11: 雨の日の階段
雨の日は、嫌いではなかった。
傘を差さなければならないし、靴も濡れる。洗濯物も乾かないし、電車が遅れることだってある。それでも、雨が降ると、いつもの町が少しだけ違って見える。
車の音が遠くなる。看板の色が濡れた道路に映る。普段は気にも留めない路地の奥まで、なんとなく覗いてみたくなる。
その日も、学校からの帰り道に雨が降っていた。
私は傘を片手に、いつもの商店街を抜けようとしていた。家までは、ここから歩いて十五分ほど。寄り道をするつもりはなかった。
けれど、ふと、足が止まった。
古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。
今まで何度も通っている場所なのに、見覚えのない細い路地があった。
「あれ? こんなところに道なんてあったっけ?」
思わずつぶやき、私は路地の奥を覗き込んだ。
路地の奥には、石造りの階段が続いていた。
幅は一人が通れるくらいしかない。両脇には古い塀があり、階段の先は雨に煙ってよく見えなかった。
私は首を傾げた。
こんな場所、昨日まではあっただろうか。 いや、昨日もここを通ったけど、まったく覚えがない。
スマートフォンで時間を確認した。まだ、いつもより早い時間だった。
少しだけなら、いいか。
私は傘を持ち直し、階段を上り始めた。
石段は雨で濡れていた。滑らないように気をつけながら上っていくと、やがて視界が開けた。
そこには、小さな商店街が広がっていた。
「……え?」
思わず声が出た。
確かに、見覚えのある町並みだった。
古い八百屋。小さな本屋。店先に植木鉢を並べた喫茶店。どれも、私の住む町にありそうなお店ばかりだ。
けれど、こんな商店街は知らない。
通りは狭く、建物の壁には昔ながらの看板が掛かっている。軒先からは雨水がぽたぽたと落ち、道の端には小さな水たまりができていた。
不思議なことに、ここには雨の音がよく響いていた。
私は傘を差したまま、ゆっくり歩き始めた。
すると、八百屋のおじさんが、店先から顔を出した。
「あれ、今日は一人かい?」
私は立ち止まった。
「……え?」
「おや、どうしたんだい。そんなに驚いて」
おじさんは、気さくに笑った。
私は困ってしまった。
もちろん、こんな人を知っているはずがない。
「あの……私のこと、知ってるんですか?」
「何を言ってるんだい。知ってるよ」
おじさんは、当たり前のように答えた。
「ずいぶん大きくなったねえ」
私は、ますます困惑した。
人違いだろうか。
そう思っていると、今度は向かいの本屋から、おばさんが顔を出した。
「あら、ほんと。千夏ちゃんじゃない!」
千夏。
私の名前だった。
どうして、この人たちは私の名前を知っているのだろう。
「あの、私……」
何か聞こうとしたとき、おばさんは嬉しそうに続けた。
「おばあちゃんは元気?」
私は、言葉を失った。
おばあちゃん?
どうして、おばあちゃんのことまで知っているのだろう。
「……元気ですけど」
ようやく答えると、おばさんはほっとしたように笑った。
「そう。それならよかった」
それだけ言うと、おばさんは本屋の中へ戻っていった。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ここは一体、何なのだろう。
知らない町なのに、みんなが私を知っている。
しかも、おばあちゃんのことまで。
私は、もっと先へ行ってみることにした。
通りを進むと、小さな喫茶店があった。
窓際には、古い木のテーブルと椅子が並んでいる。店の看板には、手書きで「雨宿り」と書かれていた。
なんだか、このお店の名前が気に入った。
扉を開けると、カラン、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうにいたおばあさんが、顔を上げた。
そして私を見ると、目を細めた。
「あらあら。今日は傘を持っているのね」
私は思わず、自分の傘を見た。
「……はい」
「前は、いつも忘れていたものねえ」
おばあさんは、くすくす笑った。
私は、何も言えなかった。
傘を忘れていた?
いつ?
こんな店に来たことさえないのに。
「あの……私、ここに来たことがあるんですか?」
そう尋ねると、おばあさんは不思議そうに首を傾げた。
「あるでしょう?」
「でも、私、覚えていなくて……」
「あら、そうなの」
おばあさんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「小さい頃のことは、忘れてしまうものね」
小さい頃。
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
もしかして、私は以前ここに来たことがあるのだろうか。
けれど、こんな場所に来た記憶はまったくなかった。
おばあさんは、カウンターの上にあった小さな缶を開けた。
「これ、好きだったでしょう?」
中には、色とりどりの飴玉が入っていた。
赤、黄色、青、緑。
どれも小さくて、透明な包み紙にくるまれている。
私は、その中の青い飴玉を見つめた。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに、ひどく懐かしい気がした。
「……これ、もらってもいいんですか?」
「もちろん」
おばあさんは、青い飴玉をひとつ、私の手のひらに置いた。
「またおいでね」
私はお礼を言い、店を出た。
手の中の飴玉は、雨の日の光を受けて、きらりと青く輝いた。
私は包み紙を開け、口に入れた。
ほんのり甘くて、少しだけ酸っぱかった。
そして、不思議なことに、その味を私は知っているような気がした。
どこで食べたのだろう。
考えてみても、思い出せなかった。
通りの奥には、まだ小さな店が続いていた。
古道具屋には、見たことのない形の時計や、木でできた小さな人形が並んでいる。花屋には、見慣れた花に混じって、名前の分からない花が咲いていた。
道を歩く人たちは、みんな私に声をかけた。
「今日は一人なの?」
「学校はどうだった?」
「また遊びにおいで」
まるで、私が昔からここに通っていたかのようだった。
私は、そのたびに曖昧に笑って答えた。
どうして、みんな私を知っているのだろう。
そして、どうして私は、みんなのことを覚えていないのだろう。
やがて、通りのいちばん奥に、小さな写真館が見えてきた。
扉の横には、古びた看板が掛かっていた。
私は、なんとなく足を止めた。
窓辺には、古い写真が何枚も飾られている。
昔の商店街。運動会。家族写真。子どもたちが並んで笑っている写真。
私は、その中の一枚を見て、息を呑んだ。
小さな女の子が、おばあさんに手を引かれて立っていた。
女の子は、赤い傘を持っている。
その顔には、見覚えがあった。
私だった。
頬が丸く、髪は短く切りそろえられている。今の私とはずいぶん違うけれど、目元も、笑い方も、確かに私だった。
写真の隅には、見覚えのある文字が書かれていた。
『千夏、四歳。雨の日のお散歩』
私は、写真に顔を近づけた。
どうして、こんな写真がここにあるのだろう。
しかも、隣にいるおばあさんは、私のおばあちゃんだった。
そのとき、写真館の奥から、白髪の男性が現れた。
「おや、見つけたね」
私は振り返った。
「あの、この写真……」
「ああ。ずいぶん昔の写真だよ」
男性は、懐かしそうに笑った。
「君が小さかった頃、おばあちゃんとよく来ていたんだ」
私は、写真を見つめたまま尋ねた。
「……本当に、私なんですか?」
「そうだよ」
男性はうなずいた。
「雨の日になると、おばあちゃんと一緒にここへ来ていた。飴を買って、本屋で絵本を見て、最後にこの店で写真を撮っていったんだ」
私は、何も言えなかった。
「でも、ある日から、ぱったり来なくなった」
男性は、窓の外へ目を向けた。
「大きくなれば、忙しくなるものね」
私は、写真の中の自分を見つめた。
あの飴玉。
古い本屋。
「ずいぶん大きくなったね」と言った八百屋のおじさん。
少しずつ、何かがつながっていくような気がした。
でも、記憶は戻ってこなかった。
「また、来てもいいですか?」
気づけば、私はそう尋ねていた。
男性は、嬉しそうに笑った。
「もちろん。階段が見つかればね」
私は、首を傾げた。
「階段?」
男性は、何も答えなかった。ただ、窓辺に飾られた写真に目を向け、懐かしそうに微笑んだ。
そのとき、店の外から、雨の音が少しずつ弱まっていることに気づいた。
私は慌てて店を出た。
商店街の向こうを見ると、さっきまで見えていた通りが、薄い霧に包まれていた。
階段の方へ戻らなくては。
私は急いで歩き出した。
八百屋のおじさんが、店先から手を振った。
「またおいで!」
本屋のおばさんも、笑顔でうなずいた。
喫茶店のおばあさんは、扉のところに立っていた。
「今度は、晴れた日にも来られるといいねえ」
私は、思わず振り返った。
「えっ? でも、雨の日にしか……」
言い終える前に、遠くで雷が鳴った。
その音に驚いて、私は一瞬、目を閉じた。
再び目を開けると、私は階段の上に立っていた。足元から、見慣れた路地へ続く石段が下へ伸びている。
振り返ると、さっきまであった商店街は、跡形もなく消えていた。
そこには、雨に濡れた塀しかなかった。
私は傘を持ち直し、ゆっくりと階段を下り、いつもの商店街へ戻った。
時計を見ると、学校を出てから、まだそれほど時間は経っていなかった。
夢だったのだろうか。
けれど、口の中には、あの青い飴玉の甘酸っぱい味が残っていた。
帰宅すると、おばあちゃんが居間でお茶を飲んでいた。
「おかえり。今日は遅かったね」
「ただいま」
私は鞄を置き、少し迷ってから尋ねた。
「ねえ、おばあちゃん。小さい頃、雨の日に、どこかの商店街へ連れていってくれたことってある?」
おばあちゃんは、湯飲みを持ったまま、目を丸くした。
「……あら」
その表情を見て、私はどきりとした。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「今日ね、変なところに行ったの。知らない商店街なのに、みんな私のことを知っていて……」
私は、今日あったことを話した。
古い八百屋も、本屋も、喫茶店も。写真館で見つけた、四歳の自分の写真のことも。
おばあちゃんは、最後まで黙って聞いていた。
そして、話し終えると、懐かしそうに笑った。
「そう……。あの階段、まだあったのね」
「えっ?」
「小さい頃、あなたを連れてよく行ったのよ。雨の日だけ、あの階段が見つかるの」
おばあちゃんは、遠くを見るような目をした。
「あなた、あの町が大好きだったの。いつも、帰りたくないって泣いていたわ」
私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「どうして、教えてくれなかったの?」
おばあちゃんは、くすくす笑った。
「だって、あなた、すっかり忘れていたでしょう?」
「……うん」
「人は、大きくなると、いろんなことを忘れてしまうのね」
そう言って、おばあちゃんは私の頭を撫でた。
私は、鞄の中を探り、青い飴玉の包み紙を取り出した。
まだ捨てずに持っていたのだ。
「これ、もらったの」
おばあちゃんは、それを見ると、目を細めた。
「まあ。あのお店の飴ね」
私は驚いた。
「知ってるの?」
「ええ。あなた、いつも青いのを選んでいたもの」
私は、包み紙を手のひらに乗せたまま、しばらく眺めていた。
やっぱり、夢ではなかったのかもしれない。
それから何日かが過ぎた。
雨が降るたびに、私はあの路地を探した。
商店街の角。古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。
けれど、階段は見つからなかった。
何度探しても、そこには細い路地さえなかった。
少し残念だった。
でも、いつかまた見つかるような気がしていた。
そして、ある雨の日。
学校からの帰り道、私はふと足を止めた。
古い文房具店と、閉店したクリーニング店のあいだ。
そこに、見覚えのある石段があった。
私は、傘を持ち直した。
階段の上から、誰かの声が聞こえた気がした。
「千夏ちゃん、待ってたよ」
私は、思わず笑った。
そして、一段目に足をかけた。
今度は、どんな景色に出会えるだろう。
そう考えると、雨の日が少しだけ楽しみになった。




