「おしぼりをご査収ください」と言ったら、初バイト先で本部の偉い人扱いされた
初日の僕は、やる気が空回りしていた。
「いらっしゃいませー」
郊外のファミレス『グリル・フォーク小峰店』。
昼前の店内はまだ静かで、窓際に年配の夫婦が一組いるだけだった。
僕――菅野透、大学一年。
人生初バイト。
失敗が怖すぎて、三日前から接客敬語の本を二冊読み、動画を十本見て、ついでに「社会人として恥ずかしくない言葉遣い」みたいな記事も読み漁った。
その成果が、さっそく事故になった。
先輩バイトの大原さんが、おしぼりの入ったカゴを僕に渡す。
「じゃ、菅野くん。二番テーブルにおしぼり持ってって」
「承知いたしました」
僕は二番テーブルへ向かい、年配の夫婦に深く一礼した。
「本日はご来店いただき、誠にありがとうございます。こちら、おしぼりでございます。ご査収ください」
夫婦が、おしぼりを見た。
僕を見た。
もう一度おしぼりを見た。
奥さんが小さく言った。
「あなた、何かの偉い人?」
「いえ、新人です」
後ろで大原さんが吹き出した。
「ご査収って言うなよ! おしぼりだぞ! 契約書じゃねえんだから!」
顔が熱くなった。
やってしまった。
でも、ここで慌ててはいけない。慌てるとさらに事故る。それも本で読んだ。
「ご指摘ありがとうございます。以後、運用を見直します」
「だからその言い方なんなの」
大原さんは笑いながら、僕の肩を軽く叩いた。
「まあいいわ。緊張してんのはわかるけど、普通でいいから。普通で」
「普通、ですね」
「うん。ファミレスだから。国の会議じゃないから」
僕は深くうなずいた。
普通。大事。
よし。普通でいこう。
そう決めた五分後、店長が出てきた。
小峰店店長、三橋さん。
四十代前半。
体は大きいのに声は妙に小さい。
「菅野くん、初日だよね。まあ、無理せずやってね」
「恐縮です。ご期待に沿えるよう、誠実に努めます」
「う、うん」
「本日運用上、特に留意すべき点がありましたら事前に共有いただけますでしょうか」
「えっ」
「特にオペレーション上のボトルネックなど」
「えっ」
三橋店長が固まった。
そこへ大原さんが通りかかり、即座に言った。
「店長、気にしないでください。この子、敬語の育ち方だけちょっと変なんで」
「そ、そうなんだ」
「すみません、育ち方って何ですか」
「いまの店長の顔を見ろ。完全に“本部の人かも”って顔してるだろ」
三橋店長は露骨に目をそらした。
嫌な予感がした。
◇
その予感は、一時間で当たった。
ランチの客が入り始めたころ、キッチンから怒鳴り声がした。
「店長! ハンバーグソース切れそうです!」
三橋店長がびくっとする。
「あ、えっと、発注、今日だったっけ」
「昨日です」
大原さんが即答した。
「忘れてましたね?」
「……ごめん」
現場に微妙な空気が流れる。
僕は失敗を見逃せない性格ではない。
というより、見逃した結果自分に飛び火するのが怖い。
なので、つい聞いてしまった。
「念のため確認ですが、補充導線は確保されておりますか」
「え?」
「代替ソース、近隣店舗在庫、緊急時の判断基準などです」
「え、え、何?」
「現時点で欠品リスクが顕在化しているように見受けられますが」
「ちょっと待って」
三橋店長の顔色が変わった。
大原さんが天井を見た。
キッチンの中からパートさんが顔を出す。
「店長、本部チェック入ってるんですか?」
「ち、違うよ!」
「でもいま、顕在化って」
「菅野くんが勝手に難しく言ってるだけで!」
僕は慌てた。
「いえ、私は単なる新人です」
「新人が単なる新人の喋り方じゃないんだよなあ」
大原さんが言った。
だが時すでに遅し。
三橋店長は急にシャキッとし始めた。
「えーと、ソースはたしか倉庫に予備が一つ……いや、確認してきます」
「在庫の実在確認を先にお願いできますでしょうか」
「は、はい!」
店長が走っていった。
大原さんが僕を見た。
「お前さ」
「はい」
「いま、店長に“お願いできますでしょうか”って言った?」
「丁寧に」
「丁寧すぎて監査なんだよ」
監査。
嫌な単語が出た。
「いや、本当にそんな意図はなくて」
「わかってる。わかってるけど、わかりにくいんだよ。お前が一番」
その後、三橋店長は倉庫の整理、冷蔵庫の温度確認、ドリンクバー周辺の拭き直しまで始めた。
誰も頼んでいないのに。
さらに十五分後、バックヤードに「本日再点検実施中」というメモが貼られた。
誰が書いたのかと思ったら、店長だった。
「ちょっと待ってください」
僕は言った。
「本当に違うんです。私は監査でも本部でもなく、普通の大学生です」
「う、うん。もちろん」
三橋店長は笑った。
妙にひきつっていた。
「そういう設定で来てるんだよね」
「設定じゃないです」
大原さんが腹を抱えた。
「ほらもうダメだ。潜入調査ものになってる」
◇
二日目には、さらに悪化した。
出勤した瞬間、スタッフルームの空気が違った。
昨日まで雑に積まれていたマニュアルがきれいに並び、ロッカーの上にあった謎のお菓子箱が消えている。
「何があったんですか」
僕が聞くと、大原さんが死んだ目で答えた。
「お前だよ」
「僕?」
「昨日の夜、店長が閉店後ミーティング開いた」
「え」
「“普段から見られて困る状態はよくない”って」
「正論ではありますが」
「正論なのが余計に面倒なんだよ」
そこへ三橋店長がやってきた。
「おはよう、菅野くん」
「おはようございます」
「昨日は、その、貴重な視点をありがとう」
「新人の視点です」
「うん、もちろん。新人の」
店長は少し声を落とした。
「ちなみに今日、エリアマネージャー来るんだけど」
「はい」
「何か、伝えておいたほうがいいことってあるかな」
「何をですか」
「いやその、小峰店の取り組みとか」
「私に聞かないでください」
そのやり取りを、パートさんたちが横目で見ていた。
一人が小声で言う。
「やっぱり本部寄りの子なんだ」
「違います」
「聞こえてるよ!」
大原さんがすかさずツッコんだ。
「本人が全力で違うって言ってんだろ!」
ありがとう、大原さん。
この店で唯一、ちゃんと僕を新人として扱ってくれる人かもしれない。
だがその大原さんも、完全には助けてくれない。
「まあでも、菅野くん」
「はい」
「昨日、お前が“レジ前の導線が滞留しやすいので、メニュー立ての位置を再考したほうがよろしいかと”って言ったあと、店長が本当にメニュー立て動かしたら、ちょっと客さばきよくなったんだよね」
「たまたまです」
「たまたまでも嫌なんだよ。説得力が補強されるから」
嫌すぎる補強だった。
◇
そして昼。
エリアマネージャーが来た。
高瀬という男だった。
髪をきっちり固め、笑顔はきれいだが、目だけはずっと計算している感じの人だ。
「やあ三橋店長。最近どう?」
「はい! おかげさまで!」
三橋店長の声が裏返る。
「店内オペレーションも見直しを進めておりまして!」
「へえ。珍しく前向きだね」
高瀬マネージャーが店内を見回し、そして僕を見た。
「……そちらは?」
「新、新人バイトの菅野くんです」
「そう」
僕は一礼した。
「お世話になっております。菅野と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「うん。よろしく」
その時点では、まだよかった。
問題は、そのあとだった。
高瀬マネージャーが店内の席配置を見ながら、軽く言った。
「この時間帯、四人席の使い方、もう少し工夫できるかもね」
僕はただ、会話に参加しただけだった。
「差し支えなければ、ピーク時の二名利用比率を確認した上で再配置をご検討されると、判断がより明確になるかと存じます」
「……へえ」
高瀬マネージャーが僕を見る。
「詳しいね」
「いえ、本で少し」
「本?」
「接客の」
「そう」
三橋店長の額に汗が浮いた。
高瀬マネージャーが少しだけ笑顔を深くした。
「菅野くん、前にどこかでやってた?」
「初バイトです」
「本当に?」
「本当です」
「ふーん」
絶対、信じてない顔だった。
しかも三橋店長が横から余計なことを言う。
「すごく勉強熱心でして! 初日から視点が鋭くて!」
「店長」
「レジ導線の話とか、欠品対応の考え方とか」
「店長」
「私も学ぶところが多くて!」
「やめてください、店長」
高瀬マネージャーは完全に笑顔になった。
あ、これはだめなやつだ。
外面だけ良いタイプの人が、面白いものを見つけたときの顔だ。
「なるほど。面白いね、小峰店」
その言い方、絶対よくない。
◇
そこから地獄だった。
なぜか高瀬マネージャーは、僕にだけ細かい質問を振ってくるようになった。
「菅野くんなら、ドリンクバー周辺の改善点どう見る?」
「私に聞かないでください」
「率直でいいから」
「率直に申し上げると、補充タイミングの見える化があると現場判断がしやすいかもしれません」
「なるほど」
「あと、お子様用コップの位置が低すぎて、かえって取りづらいです」
「へえ」
「でも本当に新人です」
「うんうん」
高瀬マネージャーはうなずきながら、スマホに何かを打ち込んだ。
怖い。
なにを記録しているのか怖い。
大原さんが厨房の陰からささやく。
「お前、もうやめろ。喋るたびに店長の背筋が伸びてる」
「普通に喋りたいんですけど」
「その“普通”の初期設定が高すぎるんだよ」
結局、その日が終わるころには、他店舗からヘルプに来た社員にまでこう言われた。
「小峰店、いま本部案件入ってるって本当ですか?」
「違います」
「でもあの新人さん」
「違います」
「すごいですよね、圧が」
「圧じゃなくて敬語なんだよなあ」
大原さんが遠い目で言った。
◇
三日目。
僕が出勤すると、事務所に見慣れない紙が置かれていた。
『小峰店オペレーション改善 仮案』
下に箇条書きで、昨日僕が何気なく言ったことが全部書かれている。
・メニュー立て位置再調整
・補充タイミングの共有
・ピーク時座席運用見直し
・声かけ文言の統一
「なんですかこれ」
僕が聞くと、三橋店長が照れたように笑った。
「いやあ、せっかくなので形にしてみようかと」
「せっかくの意味が怖いです」
「高瀬マネージャーも関心持ってくれてるし」
「持たなくていいです」
「あと、来週の店長会で少し共有できたらって」
「なんでですか」
「菅野くんの気づき、他店にも参考になるかなって」
「新人のメモが店長会に?」
「うん」
「やめましょう」
「謙遜しなくていいよ」
「謙遜じゃなくて恐怖です」
大原さんが壁にもたれて笑っていた。
「もう無理だな。完全に“若手視察担当”の流れだわ」
「だから違うんですって」
「じゃあ一回、全員の前で言ってみたら?」
「何をですか」
「“私はただの初バイトで、みなさんが勝手に期待してるほど何者でもありません”って」
それだ。
それを言えばいい。
最初からそうすべきだった。
僕はうなずいた。
「言います」
「お、ついに」
「今日言います」
「がんばれ。たぶん悪化するけど」
「縁起でもないこと言わないでください」
◇
そして夕方、スタッフがそろったタイミングで、僕は言った。
「あの、皆さん。少しよろしいでしょうか」
パートさんもキッチンもホールも、なぜか静かになった。
三橋店長まで背筋を伸ばす。
そんな大げさな場じゃない。
ただの説明だ。
落ち着け、僕。
「まず前提として、私は本部の人間ではありません」
ざわっ、と空気が動いた。
「もちろん潜入視察でもありません」
ざわざわっ、とさらに動いた。
「初バイトの大学生です」
全員が無言で僕を見た。
よし。ここだ。押し切れ。
「したがって、これまで私が申し上げた内容についても、監査や評価の意図は一切なく、単に失敗を避けたくて確認していただけです」
僕は深呼吸した。
「どうか必要以上に身構えず、普段通りに――」
そこまで言ったとき、高瀬マネージャーが拍手した。
「素晴らしい」
「え?」
「“自分は何者でもない立場です”と先に言って、現場の本音を引き出すやり方。勉強になるなあ」
「違います」
「しかも“必要以上に身構えず普段通りに”か。圧を消す声かけまで完璧だ」
「違います」
「三橋店長」
「は、はい!」
「この子、面白いね」
「ですよね!」
店長、なぜそこでうれしそうなんですか。
パートさんが小声で言う。
「やっぱりすごい人なんだ……」
「違います」
「“違います”って言いながら一番それっぽいのよ」
大原さんが言った。
「もはや才能だろ」
才能にしたくなかった。
◇
その週の終わり、僕は事務所に呼ばれた。
ついにクビかと思った。
敬語が面倒すぎる新人として処理されてもおかしくない。
だが、部屋にいたのは三橋店長と高瀬マネージャーだった。
しかも二人とも、妙ににこやかだった。
「菅野くん」
高瀬マネージャーが言う。
「正式採用の確認も兼ねて、少し話をしたくてね」
「はい」
「結論から言うと、ぜひ続けてほしい」
「ありがとうございます」
「できれば、普通のホール業務だけじゃなく」
嫌な予感がした。
「新人教育の補助にも入ってほしい」
「……はい?」
「言葉遣い、姿勢、確認の精度。見習う点が多いから」
「いや、待ってください」
「あと、他店の店長会で一度だけ、改善事例を共有してもらえないかな」
「待ってください」
「題材は“小峰店における現場目線の確認文化”で」
「待ってください!」
僕は人生で初めて、ファミレスの事務所で大声を出した。
「僕は! 本当に! ただ失敗が怖くて! 敬語を勉強しすぎただけの大学生です!」
静まり返る部屋。
高瀬マネージャーは腕を組んだ。
三橋店長は感心したようにうなずいた。
「その自己分析もできるの、すごいよね」
「だめだこの人たち」
僕の隣で、大原さんが腹を抱えていた。
いつの間にいたんだ。
「菅野くん、おめでとう」
「何がですか」
「お前、初バイトで店長より上の仕事振られてる」
「全然めでたくないです」
「しかも理由が敬語」
「そんな出世コースあります?」
高瀬マネージャーは満足そうに立ち上がった。
「じゃあ決まりで。来月から“接遇強化サポート”としても期待してるよ」
「肩書きが生まれてる」
「名札、変える?」
三橋店長が言った。
「“新人”だと誤解されるかもだし」
「いや僕は新人です」
「“指導補助”とか」
「やめてください」
「“トレーナー候補”は?」
「やめてください!」
大原さんが笑いすぎて壁にもたれた。
「もう名札に“ご査収ください”って書いとけよ」
「絶対嫌です」
その日の帰り、更衣室で僕はロッカーに額をつけた。
初バイトで、なぜこんなことになったのか。
ただ丁寧にやろうとしただけなのに。
すると大原さんが隣で着替えながら言った。
「まあでもさ」
「はい」
「お前、向いてるよ」
「何にですか」
「人に圧をかけずに圧をかけるの」
「最悪の評価ですね」
「褒めてる」
「なお悪いです」
僕はため息をついた。
そのとき、更衣室のドアが開いて、三橋店長が顔を出した。
「あ、菅野くん。来週から新人入るから」
「はい」
「教育、お願いできますでしょうか」
店長はものすごく丁寧だった。
僕は天井を見た。
「……ご査収ください」
「何を」
「絶望をです」
本作は制作過程でAIを活用しています。公開にあたり、内容は作者が確認のうえ調整しました。




