待っているかのように。

 教師たちも、父さんも、私も、そして――夕紅も視線を吟哲に向けていた。みな固唾をのんで、どういう決断を下すのかと言う事が気にかかった。

 そして、吟哲は口を開いた。

 言葉は――


「千里ちゃんのお父さんは、自分の気を鎮めたいためだけにそう言っているのでしょうか?」


 物静かな口調であるが、その実喧嘩腰だった。柔らかな口調ではあったけれども、言っていることは戦う姿勢を見せている。教師たちは慌てた。夕紅は驚きながらもどこか喜んでいるように見えた。

 ただ、二人だけ冷静だった人間がいる。校長と――父さんだった。

 父さんは淡々と、しかし熱を込めた声で答えた。

「そんなはずがないだろう、俺に謝るんじゃなくて――娘に謝るんだよ。それで、娘が許すっつたんだったら、俺はなーんも言えねぇ。やるのか、やらないのか、どっちだい?」

 父さんがそう言うと、吟哲は無言で立ち上がった。

 この中では一番大きな男だ。それが動くというのはそれだけで威圧感がある。

 それが――膝をついた。

 よろめいたのではない。自ら膝を屈したのだ。

 どよめきが走った。教師たちの困惑、夕紅の驚愕、校長は目を伏せ、父さんは嘲るでもなくその姿をじっと見た。

 そして、手をついた。

「……これで、いいでしょうか?」

 吟哲は尋ねた。

「男が土下座するってのは安いってもんじゃねぇ。それは俺だって解る。だが、聞く相手が違うだろ? 聞くのは俺じゃなくて、千里だ」

 父さんが横で言っているのを聞きながら、どうして吟哲がここまでするのかが解らなかった。

 だって、昨日兄さんが戦わなかったって言ったじゃない。それなのに、どうして吟哲は戦わないんだ? 戦える手段はある。私の夕紅いじめの暴露だ。それをすれば、こんな思いをしなくて済むのに。

 私が呆然と思っていると、吟哲は謝罪の言葉を告げた。

「すいませんでした」

 一言、そして、その一言を皮切りにインちゃんがついに喋った。

『どうしてだ! 何故、吟哲が謝る!』

 その声が響いて事情を知らないものたちは驚いた。けれども、インちゃんの様子はいつもと違うように思えた。いや、これが素なのかもしれない。語尾に『でしょでしょ』とつけるというのは明らかにキャラクターを作っている。なら、なぜそんな事をしていたのか。解らなかったが、個性でもつけたかったのだろう。

 インちゃんの言葉には吟哲は答えなかった。

 私は視線を吟哲から夕紅に移す。瞳は吟哲を捉えている。吟哲しか見ていない。その眼には不信はなかったけれども、今にも泣き出しそうな悲哀が灯っていた。

「ほれ、千里。嬢ちゃんのお父さんが謝ってる。許すのか、許さないのか、はっきりしなさい。それが礼儀だ」

 お父さんに言われて、私ははっとして吟哲を見た。深々と頭を下げている。

 私が声をかけようとして、夕紅が立ちあがった。一度だけ、吟哲さんを見て、校長室から去っていった。

「ゆ、許します! ちょ、ちょっと、夕紅待ってよ!」


◆◇◆◇◆


『一樹、女が出てきたぞ――』

「オーケー、じゃ手筈通り頼む」

 ケータイにかかってきた電話を受け取り、俺はこれから起こる事を想像して楽しんだ。

「吟哲、苦しんでくれると良いけどな」

 呟く。その言葉に小刀祢が反応した。

「一樹もネチっこいにゃー。直接いたぶればいいのに」

 小刀祢は猫耳を、俺の趣味ではない小刀祢の趣味だ、スイッチを使いながらひくひくさせていた。

「いっただろう? 吟哲は空手の使い手だ。それを痛めつけるのには結構な労力、手駒、そして力がいる。力攻めなんて、バカのする事だよ」

「それでも私には貴様の逆恨みの方がバカのする事のように見えるがな」

 小刀祢とは何もかもが対照的な美鈴が口をはさんだ。彼女たちは俺の手駒であったけれども、敬いって物がない。ただ、それを強要したことは一度だってない。敬意は勝ち取っていくものだ。

「どうして、自分で動かない? これはお前の復讐だろう?」

 美鈴の低い声が気持ちよかった。相変わらずいい声をしている。

「ミーちゃんは真面目だにゃー。単に一樹は怖いだけだよー。安全なところにいて、女の子を痛めつける、あまつさえ純潔も奪う。そんな卑怯者なだけだにゃー」

「その卑怯者が――君たちは好きなんだろう?」

「一樹のそういうところは嫌いだけどにゃー」「貴様のそういうところは鼻につく」

 ベッドの上では従順なのにね、と思ったけれども言葉にしない。刺されそうだからだ。

 そして、俺は言う。自己暗示のように。歌うように。儀式のように。

「さてさて始まりますよ? 俺の復讐が。さてさて終わりますよ? 吟哲の希望が。えっと、えーっと……しまった、ここまでカッコつけた演出したのに、セリフここまでしか考えてなかった! 小刀祢、美鈴、なんかないかな?」

「なんだあれ?」

「シッ、見ちゃダメだにゃー。あれは中二病だにゃー。移ると一生後悔するにゃー。主にマンガを見るとうずき出す症状だにゃー」

 それはまずいな、と美鈴は言った。美鈴はマンガ好きだからな。

「じゃ、私らは帰るわ」

「じゃーねー、一樹ぃー」

 引き留めるわけにもいかない。なにしろこれから女の子のレイプを見るのだから。それを気の置けない彼女たちであったとしても、女の子たちだから、見ていて気分のいいものではないだろう。

 それでも一人はさびしかったな。一人でやる遊びを俺は知らなかったし、コンピューターを使った遊びと言うのも苦手だ。

 仕方ないので、一人で条件しりとりをしながらパーティーまで待つことにした。

 条件は二つ。最後に『ん』で終わるようにする。五十音をすべて使う。その際重複はいくつあってもい。これがなかなか難しい。ルービックキューブほどではないが、なかなか奥が深い。

 それを八割型終えたところで、インターフォンが鳴った。

 時計を見る。四時十分を少し過ぎたあたりだった。

「誰だ?」

 小刀祢たちではないだろう、かといってほかの手駒たちは吟哲の娘を誘拐しているころだ。車を何回かに分けて使うように言っておいたから、ほぼ全員が動いているはず。

 玄関に立ち、魚眼レンズからのぞくと、意外、いや意外と言うほどでもないか、人物が立っていた。

 名を――朝野千里。

 俺の妹がそこにいた。


◆◇◆◇◆


 ――時間は遡る。

「待って、待ってよ、夕紅!」

 学校から少し離れたところまで私たちは走った。すぐ息が切れると思った夕紅は、半ば肩で息をしながらそれでもなお走っていた。

 交差点の信号が赤になったところで、ようやく止まった。私は急に止まれず夕紅を後ろから抱きとめる形でしがみついた。インちゃんがその拍子に夕紅の方から飛び退った。

「……どうしたの? なにがあったの?」

 私は心配しながら夕紅に尋ねた。夕紅は震えている。泣いているのか、と思ったけれど笑っているようだった。そして、声は出ていなかった。

『……やっぱり、やっぱりダメだったよ……吟哲さんは――吟哲さんは私の事なんて考えていない! 私の事が、私の事が――嫌いなんだ!』

 期待したのが間違いだったんだ、インちゃんを通して夕紅は語る。

 私はそれを聞きながら、うちの父さんと似ている所が夕紅にはあるんだと気づいた。

「夕紅」

『何よ、千里ちゃん。バカにしてるんでしょ? 私が、こんなんだから……私が――!!』

 パン、と乾いた音がした。いや、私が鳴らした。

 夕紅の頬を平手で殴った。

 夕紅は何が起きたのか解っていないような顔をした。

「甘ったれた事を云うんじゃないよ」

『どこが、甘えているのよ! 私はいつもちゃんとやってきた、家の生活費の管理だってちゃんとやってきた、掃除も皿洗いも――食事も、みんな!』

「じゃあ、聞くけど。夕紅は吟哲に――自分が嫌いかなんて聞いたのか? そして、嫌いって言われたのか?」

 それは、夕紅は口ごもる。

「それは妄念だ、夕紅。妄念なんかに甘えるんじゃない。甘えるなら吟哲に――お父さんに甘えなさい」

 いいながら、説教は性質にあわないんだけどなと自嘲した。

 夕紅を抱きすくめた。泣いていた。泣き虫だな、と思ったけれども私もこいつの前で泣かされた事を思い出した。

 夕紅が自分から離れたので、私も回していた腕を戻し夕紅に向き直った。

「大丈夫か?」

『……うん、平気だよ』

「じゃ、帰るか。行きは吟哲さんと一緒に来たんだろう?」

『そう、だけど……帰ったんじゃないかな、吟哲さんは』

「妄念」

 私は責める口ぶりで呟いた。夕紅にも聞こえて意味もわかったようで慌てた様子で『ご、ごめん』と言ってきた。

「信じろよ、お前のお父さんを、さ」

『……うん』

 私たちは学校へと向かった。その間に私のケータイに電話がかかった。誰だろうと思ったら、父さんだった。

『おう、千里。父さんは先に帰ってるからあんま遅くなるなよ、じゃ、あぁ後、夕紅ちゃんと仲良くしてやれよ?』

「え、あ、うん」

 じゃあな、とだけ言って父さんは電話を切った。まぁ、私は自転車で来ていたから車に乗る訳にはいかなかったからいいのだけれども。

 夕紅の視線がムズかゆかったので、私は尋ねてみた。

「やっぱ、夕紅なんかからすると羨ましかったりするの?」

 夕紅はコクリ、と首を振った。

『私も――私も吟哲さんとそんなふうになりたいなぁ』

「なれるよ」

 短く力強く断言した。

 けれども、その言葉はかき消された。

 一瞬、と言うには時間はゆっくりだった。

 黒いワゴン車が私たちの横を通り過ぎようとした。そこから男達が飛び出してきて、夕紅を掴んだ。

 抵抗する夕紅。インちゃんも微力ながらもそれにあらがっていた。男達のうちの一人のサングラスを落とさせた。

 けれど、それまでだ。夕紅はワゴン車に連れ込まれた。男達は夕紅の身体をまさぐり、ケータイを取り出して地面に捨てた。車は走り去った。私はその間、なにも出来ずに状況も呑みこめなかった。

 だが、時間がたつと解った。これが昨日、兄さんが言っていた吟哲への『復讐』なのだ。

『サングラスとケータイを拾うでしょ! 千里!』

 インちゃんの言葉ではっとなり、私は指示に従って、何のためだろう、サングラスを拾い、まだいるであろう吟哲の下へと向かった。

 吟哲は学校の敷地内にある駐車場で車に寄り掛かりながら待っていた。夕紅を。

「夕紅はどうした?」

 責めているわけではなかった。しかし、私は、私の兄のしたことに重荷を感じてつぶされそうだった。

『夕紅ちゃんは、さらわれたんでしょ!』

 吟哲はその言葉を聞いても動じた様子は見せなかった。気のせいかもしれないが、構えていたようにも見えた。

 私はあたふたとしながら警察を呼びますかと提案した。しかし、吟哲は首を縦には振らなかった。

「警察は信用できない訳じゃない。けれども彼らに頼り切ってしまっては裏をかかれるだろう。相手は、あの一樹なのだからな」

 聞いて、私はどうして吟哲は兄さんがこの事件の首謀者である事を知っているのだろう、と疑問に思ったが、話の腰を折る訳にもいかない。事態は一刻もあらそう。

『それに夕紅の前でカッコつけたいしな』

 吟哲の声でインちゃんは代弁した。それを読まれた事を知って吟哲は顔を真っ赤にした。危険な事態だというのに自身の幼稚な考えを知られたからだろう。

 動き出そう、と言う時にインちゃんが言葉を発した。

『じゃ、なんで謝ったんでしょ?』

 インちゃんの言っていることは先刻の土下座の事だろう。確かにそれは私も腑に落ちなかったけれども、今はそんな話をしている場合ではないだろう。

 吟哲は、インちゃんの問いに答えた。

 それは意外な答えだった。

「千里ちゃんを、守るためだった」

 私は、えっ、と思った。吟哲が何を考えているのか私には理解できなかった。インちゃんもそうだったようだ。心を読めばいいものをインちゃんは言葉を発して吟哲に尋ねた。

 吟哲は応えた。

「夕紅の、娘の初めて家に連れてきた友達だったんだ。それを私が余計な事を言って、友達じゃなくなったらあの子が可哀想だ」

 筋は通っているように思える、私が言う前にインちゃんが断罪した。

『それは一足飛びの考えでしょ? 父親が第一に考えなければいけないことは娘の幸せよ。友達は夕紅自身が選ぶ。貴方じゃない。そんなことも解らないの?』

 暗に、私は夕紅の友達ではないと言われているようで心苦しかった。けれども、インちゃんに言われるのは仕方ないだろう。夕紅のいじめの現場を見てきたのだから。

 吟哲は、言う。

「私は確かに、一度間違えた……いや、一度どころじゃない――何度も何度も間違えた」

 けれども、吟哲は言おうとした。

『今度こそ、間違えない……!』

 決めゼリフはインちゃんに取られてしまった。

『解ったわ』

 そして、インちゃんは私の肩にとまった。それから、私は慌てた。

「ご、ごめんなさい。車のナンバーをチェックするのを忘れていました……」

 いいながら、なんて失態だと思った。これでは間抜けだ。ケータイも私たちの手元にある。これではGPS機能で夕紅を追う事ができない。

 けれども、インちゃんはもちろん吟哲も慌てはしなかった。

「千里ちゃん、そのサングラスは?」

「え、あ、こ、これ? 夕紅を誘拐していった連中がつけていたものだ、です。はい」

「鳥」

『インちゃんでしょ! なんでしょ?』

 吟哲は私の手からサングラスを取りインちゃんの前でそれを見せた。

「お前が代弁できるのは、人だけか?」

『よく気が付いたでしょ。インちゃんが代弁できるのは生き物とモノだけでしょ。サングラスの声も代弁できるでしょ!』

 だからか、私はインちゃんの指示の的確さに驚くとともに本当に鳥なのかと疑ってしまった。

 ともかくこれで、確かに夕紅を助けにいける。だけれども、私はその思考の片隅今回の事件の黒幕の兄さんの事を考えていた。

 兄さんは諦めるだろうか? 兄さんの何が一番信じられるかと言えば、そのプライドの高さだ。恐らく今回の件で失敗すれば兄さんは諦めてくれるだろう。しかし、私はその信頼に確信を持てなくなっていた。

 兄さんは逆恨みをしただろう。けれども無関係な娘の夕紅を傷つけるような事をする人ではなかったはずだ。

 兄さんは、変わってしまった。昔の私はそれを気づくことなく、盲目的に兄さんに固執し続けた。

 でも、兄さんも変わったが、私も変わった。昔のように兄さんが第一ではなくなった。その事が幸福であるのか、不幸であるのかはわからない。

 けれども、と私は思う。

(――……けじめをつけなければ)

「吟哲」

 私は呼び捨てにして彼を呼んだ。吟哲はそれを不快に思った様子は見せなかった。ともかく私たちには時間がない。怒る暇もないくらいに。

「なんだ?」

 私が言う前にインちゃんが喋ってくれた。

『私にインちゃんを貸してほしい』

「……そう言うことだ」

 吟哲は躊躇した顔を見せた。視線を私ではなく、インちゃんに向けた。それに視線を返してインちゃんは応えた。

『吟哲。阿笠の言葉を思い出すんだ。そして――今がその時だ』

「……いいだろう」

 何に使うか、ということはインちゃんも吟哲も問わなかった。

 私は、インちゃんを肩に乗せて兄さんのマンションへと向かった。

 兄さんとの――一樹との決別するために。


◆◇◆◇◆


 私は怯えていた。状況も呑みこめないでいた。いや、少しずつは解っている。誘拐されたのだ。目的はなんだろう、お金だろうか、それとも恨みだろうか。いずれにしても私には覚えがなかった。

 大きなワゴン車で私を含めて五人乗っている。いずれも二十代くらいの男達で、小さな私からすればそれだけで恐怖を覚える大きな体躯であった。私は逃げられないように後部座席の真ん中に座らされていた。

 車は何回かに分けて乗り換えた。変わったのは車だけではない、男達のメンツも乗り換えるたびに変わった。

 車で移動する間、男達は私を無視するように談笑に興じていた。それでいて、私が逃げようとするとまるで親猫が子猫の首根っこを掴むようにして、車に押し込めた。私はそのぞんざいな扱いに怒りを覚えた。恐怖が引っ込んだわけではなかったけれども、物みたいに扱われて許せるほど私は寛容でも聖人君子でもない。

 そして、その男は最後に車を乗り換えた時に乗り込んできた。

「はじめましてー、俺ゼンジ。よろしくー」

 耳にピアスをし、頭はモヒカンにしている前部座席に座っている男だった。

 私が声を出せないでいると、モヒカン男は殴ってきた。平手ではなく、握り込んだ拳でだ。

 痛かった、けれども声が出せなかった。モヒカン男の仲間がやめろよと言って、私を守ってくれたがそれを喜ぶことはしなかった。

 モヒカン男が続ける。

「返事をしろよ、えぇ? 口があるじゃねーか、舌があるじゃねーか、顎があるじゃねーか? おまけに耳もある。喋れよ、なんとか言えよ! あぁ!?」

 私は痛みと恐怖と怒りで声を出したかった。声を張り上げて――吟哲さんの名を呼びたかった。

 口を開き、声を出そうと何回しただろうか? けれども、喉から声は滑りださない。私の思いは誰にも伝えられない。ケータイも……インちゃんはここにはいないのだから。

 私が喋れないという事が車の中の男達に伝わったようだ。だが、モヒカン男は気付かなかったようで朗々と喋っていた。

「これから俺達はお前を犯す。あぁ、別にお前が可愛いとか好きとかは思っていない。物のように犯されろ。せいぜい、その時にいい声をあげろよ」

 そう言うと男達は笑いだした。言っていることは解った。私だって女である。そう言うことに関心がある。

 そして、それに対しての淡い期待と幻想もあった。それが裏切られる事に対しての憤りや不安はあった。けれども、悲しみはない。

 私は――諦めてはいなかった。

 けれども、どうしてそう思えるのか解らなかった。

 その顔に気づいて、モヒカン男は怒りを覚えた表情で私に食ってかかった。

「んだ? そのつら? おいおい、もっと泣きわめいてろって、それとも何? これから起こる事を喜んでんの? うわっ、とんだビッチだな。あの親父からよくこんな女が生まれたもんだ」

 私はもうこの男達を恐れていなかった。なんと言われようとも、だ。

 だって、信じている。

 あぁ、ようやっと気がつけた。

 私が諦めていない根拠は――吟哲さんにあるのだという事を。


◆◇◆◇◆


「やぁ、千里。よく来たね」

 俺は久しぶりに会う千里を良く見た。すると、すぐに気がついた。二つの事だ。一つはあからさまにおかしな鳥、インコだろうか? が千里の肩に乗っている事。そして、もう一つは千里を知らなければ気付けない事だ。だけれども、俺はその事を口にせず家の中を案内した。

「あぁ、そう言えば今日は父さんと一緒に学校へ行って来たんだっけ? どうだった?」

「その件は、解決しました。吟哲が土下座をしてくれて――」

 俺はそれを聞いて噴き出してしまった。そして、千里に尋ね返した。千里は頷いた。

 俺はそれが面白かった。稲見中とのパイプを持っていた事が、これほど面白い事に繋がるとは思わなかった。

 気分良く笑っていると、気がついた。千里が愛想笑いすら浮かべていない事に。

 その事を不思議に思った。いつもの千里だったら追従するように一緒に笑ってくれたはずなのだ。俺はその事を尋ねると、逆に提案を持ちかけられた。俺にとっては不快な提案であった。

「兄さん、こんなことはもうやめませんか?」

 何を言い出すかと思えば、俺はそう言って千里の言う事に取り合わなかった。どちらにせよ、俺はこの復讐はこれっきりで終わらせる。有終の美と言うやつだ。

 まったく――

『まったく、バカな事を言うなよ。千里』

 言葉が聞こえて、俺は驚いた。どこからしたものか、いやそれどころではない。俺の心が読まれたのだ。先刻の言葉明らかに俺が思った事だった。

 千里は別段それに驚いた様子は見せず、淡々と説明しだした。

「兄さんの心を読んだのは、私の肩にとまっているインちゃん――いや、代弁インコなんです。兄さん」

「代弁、インコ?」

 そうです、首をうなずかせて千里は応えた。

「このインコは簡単に言えば、心を読む事が出来てそれを言葉にするインコなんです」

 心を読む。その言葉はにわかには理解できなかった。美鈴はマンガ好きではあるし、俺もよく読む方ではあるが、マンガのファンタジーな部分が現実に起こると夢想できるほど童心も期待も持っていなかった。

 だが、俺は一度心を読まれた。そして、試しにもう一度思ってみることにした。

 俺は、こいつが――

『俺はこいつが欲しい……』

 聞いて、確かに本物であることは理解できた。どういう仕組みであるのかは理解できなかったけれども、そんなことはどうでもいい。いま重要なのはこの鳥の利用価値が俺にとってすごく有益であるということだ。

 千里はそこに来てようやく、微笑んだ。

「じゃあ、兄さん。私と賭けをしませんか?」

「賭け?」

 インちゃんを使った賭けです、千里はそう呟いた。そして、ずっと握っていた拳を開き二枚のコインを見せた。そのコインには紙が貼ってあり、『嘘』と『真』と書かれていた。嘘は左手、右手には真がそれぞれ有った。

「今から私が兄さんに質問をします。その答えが、私の握っていたコインの通りだったら私の勝ち。間違っていたら、兄さんの勝ちとします」

 そう言って千里は壁にかけてある鏡の前に立った。

「俺が賭けに勝ったら、その代弁インコがもらえるんだな?」

「えぇ。約束します」

 にこやかでありながら、千里の表情は曇っていた。俺は千里には勝算がないのかな、と思った。千里は昔から考えの足りないところがある。それを人に言われて初めて気が付きなおすという事がもっぱらだった。俺がゲームしていた頃そんなことはしょっちゅうだったから、よく覚えていた。

 俺は、いいだろう、と返事をする前に状況を少しだけ確認した。だが、千里はその返事を待つ前にコインをポケットへと閉まった。そして、それは俺にとってはラッキーだった。それがなければ俺はこの賭けでの確実な勝利には結び付かなかっただろうと思った。

 千里がポケットへと閉まったコインは『真』だ。何故それが解ったのか? 簡単だ。そして、千里は墓穴を掘った。

 鏡である。俺は眼がよかった。左右対称の『真』という文字は鏡に映っても反転することはなかった。更によく見れば千里はコインを後ろ手で隠す事もなく、不用心にも右手でポケットにしまったのだ。

 そして、内心焦った。この事がばれれば、代弁インコが俺の心を読む、賭けはイーブンの状態で再開されてしまう。それは必勝の味をしめた俺にとっては避けたい事態ではあった。

 けれども、杞憂だったようだ。俺は内心でほっと思い、顔には出さなかった。

「いいだろう、受けて立つ」

 ありがとう、と千里は礼を言った。礼を言いたいのはこちらの方だ、笑みが漏れてしまうのではないかと思ったが、ポーカーフェイスはお手の物だった。

 そして、千里は質問を提示した。

「兄さんが、私の事をどう思っているのか? ということです」

 意外にも簡単な質問が来たな、と思ったけれども千里はさらに条件を付け加えてきた。

「ただし、妹とか家族であるとかで応えた場合は兄さんの負けです。具体的に私の事をどう考えているのかを答えてください」

 それも当然ではあるだろう、と思いながら今の言葉にどこか引っかかるものを覚えた。

 考えようとしたが、千里は制限時間を設けた。三分。短いようで、意外に長いのが三分である。カップ麺が出来あがるのも、ウルトラマンが地球から地上で戦えるのも同じ三分ではあるが長く感じるのと同じ理屈であった。

 俺は違和感を考えるのをやめた。確かに、三分は長い。けれどもあっという間だ。

 そして、俺は時間ぎりぎりまで待った。最初の一分ほどで答えはまとめた。残りの二分で千里がコインをすりかえるのではないかと言う事を危惧して見張っていた。急いで答えるのはしたくなかった。これは勝てる戦いなのだ。ならば、余裕を持たなければならない。焦って勝つと言うのは見ていて気持ちのいいものではない。インカの黄金をやりながら、俺はそういう価値観を持つようになった。

「……時間です」

「あぁ、じゃ言うぜ」

 はっきりと言って、俺はこの答えを言うのはためらいがあった。けれども、そう思っているのだ。ここで嘘をついてしまったら俺は負けてしまう。そして、嘘を言った場合でも結局代弁インコが俺の心を読んで千里には俺の本心がばれてしまう。

 あぁ、八方ふさがりだなぁ、そんなことを思ってから俺の思いを千里に告げた。


「俺はお前の事を便利で可愛い、手駒だと思っている」


 そう、思っている。そして、代弁インコも俺の心を繰り返した。

『俺はお前の事を便利で可愛い、手駒だと思っている』

 千里はその言葉を聞くとうつむいた。あぁ、ショックだったのだな、と俺は思った。こいつがブラコンなのはよく知っている。俺のお願いで、吟哲の娘をいじめてくれたくらいだからな。

 そう、今になって吟哲の娘をずたぼろにしようと言う気になったのは、二つある。ただし、同時にではない。ラグがある。

 一つは、ゼンジのバカのミスで知ることになった俺達『グループ』を追っている連中のなかに、吟哲が混じっていた事だ。あまり実入りのいい仕事ではなかったけれども、邪魔されたのはちょっと不快だった。

 二つ目は――千里がいじめられたということだ。稲見中の情報網に頼み、千里の髪に鳥の糞をかけられたという事件を調べてもらったら、やはりこれも吟哲の娘が絡んでいるという事を知った。

 妹がいじめられてその報復。と言えば聞こえはまだましだけれども、その実、俺の心の中で渦巻いていたのは自分のものである妹を汚された事に対しての怒りであった。病んでいるシスコンだな、自嘲した。

 どの理由も俺の私的なものだった。『グループ』のメンバーは小刀祢や美鈴を除いて、享楽的で破滅的な思考を持っている人間が多い。だから、『楽しそう』と言う愉楽の感情で動いてくれる。それに今度の中学生を犯すということも、犯罪であるという事が彼らを駆り立ててくれたのだ。

 彼らには彼らの目的があって、俺には俺の目的がある。それだけのことだ。

「……一つ、いいかな、兄さん」

「なんだ?」

 千里は顔をあげた。厳めしい面だ。その顔を見て、俺はどこか不安に思った。見た事がある。いや妹の顔なのだからそれは見た事があるのだが、千里の表情はゲームをしていた時に見た事がある。

 そう、それは逆境を跳ね返し、運を味方につけ、何より確信して見せる――勝者の表情だった。

「本当に、その答えなんだね?」

「しつこいぞ、千里。男に二言はない、なんて言わないがな」

 俺は焦慮を隠せないでいた。その胸中に渦巻いていたのは不安だ。たかが賭けごと、そう言えばまだ千里は自分が何を俺に要求するかも言っていない、けれども言いしれぬ惧れが俺を虜にした。

 千里は、ヒントその一、と言った。

「私は、妹や家族と言ったら負けるといったけれども、言ってはいけないとは言っていない。それはどうしてでしょう?」

 千里は、ヒントその二、と言った。

「私は、私の後ろに鏡がある事を知っていました。それは何故でしょう?」

 千里は、ヒントその三、と言った。

「本当に、私が見せたコインは二枚だけだったのでしょうか?」

 俺はそこまで聞いて、勘づいた。だが、認めることができなかった。

 まさか、まさか、まさか――!

 千里はゆっくりと左手を開いた。

 そこにあったコインは――


『真』の文字が書かれていた。


「ば、バカな!?」

 俺はそうとしか言えなかった。だが、千里が言ったヒントはすべて理にかなっている。そして、俺が感じた違和感をもっと突き詰めて考えればよかったと思った。しかし、それも無理だったと思ってしまう。

 なぜならば、俺は餌をぶら下げられて走る馬と一緒だったからだ。その餌は鏡。鏡の情報が俺をはめた。

 人間は五感を信頼しきっている。そして、心は本当の意味で記録を残せないから忘れてしまう。

 つまり、俺は負けるしかなかったのだ。俺が可愛く、便利であると思った手駒の妹に俺はまんまとはめられ、妹の計算の通りに事を運んでしまったのだ。

 敗北感に打ちひしがれていた。しばらく、まともにものを考える事が出来なかった。

 だが、三分ほど無言の時間が続いてから俺は千里に尋ねた。

「これは、本当お前一人で考えた事なのか?」

 妹の成長を認められなかったからなのか、納得がいかなかったからなのか、恐らく両方の思いで俺は疑問を言葉にした。

 妹は首を横に振り、自分の肩にとまっている代弁インコを指差した。

「全部、インちゃんが考えたことだよ」

「……バカな」

 負けを認められないほど、自分の往生際が悪いとは思っていない。そして、俺は確かに賭けたし、二言はないとも言った。言ってしまったからには守らなければ、俺のプライドが許さない。

 しかし、俺は腹が立っていた。自分にだ。俺は人に負けたのではなく、それ以下の畜生に負けたのだ。

『インちゃんは畜生じゃないでしょ!』

 代弁インコは俺の心を読んだのかでかい声で言ってきた。だが、その言葉も俺の頭には入ってこなかった。

「……俺は何をすればいい?」

 千里の顔を見ないで言った。千里もまた俺の顔を見ないで言ってきた。

「今後、吟哲や夕紅に危害を加えないでください」

 聞いて、俺は千里の顔を見た。

「どういうつもりだ? お前は吟哲の娘をいじめていただろう?」

「兄さんは変わりました」

 何を言って、という言葉を千里は言わせなかった。俺の言葉をとって、間髪いれずに続けた。

「それを私は責めません。昔の優しい兄さんに戻って欲しいとも思っていますが、それを強要することはしませんし、出来ません。すべて、自分で決めた事です。兄さんも、私も。だから、私も変わりました。それを兄さんにとやかく言って欲しくはありません」

 あぁ、と思い俺は気がついた。それを口にした。

「俺が上げた赤縁の伊達メガネはどうしたんだ?」

 千里はそう言うと懐からメガネケースを取り出し、俺に差し出した。開けると赤縁のメガネが入っていた。

「ブラザーコンプレックスは、やめます。私はもう兄さんを頼ったりしません。兄さんもそのつもりでいてください」

「……誕生日プレゼントを今になってつき返す礼儀知らずだとは思わなかったけどな」

 笑いながら、俺は言った。けれど嘲弄するつもりはない。千里が自分で決めたことだ。そう、俺と同じように。

 メガネを良く見る。レンズに瑕もなく、鼻あてのところも綺麗だった。フレームもまっすぐだった。

「大事に使ってくれたようだな」

「ブラコンでしたから」

 苦笑して、俺は意地の悪い問いを始めた。

「お前は今後と言った、だが、俺の悪意は今、吟哲の娘に襲おうとしている。それは無視していいのか?」

 千里はこう答えた。


「いいですよ」


 俺は驚いた。そして、笑う。口先だけだったのか、と。

 けれども、千里はつぶやく。

「信じていますから」

 誰を、と問う前に千里は語った。それに唱和する形で代弁インコも告げた。

『「吟哲を――」』

 その言葉で、俺は自室に置いてある吟哲の娘を犯す手筈になっている廃工場から送られてくる映像を見れるディスプレイを観に行った。

 その画面に映っていたのは――


◆◇◆◇◆


 どうして、信じているのだろう。

 どうして、信じられるのだろう。

 どうして、信じたいのだろう。

 どうして――信じていられるのだろう。

 私が胸中に浮かべた自問は、似ているけれどもすべて違う事を問うていた。

 けれども、私はそれが不信からきているものとは思えなかった。自分にすら嘘をつくのが心の理だったけれども、私はただひたすらに吟哲さんを信じた。それは陰に属した盲目ではなく、眼を開いて確かに信じあえる陽のものであった。

 いよいよ、私は廃工場に連れて行かれた。何回かに分けて車を乗り継ぎ、複雑にこの廃工場を目指したけれどもここが稲見市の南にある取り壊しが決まっていた廃工場であることは解った。

 電気はまだ生きているようで、もしくは別なところからケーブルをひっぱてきたのだろう、まぶしいばかりの照明が暗い廃工場を照らしていた。

 男達は十人ほどいた。けれども、その中に私が信じている吟哲さんの影はなかった。

 オラッ、と言って私は突き飛ばされた。そして、私を取り囲むように男達が迫ってきた。

 夢の中で犯される感覚は味わった。けれども、それは夢だ。痛みも、傷痕も、いずれ消えてしまう。

 そして、これは現実で痛みはずっと尾を引き、傷痕は私にこの出来事を思い出させるだろう。

 照明の逆光で男達の表情は見えない。けれども、不気味に光る歯が私に恐怖を駆り立てた。

 許しを請いたかった。泣いてしまいたかった。叫んでしまいたかった。

 けれども、許しは請わない。私には非なんてなかったのだから。けれども、泣かなかった。私はこんな男達に屈する事なんてしたくなかったのだから。

 そして――叫ばなかった。私は喋れなくなって初めに出す言葉がそんな目を覆いたくなるような弱音を、男たちを喜ばせるような悲鳴を、助けてという泣き言を、私は叫びたいなんては思わなかったのだから。

 にじり寄ってくる男達をキッ、と睨みつける。

「いいね、いいね」「気の強い女ってどうしてこううまそうなのかね?」「ほんと、それが壊れるのが面白いからじゃね?」「あ、ヤベ、辛抱たまんねぇ」「おい、どうするいきなり挿れちまう?」「じゃ、俺口で」「それよりさ」「まず、剥こうべ」「あ、靴下は残しとけよ?」「よっさん、マジヘンタイだな」

 男達は笑いあって、猥談を続けながら私の服を脱がせようした。

 だが、それは出来なくなった。軽い音がしてから、一人の男がよろめいたのだ。

「イってぇ―――――――――――――ッ!」

 私の視線は下に向けられる。男の頭にぶつかったのは小石のようだった。

「あ? なにこれ? あっかー」

 男はぶつかったところに手を触れた。男の手は赤く染まっていた。

 それが血であると気づいてから、男達はパニックになった。冷静な奴は小石が飛んできた出口の方を見た。

 ちょうど、夕焼けがバックになっていた。

 一人の男が立っていた。体格はよさそうだ、だが顔は見えない。

 けれども、私は知っている。

 のどから声を出して呼びたかったけれども、口をその人の名の形に歪めたけれども――まだ私は声が出せないでいた。

 歯噛みする思いだった。インちゃんがそばにいるときはそんなことも考えなかったけれど、欲が出たんだろう。

 そう、欲だ。

 私が、一番愛している人の名前を呼びたいという欲。

 彼の名を――水元吟哲。

 私の――お父さんだった。


◆◇◆◇◆


 異邦人に驚いているようだ。だが、私が攻撃を加えた事で敵である事を彼ら『グループ』は認識していた。数は十人。一対十では分が悪い。と考えるのは素人だ。確かに一対十ならば一の方が不利だ。けれども、それは統制されたリーダーがいて障害物の少ない平地ならばだ。

 口汚く罵ってくる奴が六人、それに耳を貸さず、眼は動きだした二人に向けた。残り二人は、勝手に動き出した仲間を止めようと声をかけている様子だった。その中にゼンジ、と一樹に呼ばれた男が立っていた。

 向かってきた男達は手近に有った鉄パイプをとり私に襲いかかった。シンプルなものだ。そして、二方向から襲ってくる。成程、少しは道理が解っているらしいな……チンピラ風情が。

 私はポケットにしまっていた小石を掴み、左から襲ってきた男の額を狙い投げる。左の男はよろめいて、鉄パイプをとり落とした。額から派手に血が流れ出る。

 右の男は私の隙、だと思っている、を突いて鉄パイプを振り下ろした。スピードが乗っているから消して遅くはない。だが、単調だ。私は半身をそらし、鉄パイプをかわした。だけではなく、回転して裏拳を男の向かってきた左頬にかました。対して力を入れたわけではない。だが、男自身のスピードや私が当てた頬の位置がジャストミートしたのだろう。男は吹っ飛んで気を失ったようだ。

 私は左の男の意識を失わせてから、彼ら『グループ』に尋ねた。

「君たちは、私の娘にまだ手を出していないのかな?」

 男達の間にどよめきが走った。ゼンジという少年は、私のしたことを見てまず怒りよりも惧れが走ったようだ。

 自分の強さに自信なんてものはなかったが、ゼンジの態度は正しいように思えた。

 私は、私の思う強さを手に入れたことはないが――彼らより強いという強さは持っているのだから。

 彼らのうちの小柄な男が語りだしてくれた。

「あ、え、その……む、娘さんは無事っす!」

 仲間への背信、それを彼は考えていなかった。彼らの軽薄さはある意味予想通りで見ていて苛立ちよりも胸がすくような思いを駆り立てる。

 だから、私は言ってやった。

「そうか、ありがとう。私はこれから君たちをぶちのめそうと思っている」

『グループ』に焦りが走る。口々に私への不平を言い始める。そんなものは聞かなかった。私は彼らの敵で、彼らは私の敵なのだから。そんなことも理解できていない、彼らの幼さに私はこれから気をつけようと、と思った。夕紅をこんな恰好の悪い大人にしないためにも、と。

 君たちには二つの罪と二つの悪がある、指を立てて私は告げる。

「君たちは罪もない会社員から卑劣な行為で彼らの給金を奪った。そして、君たちは何も悪くない娘に恐怖を与えた。これらが、君たちの二つの罪だ。そして、君たちの悪は――無恥である事。恥を知りたまえ、大人なのだから」

 最後に残った人差し指を折って、言う。強い言葉で。

「そして、最後の悪は――弱いことだ」

 どうやら、外道ではあっても生意気にもプライドはあるらしい。無為に無策に――無謀に立ち向かってきた。

 獲物は色々。鉄パイプ、木材、ナイフ、バール、鉄鎚、変わりどころではスタンガンと言ったものまである。

 だが、それも下策。スタンガンは隠してこそ威力が上がるものだ。最初から抜き身で持ち出すものではない。それでも脅威であることは間違いないだろうが、私にはラッキーなことにスタンガンを持った敵は一番先頭に来てくれた。矢張り統率と言うものは大切なスキルだ、と場違いに思った。

 突きだすスタンガンを持った手首を蹴りで跳ね上げる。スイッチを入れたままのスタンガンは主の意思に背いて、彼らの仲間に襲いかかった。それのおかげで私の敵は減ってくれた。ありがたいことだ。

 その礼に私は仲間の事を心配して不覚にも声をかけた男を殴り飛ばす。と言っても顎をヒットさせただけだ。見た目は地味かもしれないが簡単に崩れ落ちた。

 しかし、私にもダメージがあった。これこそ地味であるが、拳だ。徒手格闘において拳でやり合うというのは実際は間違った手法である。使うならば掌底。そちらの方が手を傷めないで済む。

 やはり久しぶり、二十年くらいだろうか、の喧嘩はなれないものだ。

 感電して倒れた男も含めて残りは六人。そのうちそれでも戦意盛んなのは四人と言ったところだ。

 次に来た男は鉄パイプを突きだしてきた。それは私も予想外だった。武器を持った相手と戦う事で最もガードがしにくいのは突きである。その心得がこの男にあるとは思えないが、第一武器に関しての素人の私ですらわかるほど構えがなっていなかった、それでもその攻撃は私にとって防ぎきれるものではなかったのだ。

 けれども、完全に防ぎきることは確かにできなかったが、半身にそらし右手手で払う事で受け流す事は出来た。スーツが汚れてしまうことになったのは幸中の不幸であったが。

 そして、そのまま肘を鳩尾にぶつける。男の呼気の仕方が耳に届いたが、悲惨なものだ。やった本人が言うのもあれだが、大変そうだな。

 次に来る相手にまではまだ距離がある。私は彼らの武器を手に取った。とりあえず、一番危険で、一番使いにくい、スタンガンを手にすることにした。

 だが、武器を持つことは徒手で戦う事よりも難しい。まぁ、メリケンサックやベアクローと言った手にはめて使う武器ならその要領は似通ったものである。それでも、扱い方は変わらざるを得ないのだが。

 そして、屍山血河よろしく、殺してはいない冗談だ、地に伏した仲間達を見て敵は私を包囲する形をとった。立ち向かってきている敵は残り四人。ちょうど前後左右に位置する形で私を睨みつけている。その形相はどれをとっても鬼のような面構えではあったが、その実戦々恐々としているのが手に取るように解った。

 だから、誰も私を睨むだけで先んじて攻め入ってこようとはしない。だが、私の方も中々に踏み込めないでいた。踏み込んだら最後、残りの方角すべての敵が私の背後を突く。

 ただし、私が立っていれば――だ。

 私は身をかがめ右手側に立った男を足払いで転ばした。男はそのスピードについていけなかった様子だ。簡単に転んでくれた。

 だが、武器を手放さない。私はその事だけは褒めて、獣のように走り右手に持ったスタンガンで男を気絶させた。

 そして、私の予想通り男達は私の隙、これは確かに隙だった、を突き武器をそれぞれ振り下ろした。ここからが私の賭けで膝の屈伸を使い私が倒した男を飛び越えて転がるようにその猛攻から逃れた。私が身をかがめていたおかげで、相手は武器を振り下ろすしかできない。そして私に攻撃が届くまで少々、そして致命的な、時間がかかった。そのおかげで私は逃れる事が出来たのだ。

 素早く振り返り攻撃に備えた。だが、状況は一変する。

 向こうの方でモヒカン頭をしたゼンジと言う少年が何かを喋っている様子だ。反響して聞こえてきたが、なんと言っているのかは聞きとりにくかった。だが、仲間たちは聞こえたようで余裕のある笑みを浮かべ、だらしなく得物を構えてきた。

 その余裕がなんなのか私は理解した。こいつらは、この敵どもは一番私にしてはいけない事をしてしまったのだ。

 ゼンジという少年は私の娘――夕紅にナイフを突き付けていた。夕紅は可哀想に恐怖で顔をゆがめていた。何よりも夕紅が恐いと言うことも叫ぶことも出来なかったのは一番私の心を苦しめた。

「形勢逆転だな? おっさん」

 私はその言葉に怯まなかった。ここで怯んだなら私どころか、夕紅にまで害が及ぶ。それを阻止しなければならなかった。

「どこがだ、ゼンジ。その派手な頭でよく考えるんだ。今自分たちが助かっていられるのは誰のおかげであるか。誰に危害を加えれば自分たちが危ないかを、な」

 私の言葉はちょっと強すぎるきらいはあった。けれども、敬意に値しない敵どもは私の言葉で確認し合った。それは私を軽視したものではない。私に対して感じる怒りよりも恐怖が勝っている事を如実に私へ教えてくれた。

 私はそれを見ながら、恫喝する。私は自分の頬に傷がある事を産まれて初めて喜んだ。私の顔は地獄の鬼も裸足で逃げ出すほど凶悪であったのだから。

「――娘に手を出すな、さもなければ、お前たちが生まれてきた事を心の底から後悔させてやる。一秒たりとも私への恐怖を忘れないようにしてやる」

 敵どもは震えた。戦慄いた。怯えた。逃げ出す者さえいた。

 ここからは根競べである。私が勝つことは目に見えていたが、ここからは焦っては負けである。私にとっての負けが――夕紅への危害ということになったのが私は胸中で驚いていた。代弁インコがいたら『現金でしょ!』とか言ってきそうであったが、私はさしてそれを悪い気分で聞く事が出来なかった。

 一人、また一人と消えていく中でとうとう私とゼンジだけとなった。


◆◇◆◇◆


「クソ、近、近づくんじゃねえ!」

 私を片手で抱えナイフを首に突き付けた男が――吟哲さんを恐れながら一歩、また一歩と後退していった。私は恐怖でナイフに目がいっていた。けれども、時折吟哲さんを見る事だけはやめなかった。

「聞いてんのか! おっさん! 来んなって言ってんだろうが!」

「お前こそ聞け。夕紅を離してくれたら、私はお前に害を及ぼさない。それは確約しよう。ただし、夕紅の髪の毛一までも本切ったのなら私はお前を許さない」

 吟哲さんの声は優しかった。優しい、と感じるのはちょっとおかしいかもしれないが、私に対してもそうだし、私を掴んでいる男に対しても優しかった。今の吟哲さんは見た事がないくらい慈愛に満ちていた。

 いや、違う。

 私はこんな吟哲さんを知っている。

 覚えてはいない。どこで見たのかも鮮明な記憶で思い出す事も出来ない。

 けれども、私は知っている。

 男との交渉、よく言えばそうだ悪く言えばなんだろう脅迫だろうか、をしながらも視線は男には向けていなかった。

 私だけを見ていた。私も、首に突き付けられたナイフへの恐怖を忘れて吟哲さんの瞳を見つめた。こうして、顔を見る事が出来た機会はいつ以来だろう。私は場違いにもそんな事を思い出していた。

 だが、それも長くは続かない。男の様子がおかしくなってきたのだ。

 吟哲さんの譲歩は傍から聞けば、破格のものだ。男も逃げる条件が整いつつあったのに、その条件を無視してきた。

「ち、畜生! ぶっ殺してやる!」

 そう言って、男はナイフを振り上げた。

 私は、目をつぶった。

 次の瞬間、顔に温かい感触が飛んできた。

 それがなんなのか、鼻孔からは鉄の匂いが飛んできた。

 けれども、私のものではない。それならば痛いはずだ。しかし、夢のように痛みはなかった。

 恐る恐る、眼を開く。

 目の前にあったのはナイフの先端。そして――


 血に塗れた吟哲さんの右手だった……


 男は自分の犯したことにようやく気付き悲鳴をあげて立ち去っていった。

 吟哲さんは、ナイフを右手から取った。こういう時はナイフは取らない方がいいんだっけ、悪いんだっけと私は間違ってはいないが場に合わない事を考えていた。それを正し、私は言葉を出そうとする。大丈夫? と。

 しかし、出ない。私は自分の声が出せない事をこれほどまでに恨んだことはなかった。

 何故、私はこんななのだろう。何故、私は弱いのだろう。何故?

 疑問は尽きなかった。けれども、その思いは吟哲さんの行動で吹き飛んだ。

 両腕私の体を抱きしめた。

 私は、吟哲さんの腕がこんなに太い事を知らなかった。

 私は、吟哲さんがこんなふうに涙を流す事を知らなかった。

 そして――

「大丈夫か、夕紅。恐かっただろう? ごめんな、こんな目にあわせて。悪い、こんな悪い父さんで」

 私は、吟哲さんがこんなにも私を思ってくれている事を知らなかった。

「……さ……ん」

 私は泣いていた。何故泣くか、今度の理由はちゃんと解った。けれども、一言で表すにはあまりにも複雑で、簡単に言ってしまう事が勿体なく思えた。

 そして、私はようやくその言葉を自然に言えた事を嬉しく思った。

「……お父さん!」


◆◇◆◇◆


「これで、終わったの、かな?」

 瑠璃は廃工場の中で抱き合いながら涙を流す親子を見ながら彦作に尋ねた。

「あぁ、終わった終わった。でも、吟さんもカッコつけ過ぎだろう? 『娘にカッコいいところを見せたいから、私一人にやらせてくれ』とかさ?」

「たしかにな」「がはははは、熱いからいいじゃねーか?」「錦司は暑苦しいけどね」「……おい、久吾ボソッといったのが聞こえたぞ?」「あ? 聞こえるように言ったから、当たり前だろう? それとも耳まで遠くなったのか?」「がははははは……殺す!」「やってみろ! この木偶の棒が!」

 錦司と久吾は相変わらずだな、と思いながら瑠璃は前時代的に縄で縛ってある『グループ』を見た。けれども、不思議と悪感情は浮かんでこない。許す気はまるでなかったけれども、それでも、だ。

 瑠璃の視線に気が付いたのだろう。彦作が寄り添ってきた。

「気が済んだ、瑠璃ちゃん?」

「あ、う、うん。でも、私たちのしたことって無駄だったのかな?」

 瑠璃はそう思う。結果としては吟哲の娘、夕紅を救う事が出来た。けれども、私たちのしたことはしなくてもよかったことだ。それは悪を許すつもりはないが、吟哲の一助になったとも思えない。

 彦作は言い放った。断言する形で。

「確かに、無駄かもね」

「え?」

 それに続く言葉で瑠璃は頷いた。確かに、と思ったからだ。

 彦作はにこやかに――

「楽しかったから、いいんじゃないか?」

 相変わらず、喧嘩をしている錦司と久吾を見ながら救急車と警察を呼んでいた。


◆◇◆◇◆


「あはははは――」

 俺は、笑っていた。笑うしかない。

 計画はすべてパァ、だ。まさか実際パァ、なんて間の抜けた言葉を使うことになろうとは思いもしなかった。

「千里」

「何、兄さん」

 千里は、こんな俺をまだ兄さんと呼んでくれた。気がつくと、千里の肩にとまっていたはずの代弁インコは何処かへ消えていた。

「俺は、お前との賭けに負けた。それだけじゃない。吟哲にも、負けた」

 しかし、不思議と憎悪は消えていた。俺はきっと糺されたかったのだろう。間違っている俺を。

 傍迷惑な話だったな、自嘲をこめて思った。


「契約は守る。そして、俺はどことなり消える」


 俺の言葉を千里は淡々と聞いていた。どこへ行くのか、ということも千里は聞かなかった。もっとも、俺の方も言うつもりはなかった。

「いい、女になったな。千里」

「惚れないでくださいね」

 笑わせる、俺はそう呟いてもう一度笑った。


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