↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

世界の綻び

11: 雨の日の階段

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

雨の日は、嫌いではなかった。

傘を差さなければならないし、靴も濡れる。洗濯物も乾かないし、電車が遅れることだってある。それでも、雨が降ると、いつもの町が少しだけ違って見える。

車の音が遠くなる。看板の色が濡れた道路に映る。普段は気にも留めない路地の奥まで、なんとなく覗いてみたくなる。

その日も、学校からの帰り道に雨が降っていた。

私は傘を片手に、いつもの商店街を抜けようとしていた。家までは、ここから歩いて十五分ほど。寄り道をするつもりはなかった。

けれど、ふと、足が止まった。

古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。

今まで何度も通っている場所なのに、見覚えのない細い路地があった。

「あれ? こんなところに道なんてあったっけ?」

思わずつぶやき、私は路地の奥を覗き込んだ。

路地の奥には、石造りの階段が続いていた。

幅は一人が通れるくらいしかない。両脇には古い塀があり、階段の先は雨に煙ってよく見えなかった。

私は首を傾げた。

こんな場所、昨日まではあっただろうか。 いや、昨日もここを通ったけど、まったく覚えがない。

スマートフォンで時間を確認した。まだ、いつもより早い時間だった。

少しだけなら、いいか。

私は傘を持ち直し、階段を上り始めた。

石段は雨で濡れていた。滑らないように気をつけながら上っていくと、やがて視界が開けた。

そこには、小さな商店街が広がっていた。


「……え?」


思わず声が出た。

確かに、見覚えのある町並みだった。

古い八百屋。小さな本屋。店先に植木鉢を並べた喫茶店。どれも、私の住む町にありそうなお店ばかりだ。

けれど、こんな商店街は知らない。

通りは狭く、建物の壁には昔ながらの看板が掛かっている。軒先からは雨水がぽたぽたと落ち、道の端には小さな水たまりができていた。

不思議なことに、ここには雨の音がよく響いていた。

私は傘を差したまま、ゆっくり歩き始めた。

すると、八百屋のおじさんが、店先から顔を出した。

「あれ、今日は一人かい?」

私は立ち止まった。

「……え?」

「おや、どうしたんだい。そんなに驚いて」

おじさんは、気さくに笑った。

私は困ってしまった。

もちろん、こんな人を知っているはずがない。

「あの……私のこと、知ってるんですか?」

「何を言ってるんだい。知ってるよ」

おじさんは、当たり前のように答えた。

「ずいぶん大きくなったねえ」

私は、ますます困惑した。

人違いだろうか。

そう思っていると、今度は向かいの本屋から、おばさんが顔を出した。

「あら、ほんと。千夏ちゃんじゃない!」

千夏。

私の名前だった。

どうして、この人たちは私の名前を知っているのだろう。

「あの、私……」

何か聞こうとしたとき、おばさんは嬉しそうに続けた。

「おばあちゃんは元気?」

私は、言葉を失った。

おばあちゃん?

どうして、おばあちゃんのことまで知っているのだろう。

「……元気ですけど」

ようやく答えると、おばさんはほっとしたように笑った。

「そう。それならよかった」

それだけ言うと、おばさんは本屋の中へ戻っていった。

私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

ここは一体、何なのだろう。

知らない町なのに、みんなが私を知っている。

しかも、おばあちゃんのことまで。

私は、もっと先へ行ってみることにした。

通りを進むと、小さな喫茶店があった。

窓際には、古い木のテーブルと椅子が並んでいる。店の看板には、手書きで「雨宿り」と書かれていた。

なんだか、このお店の名前が気に入った。

扉を開けると、カラン、と小さなベルが鳴った。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうにいたおばあさんが、顔を上げた。

そして私を見ると、目を細めた。

「あらあら。今日は傘を持っているのね」

私は思わず、自分の傘を見た。

「……はい」

「前は、いつも忘れていたものねえ」

おばあさんは、くすくす笑った。

私は、何も言えなかった。

傘を忘れていた?

いつ?

こんな店に来たことさえないのに。

「あの……私、ここに来たことがあるんですか?」

そう尋ねると、おばあさんは不思議そうに首を傾げた。

「あるでしょう?」

「でも、私、覚えていなくて……」

「あら、そうなの」

おばあさんは、少しだけ寂しそうに笑った。

「小さい頃のことは、忘れてしまうものね」

小さい頃。

私は、その言葉を頭の中で繰り返した。

もしかして、私は以前ここに来たことがあるのだろうか。

けれど、こんな場所に来た記憶はまったくなかった。

おばあさんは、カウンターの上にあった小さな缶を開けた。

「これ、好きだったでしょう?」

中には、色とりどりの飴玉が入っていた。

赤、黄色、青、緑。

どれも小さくて、透明な包み紙にくるまれている。

私は、その中の青い飴玉を見つめた。

なぜだろう。

初めて見るはずなのに、ひどく懐かしい気がした。

「……これ、もらってもいいんですか?」

「もちろん」

おばあさんは、青い飴玉をひとつ、私の手のひらに置いた。

「またおいでね」

私はお礼を言い、店を出た。

手の中の飴玉は、雨の日の光を受けて、きらりと青く輝いた。

私は包み紙を開け、口に入れた。

ほんのり甘くて、少しだけ酸っぱかった。

そして、不思議なことに、その味を私は知っているような気がした。

どこで食べたのだろう。

考えてみても、思い出せなかった。

通りの奥には、まだ小さな店が続いていた。

古道具屋には、見たことのない形の時計や、木でできた小さな人形が並んでいる。花屋には、見慣れた花に混じって、名前の分からない花が咲いていた。

道を歩く人たちは、みんな私に声をかけた。

「今日は一人なの?」

「学校はどうだった?」

「また遊びにおいで」

まるで、私が昔からここに通っていたかのようだった。

私は、そのたびに曖昧に笑って答えた。

どうして、みんな私を知っているのだろう。

そして、どうして私は、みんなのことを覚えていないのだろう。

やがて、通りのいちばん奥に、小さな写真館が見えてきた。

扉の横には、古びた看板が掛かっていた。

私は、なんとなく足を止めた。

窓辺には、古い写真が何枚も飾られている。

昔の商店街。運動会。家族写真。子どもたちが並んで笑っている写真。

私は、その中の一枚を見て、息を呑んだ。

小さな女の子が、おばあさんに手を引かれて立っていた。

女の子は、赤い傘を持っている。

その顔には、見覚えがあった。

私だった。

頬が丸く、髪は短く切りそろえられている。今の私とはずいぶん違うけれど、目元も、笑い方も、確かに私だった。

写真の隅には、見覚えのある文字が書かれていた。

『千夏、四歳。雨の日のお散歩』

私は、写真に顔を近づけた。

どうして、こんな写真がここにあるのだろう。

しかも、隣にいるおばあさんは、私のおばあちゃんだった。

そのとき、写真館の奥から、白髪の男性が現れた。

「おや、見つけたね」

私は振り返った。

「あの、この写真……」

「ああ。ずいぶん昔の写真だよ」

男性は、懐かしそうに笑った。

「君が小さかった頃、おばあちゃんとよく来ていたんだ」

私は、写真を見つめたまま尋ねた。

「……本当に、私なんですか?」

「そうだよ」

男性はうなずいた。

「雨の日になると、おばあちゃんと一緒にここへ来ていた。飴を買って、本屋で絵本を見て、最後にこの店で写真を撮っていったんだ」

私は、何も言えなかった。

「でも、ある日から、ぱったり来なくなった」

男性は、窓の外へ目を向けた。

「大きくなれば、忙しくなるものね」

私は、写真の中の自分を見つめた。

あの飴玉。

古い本屋。

「ずいぶん大きくなったね」と言った八百屋のおじさん。

少しずつ、何かがつながっていくような気がした。

でも、記憶は戻ってこなかった。

「また、来てもいいですか?」

気づけば、私はそう尋ねていた。

男性は、嬉しそうに笑った。


「もちろん。階段が見つかればね」


私は、首を傾げた。

「階段?」

男性は、何も答えなかった。ただ、窓辺に飾られた写真に目を向け、懐かしそうに微笑んだ。

そのとき、店の外から、雨の音が少しずつ弱まっていることに気づいた。

私は慌てて店を出た。

商店街の向こうを見ると、さっきまで見えていた通りが、薄い霧に包まれていた。

階段の方へ戻らなくては。

私は急いで歩き出した。

八百屋のおじさんが、店先から手を振った。

「またおいで!」

本屋のおばさんも、笑顔でうなずいた。

喫茶店のおばあさんは、扉のところに立っていた。

「今度は、晴れた日にも来られるといいねえ」

私は、思わず振り返った。

「えっ? でも、雨の日にしか……」

言い終える前に、遠くで雷が鳴った。

その音に驚いて、私は一瞬、目を閉じた。

再び目を開けると、私は階段の上に立っていた。足元から、見慣れた路地へ続く石段が下へ伸びている。

振り返ると、さっきまであった商店街は、跡形もなく消えていた。

そこには、雨に濡れた塀しかなかった。

私は傘を持ち直し、ゆっくりと階段を下り、いつもの商店街へ戻った。

時計を見ると、学校を出てから、まだそれほど時間は経っていなかった。

夢だったのだろうか。

けれど、口の中には、あの青い飴玉の甘酸っぱい味が残っていた。


帰宅すると、おばあちゃんが居間でお茶を飲んでいた。

「おかえり。今日は遅かったね」

「ただいま」

私は鞄を置き、少し迷ってから尋ねた。

「ねえ、おばあちゃん。小さい頃、雨の日に、どこかの商店街へ連れていってくれたことってある?」

おばあちゃんは、湯飲みを持ったまま、目を丸くした。

「……あら」

その表情を見て、私はどきりとした。

「どうして、そんなことを聞くの?」

「今日ね、変なところに行ったの。知らない商店街なのに、みんな私のことを知っていて……」

私は、今日あったことを話した。

古い八百屋も、本屋も、喫茶店も。写真館で見つけた、四歳の自分の写真のことも。

おばあちゃんは、最後まで黙って聞いていた。

そして、話し終えると、懐かしそうに笑った。

「そう……。あの階段、まだあったのね」

「えっ?」

「小さい頃、あなたを連れてよく行ったのよ。雨の日だけ、あの階段が見つかるの」

おばあちゃんは、遠くを見るような目をした。

「あなた、あの町が大好きだったの。いつも、帰りたくないって泣いていたわ」

私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「どうして、教えてくれなかったの?」

おばあちゃんは、くすくす笑った。

「だって、あなた、すっかり忘れていたでしょう?」

「……うん」

「人は、大きくなると、いろんなことを忘れてしまうのね」

そう言って、おばあちゃんは私の頭を撫でた。

私は、鞄の中を探り、青い飴玉の包み紙を取り出した。

まだ捨てずに持っていたのだ。

「これ、もらったの」

おばあちゃんは、それを見ると、目を細めた。

「まあ。あのお店の飴ね」

私は驚いた。

「知ってるの?」

「ええ。あなた、いつも青いのを選んでいたもの」

私は、包み紙を手のひらに乗せたまま、しばらく眺めていた。

やっぱり、夢ではなかったのかもしれない。

それから何日かが過ぎた。

雨が降るたびに、私はあの路地を探した。

商店街の角。古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。

けれど、階段は見つからなかった。

何度探しても、そこには細い路地さえなかった。

少し残念だった。

でも、いつかまた見つかるような気がしていた。


そして、ある雨の日。

学校からの帰り道、私はふと足を止めた。

古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。

そこに、見覚えのある石段があった。

私は、傘を持ち直した。

階段の上から、誰かの声が聞こえた気がした。

「千夏ちゃん、待ってたよ」

私は、思わず笑った。

そして、一段目に足をかけた。

今度は、どんな景色に出会えるだろう。

そう考えると、雨の日が少しだけ楽しみになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。